第5章 《魔女》の再臨、あるいは誕生 ③

「答えろよ、芝木くん。君が卑劣な手段を用いて悠真くんから空手を奪ったんじゃないか?」


 真那さんの――《魔女》の発する言葉にその場の全員が呑まれた。芝木や取り巻きだけでなく、遠巻きに好奇の視線を向けていた連中さえまるで自分が喉元にナイフを突きつけられたような青い顔をしている。


「……先輩、もうやめてくれ」


 すでに手遅れかも知れない。それでも衆目の前で芝木に自白させてはならない。これだけの人の前で真相を明らかにしてしまえば口止めなんかできやしない、話はどんどん広がってしまうだろう。学校側の耳に入るのも時間の問題で――そうなれば、学校は空手部に事実確認を求めるだろう。


 そして事実と確認できれば、空手部に処分が下る。


「やめろ? どうしてだい? これは明らかに君の敵だろう? 止めてくれるなよ。私は怒っている。激怒だ。こんなに憤っているのは生まれて初めてだよ。悔しくて、悲しくて、言わずにはいられない――芝木くん、黙ってないでなんとか言ったらどうなんだ、卑怯者!」


「違うんだ、先輩……俺が――」


「――ああ、そうだね。言葉の選択を誤った。これは君の敵じゃない――私の敵だ!」


 言葉の最後は、もう泣き声のようだった。


「先の話と、君の部屋で聞いた話、君と彼の態度――間違いないと確信してるよ。君の空手を終わらせたのは――いや、君から空手を奪ったのは彼なんだろう?」


「違うよ先輩、俺の選択だ」


「どうして彼を庇うんだ、悠真くん――私は君の空手を見たことがないんだぞ?」


 ……? どういう意味だ?


 尋ねる前に、真那さんが叫ぶ。


「君が全国を制するほど重ねた努力を! 世界に届くと関係者に言わしめた努力を! ご両親が誇らしげにリビングに飾る賞状をいただいた努力を! 花村先生が誇らしげに語る君の努力を! その集成である君の空手を、私はもう見ることができないんだぞ……?」


 言葉の途中からぼろぼろと大粒の涙を溢れさせ――嗚咽を呑み込んで真那さんが叫ぶ。


「君のそれは、決して他人が君から取り上げていいものじゃない。君の空手にご両親や花村先生は夢を見ていた。それだけじゃない。全国を制するよう選手だ、君の空手は試合を見た者に夢や希望を与える、そんな空手だったんだろう……それは他人が奪ってしまっていいものじゃないんだよ……」


 手の甲で涙を拭い、真那さん。この人がハンカチを持っていないわけがない。それを取り出すことさえ忘れているのか――


「私は、もうそれを見ることができない。君はもう空手を諦めてしまったのだから。もし――いや、確信を得ているが――たかが一年先輩というだけの自尊心を満たす、そんなことの為に君から未来を奪った者がいるのなら、私はそいつを一生許さない。少年らしい将来の夢なんて見せてやるものか。まともな人生なんて歩ませてやらん――私の全てをかけて、君から空手を奪ったことを後悔させてやる」


「もういい、先輩……」


 真那さんの両肩に手を置く。小さくて温かいその肩は震えていた。怒り、緊張、羞恥――その全てを押さえ込むためか。


 いつもならこの状況で紅潮しないわけがない頬も真っ白だ。首に力が入っている――奥歯を噛みしめているのだろう。


「もう十分だ。ありがとう」


 芝木に目を向ける。奴は先輩の慟哭に打ちのめされていた。膝から崩れ落ち、床についた手の脇にぽた、ぽたと水滴を落としている。


 そんな事より先輩だ。もうとっくに限界を超えているはず。真那さんの頭に手を置いて、頬を伝う涙を周囲から隠すように下を向かせる。先輩は俺に体を預けるようなことはしなかったが――俺の胸に額を押しつけ、静かに震えた。


 周囲にざわめきが戻ってくる。大失敗だ。取りあえずこの場を去るのが正解か? くそ、わからない――


「――羽瀬、俺は――」


「失せろ。金輪際俺たちに関わるな。それがお互いのためだろ。謝ってすっきりしたいんだろうけど――俺自身が撒いた種とは言えあんたらをきれいさっぱり赦せるわけじゃない。そこまで付き合ってやる義理はねえよ。まあ気にすんな、あんたが抱えてるそれも俺を忘れれば一緒に忘れる――一年か、二年か――それくらいは我慢しろよな」


 何かを言いかける芝木をそう言って黙らせる。正直今は芝木なんてどうでもいい。真那さんを如何にここから連れ出すか――


「――何の騒ぎだ!」


 不意に食堂に野太い声が響いた。同時に周りの喧噪が大きくなる。くそ、教師か――俺が芝木の胸ぐらを掴んだときに誰かが職員室に連絡でもしたか。


 当事者として大人しく掴まるのが学生として満点だろうが、そうなると真那さんのケアが先送りになる。それは――この失敗の後にそれは避けたい。


 詰められる前に逃げよう。そう判断した時、俺と俺の胸ですすり泣く真那さんに近づいてくる女子がいた。タイの色は進学科の三年。ショートボブで、利発そうな目鼻立ち。整った眉を不安げに潜めている。


 止める間もなくその女子は真那さんに話しかけた。ポケットからハンカチを取り出して、それを差し出しつつ――


「――伏倉さん。その……これ、使って?」


 かけられた声にはっとして顔を上げる先輩。ハンカチを差し出す女子と目が合って――


「――! 逢坂、さん……」


 目を見開いて呟く真那さん。その名前には聞き覚えがある。この人が逢坂羽海――真那さんを覚醒させてしまった《魔女》の最初の被害者。


 なんだってこのタイミングで!


「……久しぶり、だね。色々話したいことはあるけど、とりあえずこれ――」


 しかし俺のそんな嘆きを知らない逢坂さんは、そう言ってハンカチを更に差し出す。芝木が現れたりしなかったらそう悪いタイミングじゃなかったかも知れない。しかし今は最悪だ。


 真那さんは逢坂さんと目を合わせたまま硬直し――


「――っ!」


 案の定――いや、斜め上と言うべきか。真那さんは弾かれた様に踵を返し、人の波を縫って駆け出してしまう。


「――当事者は誰だ? 誰か事情を説明できる者は?」


 迫る教師の声。くそ、下手に動けば目をつけられるか? このまま逢坂さんを放っておいていいのか? しかし真那さんを追わないわけにも……


「――行って」


 考えがまとまらない俺の肩を叩き、真那さんを追うように言ったのは逢坂さんだった。それは目立たぬよう配慮したのか小さな声だったが、強い意志を感じさせた。


「追ってあげて。先生にはうまく言っておくから」


「――すみません、頼んでいいですか」


「勿論――これ、持っていって」


 言いながらハンカチを俺に押しつける彼女。俺はそれを受け取って、教師の目に留まらぬよう静かにその場から離れた。




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