第5章 隻眼の魔女 ③

 早く帰ってきてね!――夏姫の言葉が頭をよぎる。


 悪いな、夏姫。もう少しかかりそうだ。


 ビルの屋上――その中心で足を止めて振り返ると荊棘おどろが微笑を浮かべていた。


「暗いねぇ――こんなところでいいのかい?」


「夜目が利くっつったろ」


「じゃあ対等だね。私も夜目が利く方なんだ」


 相変わらず嬉しそうな荊棘おどろ。腰を落として半身に構えると、荊棘おどろが一歩前に出た。


「準備はいいかな?」


「いつでも」


「では――殺し合おう愛し合おう


 言って荊棘おどろが床を蹴る。


 追いかけっこでわかっていたが、荊棘おどろは恐るべき身体能力を有している。俺と同等以上だとは思っていたが、パワーと体の頑強さは確実に俺に勝る。スピードは互角――テクニックは未知数だが、場数から言ってなまくらじゃないだろう。


 その荊棘おどろがまっすぐ懐に入ってくる。手に得物はない――自身が度々口にしているように、拳で殴るのが好きなようだ。


 バーでの乱暴な攻撃と違い、両手をコンパクトに構える荊棘おどろ。前に置いた左拳で丁寧に二度、三度と突いてくる。鋭いジャブだ。


 高い技術が伺える――しかし何より怖いのはその異常性だ。攻撃に殺気が伴わないせいでタイミングが掴めない。勘が働かず、応戦に高い集中を強いられる。


 前に置いた右手でジャブをいなす。三発目をいなした手でそのまま荊棘おどろの顔を打つ。


 手応えはあったが、同時に脇腹を抉られるような衝撃。拳打を誘って左ボディ――肝臓打ちレバーブローを打ってきやがった! 俺自身の腕で奴の左手が死角になり、備えることもできずにまともにもらってしまう。


「ちぃっ――」


 たまらず距離を置く。


「いいねぇ。苦痛に歪むその表情――ぞくぞくする」


 切れた唇から垂れる血を舐め。荊棘おどろ。俺の拳は浅かった――が、奴の拳はそうでもない。肋骨は折れちゃいないようだが何度ももらえばその限りじゃないし、その奥にある肝臓が心配だ。


 後手に回っては不利か――そう考えて今度はこちらから仕掛ける。


 間合いを詰め、ジャブを意識させて前足を踏む。反射的に抗って退ろうとした瞬間体重を乗せ、逃さない。動きが固まったところにショートフックから返しの左ストレートをお見舞いする。


 しかし――


「ぁぁああああっ!」


 荊棘おどろは左ストレートを食らいながら自身の右を振ってきた。相打ち狙いの一撃――こちらも打っているせいでそれを躱せず、奴の目論み通り相打ちになる。


「ぐっ――」


「嗚呼、素敵だよアタルくん! いいコンビネーションだ、とても痛いよ!」


 口から血を飛ばして荊棘おどろが宣った。


「私のも感じてくれてるかい?」


「――一人で勝手に感じてろ!」


 完全にイった目で喚起の声を上げる荊棘おどろ――その髪を掴み、鼻っ柱に頭突きを見舞う。


「かはっ……!」


 割れた額で打ったのだ、こちらも痛みが走るが荊棘おどろの方のダメージはもっと大きい。鼻が折れたらしく鼻血を噴出させて喘ぐ。


 顔が上がったところを外腕でさらにのけぞらせ、足を刈る。尻餅をついて無防備になる荊棘おどろ――その腹部に左拳を振り下ろす!


「……っ!」


 息を詰まらせる荊棘おどろだったが、その表情は苦悶のそれではなく恍惚の貌だった。その怖気にぞくりとして追撃を一瞬躊躇うと、空を裂く音が耳朶を叩く。


「――っ!」


 反射的に跳び退ると荊棘おどろが倒れたまま蹴りを放っていた。死角から弧を描くようなその蹴りを躱しきれず、つま先がこめかみを掠る。


「……ずるいよぉ、アタルくん……私にも殴らせてよぉ」


 のそりと起き上がる荊棘おどろ。やはり鼻が折れたらしく、鼻梁がそっぽを向いていた。


「――おっと、これは恥ずかしい」


 荊棘おどろはそう言って曲がった鼻を無理矢理正す。流れ出る鼻血をブラウスの袖で拭い、


「どう? 美人の私に戻った?」


「……笑えねえよ」


「それにしても魔眼を使わずにその強さか――さすがだね。君ならきっと私を満足させてくれるに違いない」


「……どこまでこじらせてんだ」


「ちょっと性癖が歪んでいるだけさ。さあ、もっと殴ってくれ。君に打たれただけ、君の顔をぐちゃぐちゃに――」


「――付き合いきれねえよ!」


 口上を遮って仕掛ける。


 魔眼を使えば仕留められるかもしれないが、荊棘おどろはまだその異能を見せていない。対して俺は先のバーでだいぶ魔眼を使っている。荊棘おどろの異能に抗するため、今は魔眼を温存したい。


 なので、魔眼ではなくナイフで攻める。バトルナイフを抜くと荊棘おどろは一層目を輝かせた。


「――いよいよ使うかい、それを!」


「卑怯とは言わないよな?」


「まさか――好きにしたらいい!」


 対坂場で荊棘おどろは俺のナイフを目にしているはず。いきなり首を狙っても届かないだろう。


 前にある左手を狙う。退がる荊棘おどろ――追ってナイフを突き出すと奴はそれを掻い潜って詰めてくる。逆手に持ち替えて振り下ろすが、荊棘おどろは深追いをせずに跳び退った。


 やはり――ナイフ相手では相打ちは狙わないらしい。


「ふぅ……この緊張感、たまらないね」


 荊棘おどろはやや前傾に構え、


「でもやっぱりナイフそれじゃノリきれないんだよねぇ」


 そう言った。そして眼帯を外す。その下の目が露わになる。


 昼間見た時は闇を落としたような黒色だったそれが、今は赤くかがやいていた。




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