第5章 《魔女》の再臨、あるいは誕生 ①

 俺は声に関する記憶力がいいのかも知れない。予期せぬタイミングで椿姉にアテレコされて椿姉とわかるのは付き合いの長さからだろうが、まさか一年ぶりに聞く声で――しかも親しいとはほど遠い相手のものを、たった一言でそれとわかってしまうとは。


 かけられた言葉に、俺は暗い気持ちでスプーンを置いて顔を上げる。


 テーブルの対面に座る生徒――ではない。その後ろにたまたま通りかかったのだろう、見知った顔の男子生徒がいた。


 忘れようにも忘れられない顔。その生徒は体育科の三年生で、名を芝木太一という。


 俺の空手を終わらせた人だ。


 目が合うと、相手はたじろいで――それでも二の句を継いだ。


「よ、よう……久しぶりだな」


「そうすね」


「ど、どうだ、その――怪我の具合は」


「……リハビリは終わりましたよ。それが何か?」


 よく見ると、芝木の後ろに二人ほど連れがいる。彼らも空手部の三年生で、あの日俺と組み手をした相手だ。名前は憶えていない。そりゃそうか、別段世話になったわけでもない。


 俺が世話になったのは芝木だ。


「そ、そうか――だったらよ。お前、もう一度空手部に――」


「――失せろ」


 度し難い戯言を口走る芝木に、俺はそう告げる。隣に座る真那さんが俺の異変に気づき、そして強い言葉に肩を震わせた。和気藹々とした食堂に鋭く響く語勢に周囲が沈黙、注がれる視線――


 それがわかっていたのに、俺は言葉が止められなかった。


「あんたと話すことなんかねえよ。失せろ」


「なあ、羽瀬。俺は――」


「頭の脇についてんのは飾りか? 失せろ」


 睨め上げる――しかし、芝木は動かない。不穏を察したテーブルの対面に座る生徒が数名、そそくさとトレイを持って席を離れていった。


「羽瀬、聞いてくれ」


「ノーだ。あんたに記憶力ってもんが備わってるなら思い出してみろ。あんたらは二度と俺の視界に入らない、干渉しない――そういう約束だったはずだ。違うか?」


 芝木の言葉に、態度に、その姿にどんどん心がひび割れ、ざらざらしていく。俺自身、自分口から出る言葉を止めることができない。


「――すまなかった!」


 しかし芝木は俺の言葉に従わなかった。空いたテーブルに手をついて頭を垂れる。後ろに控えていた他二人の三年も彼に倣った。


「誰か謝ってくれとか言ったのかよ。俺は失せろと言ったんだ」


「頼む! 聞いてくれ、羽瀬――俺は、お前に謝りたいんだ」


「あんたの頼みを聞いてやる義理があると思うか? 失せろ」


「――おい」


 芝木の後ろに控えていた二人――その片割れが剣呑な声で、


「三年の俺たちがこうして頭を下げてるんだ、話くらい――」


「約束を反故にしてるのはそっちだろ」


「てめえなぁ、さっきから先輩の俺らに態度でかすぎんじゃねえのか?」


 もう一人も怒りを露わにする。


「退散する気がないなら――」


 俺も彼らに強く出られて退くつもりはない。


「――力尽くで追い払ってやろうか?」


 力を込めた言葉にたじろぐ二人。それらと俺の間に入るように芝木が言う。


「すまん、羽瀬――おい、お前ら黙ってろよ。羽瀬にケンカ売るつもりならどっか行ってくれ。俺は羽瀬と話がしたいんだ。羽瀬も堪えてくれ。揉めたいわけじゃないんだ。お前だってそうだろう?」


「俺はあんたらを追い払えるなら揉めたって構わねえよ」


「ごめんな、羽瀬――こんなことになると思わなかったんだ」


「聞くつもりはないと言った!」


 そんなつもりはなかった。なかったのに――俺はテーブルを叩いていた。びくりと怯える真那さんの気配が伝わってくる。


 こんな姿、見せたくないのに。


「聞いてくれ――ちょっと鼻を折ってやろうってだけだったんだ。焦ってたんだ。お前のことは知っていたし、先輩として安いプライドを保ちたかっただけだったんだ。それが、こんなことになって、俺は――」


「――言うな!」


 叫ぶ。衆目がある。彼の口から真相が漏れればここにいる全ての生徒が知ることになる。それは空手部にとって大きな疵になりかねない。


 椿姉の古巣で、憧れの桜星空手部の疵に。


「今後、俺に一切干渉しない――視界にも入らない。そしてあれは事故だった。この件については互いに他言無用――そういう約束だっただろう!」


「けど、お前は部を辞めて、空手も――」


「あんたの感傷なんて知らねえよ」


「許してくれ、羽瀬――俺たちが悪かったんだ」


「――許せ、だと?」


 ついに聞き逃せない言葉を聞いた。もう押さえが効かなかった。椅子を蹴って立ち上がり、テーブル越しに芝木の胸ぐらを掴む。


「ぐ、羽瀬……――」


「あれは事故だった。俺が素直な後輩だったら起きなかった事故だった。傲慢で天狗になっていた俺が招いたことだった――そう思って納得しようとしてんだよ。今更自分が悪かった? 許せ? ふざけんな。俺の気持ちがあんたにわかるのか? 俺は――」


 感情が口から溢れ出す。突如起きた諍いに周囲がざわめき始める中――


「――手を放すんだ、悠真くん」


 凜と響く声が喧噪を沈めさせた。

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