第5章 隻眼の魔女 ②

 荊棘おどろが髪を振り乱し、タクシーを追ってくる。


「――――!?」


 バックミラーに映ったそれに驚いて運転手はアクセルを踏み込んだ。しかし遅かった。車全体を揺らす大きな衝撃――荊棘おどろがナイフの様な物をトランクに突き立てて車によじ登ろうとしている。


「――I'll be backってか――冗談じゃねえ!」


 グロックを抜いて荊棘おどろに向ける。リアウィンド越しに目が合うと荊棘おどろは喚起の笑顔を見せた。


 奴は今、車にしがみついていて大した身動きがとれない。今撃てば当たるだろうが――撃つのか? 公安を? そして連中に追われる日々をこれからずっと過ごすのか?


 引き金に指をかけられない。そして――


「――うわぁ!!」


 バックミラーで見たのだろう。俺の銃に驚いた運転手が叫び声を上げて急ブレーキを踏む。ABSのお陰でタイヤはロックしなかったものの車は大きくつんのめり、慣性で荊棘おどろは吹っ飛んだ。リアガラスにぶつかり、転がるように天井へ――そのまま車の前に落ちる。


 いっそそのまま轢かれてくれと思ったが、車はもう一度がくんと揺れて停止した。前方に落ちた荊棘おどろがグリルとバンパーを掴んで止めたらしい。


 急ブレーキのせいでスピードは出ていない。万全なら俺も似たようなことはできるが、この状況でそれをやるかよ……!


「修理費は公安に請求してくれ! 運賃もな!」


 車から降り、歓楽街の路地に飛び込む――あんな芸を何度も見せられればさすがに通報されるだろう。警官が駆けつければ不利になるのは俺の方だ。


「待ってよぉ」


 背中に荊棘おどろの声がかかる。肩越しに振り返ると車か地面で打ったのか、俺と同じように額から血を流す荊棘おどろの姿があった。その声の甘さに背筋を冷たい物が伝う。


 周囲からはどのように見えるだろうか――俺としてはパニック映画の主人公気分だが、奴は砂浜で恋人を追いかける自分を夢想していそうだ。


「この手は使いたくないんだけどなぁ!」


 荊棘おどろが叫ぶ。


「結局のところ、お姫様だってスカムの構成員じゃないんだよねぇ?」


 ――その言葉には足を止めざるを得なかった。立ち止まり、反転する。


 この状況で不意打ちは矜持にでも触れるのか、荊棘おどろもまた足を止めていた。


「――おい」


「あの娘をお姫様扱いするのは君と対話するための条件。もうそれは済んだし、君が蛇を始末して私たちは天龍寺兼定を解放した。取引は成立している。改めて天龍寺夏姫だけ捕らえに行かせてもいいんだよ?」


「あんたらの仕事じゃないんじゃなかったか?」


「異能犯罪では立件できないからねぇ。けど、銃刀法に不正アクセス、君に銃を用意しているのだから殺人幇助もあるよねぇ……彼女も決して無罪じゃない。地元警察に点数を稼がせてあげてもいいかなぁ」


「――そんなもん、あんたらは後出しでどうにでもできるだろ。だったらあんたとやり合うだけ損だ」


「そんなこともないよ? 彼女の罪状を表に出すのならどうしたって司法取引が明らかになる。さすがにそれはねぇ――蛇を始末できるのならスカムは昼間の話通り、天龍寺夏姫の罪状については闇に封じることになっている。私の上司は勿論、部下からも彼女の罪が語られることはないよ」


 そう言って荊棘おどろはにやぁっと笑った。


「彼女の罪を暴くのは私だけ」


「それをするのはデメリットがあるんじゃないか?」


「まぁね。けど君と殴り合えないのなら自棄になってしまうかもなぁ」


 嬉しそうに言う荊棘おどろは大袈裟に驚いてみせ、


「おっと。こんなやり取りをしなくても、私が直接天龍寺夏姫を手にかければ怒り狂った君が私を襲いにきてくれるかなぁ?」


 事務所の場所は押さえられている――マンションもだ。昼間発信器をつけたままマンションに戻っているし、そうじゃなくても調べはついているだろう。


「私を殺さなきゃ天龍寺夏姫が酷い目に遭うよ?」


「……あんた、取引で嘘は吐かないんだったよな」


「勿論。どんな相手とでも約束したことは反故にしないよ。これでも正義の味方だからね、嘘は吐かないんだ」


 愛を語るかのように、荊棘おどろ。逆に明言しないことは何でもやるというわけか。


「……取引だ。あんたが望む殺し合いに付き合ってやる。その結果がどうであれあんたは金輪際夏姫に関わるな」


「彼女が異能犯罪に手を染めたとしても?」


「あんた以外の公安が正規の手順で捜査するのは構わない。だがそれでもあんたはその捜査に関わるな。サボるなり辞めるなり、関わらない方法はいくらでもあるだろ」


「一発手を出して殴り合った、なんて無粋なことは言わないよね?」


「ケリが着くまでやってやる」


 告げると荊棘おどろは嗚呼と感嘆し、体をくねらせた。


「変態が……」


「それはもう飽きたよ。別の言葉でなじって欲しいな」


「生憎と言葉責めは不得手でな。バリエーションがないんだ」


「残念だ――では、君が得意な殺し合いをしよう。約束する――この殺し合いの結果がどうであれ、私は今後天龍寺夏姫に関わらない。私が死ねば当然関わりようがないし、生き残っても手を出さないと約束する――これでいいかな?」


 やるしかない、か。これでやっぱり嫌だとでも言おうものなら、荊棘おどろは自身が言ったように回れ右して夏姫を襲いに行くだろう。


 奴を止めるには、もうやり合うしかない。


「――場所を変えようぜ。邪魔が入るのはあんたも本意じゃないだろう?」


「ああ。君と私の甘い時間だ。邪魔はない方が望ましい」


「……異常者め」


「いいよ――その調子で。気に入ったから場所は君に選ばせてあげるよ」


 荊棘おどろは嬉しそうにそんなことを言うが、邪魔が入らず殺し合いができる場所なんてそうそうない。


 人通りのない路地裏か、閉店したバーか、歓楽街のビルの屋上か……そのくらいだ。


 丁度、歓楽街のビルの真横だ。俺は無言でビルの壁を登る。


 荊棘おどろはふふふと笑いながら着いてきた。


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