第5章 《魔女》の再臨、あるいは誕生 ⑩

「……すみませんでした。俺が取り乱したせいで……せっかく先輩は上手くやってたのに。でも椿姉も言ってたじゃないですか。むしろ椿姉の口ぶりじゃあ先輩にとってプラスに」


「……そうじゃない、です」


「……ああ、お役目ご免ってことですか。そりゃそうか、今の先輩なら《魔女》の制御も時間の問題だし、今日は完全に俺が足引っ張りましたもんね。そういうことなら、有り難く――」


「――君には」


 いただきます、とは言えなかった。《魔女》になった真那さんに遮られる。


「――私がそんな薄情な女に見えているのかな。たったの一度、トラウマの権化に不意に迫られ、ほんの少し取り乱したくらいでもういらないと、そんなことを言う女に見えているのかな。だとしたら――たとえ明日からもう会うことはないにしても……少し悲しいな」


 涙を拭こうという気配はない。逢坂さんのハンカチをぎゅっと握りしめ、涙が落ちることも厭わず彼女は俺をまっすぐに見つめてそう言った。


 そんな真那さんに問う。


「……俺がお役御免って話じゃないならどうして最後だなんて言うんですか?」


「私にもう《魔女》になるつもりがないからだよ。本当は今も変身するつもりはなかった。だけど――こうでもしないとちゃんとお別れができそうになかったからね。私が《魔女》にならないなら君に協力してもらう理由がない」


「なんで――上手くやれていたじゃないですか。さっき椿姉に聞かれて答えましたよね。素敵な《魔女》になりたいって」


「うん。そして無理だとも言った」


「無理じゃないですよ。今だって――正直驚いてますよ。もう今日は精根果てて《魔女》になれないと思っていました」


「……正直に言うと、君と花村先生の前で《魔女》になるのはもうそれほど負担ではないんだよ。最初に君にされたように意地悪されたりしなければね」


「あれは――ああ、はい。すみませんした」


「いい。あれは必要なことだったと話したじゃないか。忘れてくれとも」


「言い出したのは先輩ですよ」


「ふふ、そうだったな」


 泣きながら笑う真那さん。


「そんな風に笑えるのに、なんで」


「失敗したからだよ。もう嫌だ。ああ、この言い方では君のせいに聞こえてしまうね。私はね、君を守りたかったんだ。あの場が《魔女》の再臨になっても構わなかった。私はどんな犠牲を払っても芝木くんから君を守りたかった。けれど失敗した。君はこの一月、どれだけ私を気遣ってくれただろう。優しくしてくれただろう。結局君は毎日欠かさずこの保健室に足を運んでくれたね。嬉しかった。楽しかった。君は罪な男の子だよ。禄に他人と話すことが出来ない私がそんな風にされて――好意を抱かないわけがないだろう?」


 真那さんの顔が苦痛に耐えるように歪む。言いたくなかった――そんな顔だ。


「そんな君が困っていた。怯えていた。何に代えても守りたいと思った。けれど――失敗した。できなかった」


「……先輩が止めてくれなければ、俺は今頃良くて退学、悪けりゃ傷害で捕まってますよ。正直頭に血が上ってて――手が出る寸前でした。先輩は立派に俺を守ってくれました」


「本当に?」


「ええ、本当に」


「――ではなぜ、君は今そんなにも傷ついているのかな?」


 ……言葉が刺さるというのはこういうことか。真那さんの言葉が胸に響く。


「私がしたのは君を止めたこと。そのせいで君が隠したかった事実を暴いて、結果君を傷つけた。守ったわけじゃない。助けることもできなかった。自己満足の行動で君を苦しめている。逢坂さんといい君といい――私に優しくしてくれる人は私の《魔女》のせいで苦しむんだ。もう私に親切にしてくれる人が私のせいで苦しむ姿を見たくないんだよ……」


 彼女の声にいつもの凜とした響きはなかった。もう仮面を被るので精一杯といった風だ。


 けれど、それは俺も同じだ。


 心が重い。打ちのめされた気分だ。これが傷ついているというのならそうなのだろう。


 ……だけど、俺はどうしてここまで傷ついているのだろう。一番大きな原因は何だ。芝木か、真相が暴かれたことか、それとも別の――……


「……客観的に見て、先輩の対応は口撃力が高過ぎた以外はベストだったと思います。あれ以上の対応はなかった」


「攻撃……? いや、口撃か。面白い言葉がでたね。君は余裕がないときほどペースを保とうと嘯くことがある。花村先生にオムライスを要求したときのように真面目な顔で戯けてみせたりね。そうさせてしまっているのが私自身だと思うと消えて失くなってしまいたい気分だ」


