第5章 《魔女》の再臨、あるいは誕生 ⑤

 五分もかからずに合同校舎へ辿り着く。場所を知っているだけで中に入ったことはない。工業科と農業科、それらに属する生徒が使用する特別教室が集中している校舎で、普通科の俺に用はない。


 勝手のわからない校舎だが、校舎の造りは普通科のものとそう変わらないはずだ。しかし足を踏み入れた途端に普通科のそれと雰囲気が違うことに気づいた。


 目に留まったのは昇降口前のマットだった。普通科のマットは角が揃いぴしりと綺麗に敷かれているが、ここのそれは皺がより、端には裂け目もあった。


 たったそれだけで印象がまるで違う。荒廃しているとは言わないが、皺を寄せてしまっても直さない生徒がいる、ということだ。


 それを踏み越えて東西に伸びる廊下を見回し、発見――真那さんは少し行ったところの壁際に立ちそして二人の男子生徒に囲まれていた。さらにそれを遠巻きに眺める数名の生徒。


 今は昼休みで人の通りが多いし、そんな所に普段は現れるはずのない進学科の女子がいれば目立つに決まっている。こんな状況は予想の範囲内だが――あとは揉めずに真那さんを連れ出せるかだ。


 ギャラリーはかきわけるほど大勢いるわけではない。その生徒たちの間を通り抜け、真那さんと二人に近づく。


「先輩、別になんもしたりしねーすから、ライン教えてくださいよー」


「馬鹿お前先に名前聞けよ。つか超恥ずかしがってんのマジ可愛い過ぎなんだけど」


 自分からそこに行ったのか、はたまた彼らに追い詰められたのか――壁を背にする真那さんと、逃がさないように左右から声をかける二人。二人の背中から近づいたせいで二人は俺に気づかないまま真那さんに夢中だ。


 真那さんの方は、新たに接近する人影に気づき、怯えた様子で顔を上げ――


「――悠真くん!」


「迎えに来ましたよ、先輩」


 二人から逃げるように飛び出し、俺の背後に隠れる。


 面白くないのは二人だ。ナンパ(と言ってもいいだろう)を邪魔された形だ、不機嫌そうな表情で振り返り、俺の背中に隠れた真那さん――ではなく、俺を睨む。


「あー、誰、お前?」


「普通科のセンパイじゃん? 工業科に用事っすか?」


 二人ともタイの色は一年。さっきは背中からで見えていなかったが、制服の着こなしから耳のピアス――工業科に集中するタイプの後輩のようだ。まあ、同じ学校ってだけで科も違うし上も下もあったもんじゃないが。


「悪いな、この人迷子になってたんで迎えに来たんだ。用事もあるしすぐに出てくよ」


「センパーイ、俺らそっちのセンパイと話してたんだけど?」


「あんたは用事行っていいっすよー。俺らはそっちの可愛いセンパイにしか興味ねえし」


 ぎゃはは、と笑う二人。


 こうなるか、なるよな……


 まともに相手をしても面倒が増えるだけだろう。三十六計逃げるに如かず、だ。


「本当に急いでるんだ。悪いな」


 そのまま踵を返し、真那さんを連れて立ち去ろうとする。しかし――


「そりゃねえよ、センパイ。人の茶碗とりあげるようなことすんなよな」


 ――そう上手くはいかなった。後ろから肩を掴まれ、強引に振り向かされる。


 言い訳にすぎないが、本当にそのつもりはなかった。椿姉に釘をさされていたし、真那さんに力の使い方を説かれたばかりだ。


 けれど無理矢理振り向かされたことで体が反射的に動いてしまった。体が回り切るより早く――そして相手が何かするより先に手のひらで相手の顔を覆い、視界を奪う。急に視界を奪われて反撃出来る奴はそうはいない。咄嗟に逃れようと体を泳がせた相手の軸足を崩し、転倒させる。


「っ――」


「――悠真くんっ!」


 相手の呻き声と、真那さんの叱責の声。仲間意識が強いのか、剣呑な空気を帯びるギャラリー――それらにはっとして、慌てて転ばせた相手に手を差し伸べる。

「わ、悪い――急に仕掛けてくるからつい――大丈夫か? 怪我は?」


 あくまで軸足を刈っただけ、蹴った訳じゃない。それでも尻餅をついている。固い廊下についた手を傷めていないとは限らない。


 しかし、当の尻餅をついた生徒はにわかに殺気立つ周囲を余所に、その姿勢のまま呆然と俺を見上げていた。


 そして、おずおずと。


「普通科……悠真……今の動き……あんたもしかして、羽瀬悠真さんじゃないですか?」


「……ああ、そうだけど……俺のこと知ってるのか?」


 頷いて尋ねると、彼は勢いよく立ち上がり――


「――すみませんしたぁ!」


 無駄に整った姿勢で頭を下げた。手を後ろで組み、背は四十五度。体育会系のやつだ。


「お、おう……俺も咄嗟のこととは言え悪かったな?」


「とんでもないっす! ――馬鹿、お前も頭下げろよ!」


 言いながら、彼は連れにそう促す。


「はぁ……すみませんした」


 促され、しぶしぶと言った様子で頭を下げるもう一人。和解ムードに、周囲のギャラリーは退屈そうに解散していく。


 はあ……なるほど。見えてきたぞ。


「お前、空手部か」


「押忍、小菅陽といいます。連れは違うんすけど、俺は空手部です」


 ……それで俺のことを知っているんだな。自分で言うのもあれだが、俺は同年代の空手経験者の間じゃちょっとした有名人だからな。


「……お前なぁ、空手やってて先に手を出すのはねえだろ」


「すみませんした! ちょっと脅かすつもりで、殴ったりするつもりは……」


「そういう問題じゃねえだろ。お前、帯の色は?」


「一応、黒を……」


「だったら高校から空手始めたってわけじゃないだろ? もっとよく考えろ」


 自分で言っていて耳が痛い。耳が痛いが、取りあえず今は心の棚に自分を置いておこう。


「押忍、すみませんしたぁ!」


「もういいよ……俺も咄嗟とは言え、手が出ちゃったし。悪かったよ……じゃあ俺らはこれで行くけど、文句はないな?」


「あの、羽瀬先輩!」


 言い残して立ち去ろうとし――今度は言葉で止められる。


「……なんだよ」


「あの、俺――羽瀬先輩のことマジでリスペクトしてて! 全国獲った決勝、マジでシビレたっす! 先輩ガタイよくないのに、自分より大きい相手も全然寄せ付けなくて……俺もガタイ良くない方なんで、先輩みてえになりたいと思ってて!」


「お、おう……そうか、サンキューな」


「先輩が桜星入りしたって聞いて、俺この学校受けたんすよ! 上の人らから先輩は故障で引退したって聞いたんすけど……俺、先輩マジリスペクトなんで! もし良かったら一度稽古つけてもらいたくて……お願いしゃっす!」


 そう言ってまたしても頭を下げる――ええと、小菅、か。


 真那さんを迎えに来てなんでこんなことになってんだ……


 見知らぬ後輩に尊敬を伝えられるのは、まあ悪い気はしない。それでももう俺はこの学校の格技室に顔を出すつもりは――


 どう断ろうか悩んでいると、俺の肩にそっと手が添えられた。真那さんだ。俺を見上げるその目には、何かを信じるような力が込められていた。


 真那さんが、その目でまっすぐに俺を見つめてる。


 ……………………わかった。降参だ。


「俺はもう空手を辞めたんだ。稽古をつけてやることはできない」


 俺の言葉に目に見えて落胆する小菅。


「――けど、花村先生を通せば部活の見学くらいはできるはずだ。俺が卒業するまでに必ず一度はお前の空手を観にいってやる。それでいいか」


「――! あざます、光栄です!」


「あとお前、花村先生に熱心に指導してもらえてないだろ」


「わかるんすか? そうなんすよ、基本的なことしか教えてもらえないんすよ。他の一年は個別指導もしてもらえてんのに」


「ピアスと制服着崩すのをやめろ。あの人は不良嫌いだから」


「――え、それでなんすか? 個人の自由じゃないっすか?」


「花村先生が給料以上の仕事をするかどうかも個人の自由だ。気に入られたきゃ卒業まで我慢しろ。俺が《魔女の弟》だって知ってるなら、あの人が俺の姉弟子だってのも知ってるだろ? 俺をリスペクトしてるっていうならあの人に習え。俺を鍛えたのはあの人だ」


「――押忍、今日からピアス止めます!」


「おう。じゃあもう行くぞ、いいな」


「押忍、お疲れ様でした!」


 大きな声と礼で見送られ――俺と真那さんは合同校舎を後にした。




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