 ……くそ、見抜かれている。俺が真那さんを知っているより、真那さんは俺を知っているかもしれない。


「……ルーティン」


「……え?」


「私に教えてくれたルーティン。できるんだろう? した方がいい。顔色が悪いよ」


 それほど顔に出ているのか。


 言われるままに丹田に力を込めて呼気を吐く。いつもなら落ち着くはずの息吹だが、体感できるような効果は何もなかった。気分は陰鬱なまま。心は重く、胸が痛む。


「……ここまで追い詰められると効果がないみたいですね。お互いに憶えておきましょう」


「ごめんな、悠真くん……そんな風にさせているのは私なのにな。もう私に気を遣わないでくれよ……」


「それは無理ですよ。したでしょ、約束。握手したじゃないですか」


「まだ一月ほどしか経っていないのに、なんだか懐かしいな」


 真那さんの苦痛に満ちた表情が少し和らぐ。


「《魔女》の字(あざな)の話もしたよな。他ならぬ君が《魔女》のイメージを変えてくれた。君は《魔女》を呪いの字にしないで欲しいと言ったね。その点は安心してくれ。私はもう《魔女》の名を呪いと思っていない。私にはその名が重すぎただけ――もう、背負えない」


 先輩の言葉が続く。


 ここに来てこれほど重い説得ロールが待っているとは思わなかった。生憎と俺が持っているのはイカサマめいた鍍金のダイス。そんなまがい物では到底通らない――真那さんの言葉にはそんな風に思わせる力があった。


「……私はもう素敵な《魔女》を目指せない。君が保健室に通う理由もなくなる。だから今日が最後の茶会だ」


 ……このままでは明日から茶会が開かれることはなくなるだろう。先輩はきっと卒業までこの保健室に通い、たった一人で卒業していくだろう。


 そして俺はもう、先輩に会うことはない。


 ……それは、嫌だ。




 絶対に嫌だ。




「嫌です」


「……は?」


「最後は嫌です。明日も来ます」


「……来たところで、私がもう折れている。意味はないよ」


「先輩は勘違いしてますよ。俺が傷ついているのは、真相が暴かれたからでも、芝木と会ったからでもない。先輩がこのことで折れてしまうんじゃないか――そう思ったからです。今わかった」


「今わかったって、君……」


「俺が一番キツかったのは、先輩と合流して保健室に戻る道中です。どうやって先輩をフォローしようかって。一番ヤバイと思ったのは、逢坂さんが出てきて先輩が逃げ出したときだった。これは痛恨事だと思いましたよ。だから、先輩が俺を傷つけたわけじゃない。一番嫌なのは明日から先輩が淹れる紅茶を飲めないことですかね」


「……今日の茶葉も分からないのに?」


「何を飲んでるかなんて正直どうでもいいですよ。誰が淹れてくれたか、です。先輩風に言うとすれば――精一杯頑張って目標に向かって努力する。そんな女の子が自分に懐いて、頼ってきて、努力をねぎらえば嬉しそうに笑ってくれる――しかも一周回ってちょっと引くレベルの美少女ですよ。好きにならないわけがない」


「――……好き? 君が、私を? 本気か?」


「ええ、まあ。自分がこんなに節操ないとは思わなかったんで結構凹んでます。先週母さんにバラされましたけど――俺、中三まで椿姉が好きだったんです。でもちゃんと失恋してなくて。決別したのが先輩と知り合った前の日です。正直当分愛だの恋だのご免だと思ってたんですよね。椿姉から先輩は美人だと聞いてましたけど、ハマるとは思ってませんでした」


 俺の言葉に、真那さんは額に手を当てて顔を伏せた。もう少し反応があるかと思ったが……ないならないでいい。伝えるだけだ。


「まあそういうわけなんで、どうしても先輩がもう《魔女》を背負えないと言うのならそれでもいいです。それとは関係無く明日も来ますよ、俺は。まあ当初の目標を果たして卒業してくれるのがベストですけど、先輩は十分頑張った。先輩もこのまま卒業しても今の学校生活を温かい気持ちで振り返られそうだって言ってたじゃないですか。その線で行きましょう」


「……どうして」


「うん?」


「どうしてそんなことが言えるんだ。私を更正させる――それが花村先生に依頼されたことじゃないのか?」


「椿姉が本気でそんなことを誰かに頼むと思ってるんですか? それを俺が受けると? 椿姉が俺に本当に頼みたかったことは、俺が真那さんと知り合って、交流して、お互いに刺激を与え合うことですよ」


「……お互いに?」


「……俺が気づいていることは内緒ですよ。これ、俺のリハビリも兼ねてるんです。先輩の話相手っていうのは椿姉が俺の為に用意した逃げ道です。頼まれたからやってるんだって体なら俺も恥ずかしげなく毎日顔を出せますからね。それに、本当に先輩の気持ちが折れているのなら無理に頑張れとは言えませんよ。俺だって言われたくない」


「ああ、そうか――君も……そうだったね」


 俺の部屋での話を思い出したのか、先輩が頷く。


「……君はそれでも私を気遣って、話を変えてくれようとしたね」


「……我ながら雑な振り方でしたね」


「そんなことはどうでもいい。私を気遣ってくれる気持ちが嬉しいんだよ……本当にいやらしい男だよ、君は。私みたいな孤独な女をそんな風に扱ったらどうなるかわかるだろうに」


「……舞い上がってたんです」


「そんな風には見えなかったよ」


「これでも元アスリートですよ。どんな危機的状況でも自信ありげに見せるんです。それが自分を強者に見せる」


「そういうものかい?」


「そういうものです」


「……そう返されては会話が続かないね。まさか適当に返しているわけではあるまいな?」


「……憶えてましたか。会ったばかりの頃にこんな話をしましたね」


「君と知り合ってからは毎日が刺激的でね……そうそう忘れられないよ」


 そう言った真那さんは俯き、今度こそ会話が途切れる。何も言えなかった。しばらくして顔を上げた先輩は、頬杖をついて俺と目を合わせないよう視線を伏せる。涙はまだ流れていた。


 沈黙が続く。手をつけていないケーキのクリームが溶け始めていた。バランスが崩れたイチゴが今にも皿に落ちそうだ。その頃にようやく真那さんが口を開き――


「……好きな男の子に好きと言ってもらえることが、こんなに嬉しいとは思わなかった」


「……それは、まあ……そうですか」


「茶化さないのかい?」


 顔の向きは変えず、視線だけをこちらに向けて真那さんが言う。その言葉に答える。


「空気は読めるんですよ」


「……なあ、聞いていいかな」


「どうぞ?」


「……君は、素の私と《魔女》の私――どちらが好きなんだろう?」


「いつか気持ちを伝えたら絶対聞かれると思ってました。両方です。素の先輩は可愛い感じだし、《魔女》先輩は格好いいです。ちょっと選びがたいですね」


「……それは予想外だな。君は《魔女》と答えると思っていた」


「……どうして?」


「君が私を《魔女》にしようと頑張るからだよ」


「それは、先輩が素敵な《魔女》になりたいって言うから。だから先輩が《魔女》を目指すの

をやめてもここに来なくなる理由にはなりませんよ。まあ、惜しいとは思いますが」


「惜しい?」


「魅力の方向性が違いますからね。ああ、一般的な話ですけど――恋人だけに見せる顔、とかいうやつがあるじゃないですか。それの振り幅が極端にでかいというか」


「まさか《魔女》をそんな風に言うなんてな。尊敬と憧憬の字じゃなかったのかな?」


「年上を好きになるのって憧憬の延長じゃないすか?」


「……そう言えば君は花村先生を好きだったんだものな。しまったな、これは失態だ」


 そう言って真那さんは瞳を閉じて、瞑目する。


 そして、再び訪れた長い沈黙の後。


「……私が素敵な《魔女》を目指すと今から意見を変えたら、君は喜んでくれるだろうか。それとも好きな男の子の気を引きたくて仕方がない浅はかな女に見えるだろうか」


「自分の為に頑張ろうとする女の子とかぐっとキますね」


「……そういう答えは求めていなかったのだけれどね……」


 真那さんはそう苦笑して――


「悠真くん」


「はい」


「君が相手だから正直に言うよ。今日はもうダメだ。ボロボロだ。感情の振り幅が大き過ぎて精根尽きた。色んなことがありすぎて、もう何もしたくないというのが本音だよ。家に帰って何も考えずに泥のように眠りたい――そんな気分だ」


「……俺もですよ」


「自分から気を持たせるようなことを言ったくせに、君との関係性が決定づけられる言葉を紡げない。最悪な女だ。君から言ってくれと言うわけじゃないよ? 私から言い出したのだ、私から切り出したい気持ちはある。だがそれを伝える言葉を紡ぐ気力がない。君の気持ちを聞いて嬉しいのは確かなのだが、現実に起きていることと思えないというか――」


「ああ、それもわかります。俺もそんな感じです」


「……そうか。君もか」


「今日は色々ありましたからね」


「ああ……だから、悠真くん」


「はい」


 先輩はいつの間にか泣き止んでいて――それでも涙でくしゃくしゃの顔で、素っ気なく。


「明日はお茶請けにマカロンを用意しておく。今日の所はこれで勘弁してもらえないだろうか」


「……はい、約束ですよ」


 そう答えて、俺は彼女に右手を差し出す。


 先輩は顔を伏せて――それでも隠せないほど真っ赤な顔で俺の手を握り返した。




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