第4章 それは霹靂のように ⑥
無心で縄を回す。しぱぱぱと縄が土を叩く音、ひゅんひゅんと風を切る音がリズム良く鳴り続ける。現役時代に嫌というほどやった訓練だ。今でもその気になりさえすれば体力が尽きるまで続けられる。
どれくらい経っただろうか。息の上がり方からして十五分くらいだろうか。
「――悠真くん」
かけられた声に手を止める。呼びに来てくれたのは真那さんだった。
「ご飯の用意、できましたよ」
「あれ、スイッチ切れちゃいました?」
「ううん、ちょっと休憩です。悠真くん呼んでくるように言われたから、丁度いいかなって」
夕闇の中、真那さんが照れたように微笑む。その不意打ちに心臓が跳ねた気がした。
……いや、ロケーションのせいだな。学校でしか、それも保健室でしか会ったことがない真那さんが俺の家にいるのだ。ちょっとしたファンタジー……は言い過ぎかもしれないが、非日常であることは確かだ。
「そうすか。まあ結構長いこと変身してたし、人前デビューとしちゃ上出来ですよ」
「え、まだそんなに時間経っていないですよ?」
跳び縄を適当に丸めて縛ると、真那さんが持たされたのだろう、ハンドタオルを差し出してくれた。
「はい、これ」
「どうもっす。え、結構跳んでた気がするんですけど」
汗を拭って、ついでにタオルで頭を巻く。
「悠真くんが出てって、五分くらいです」
まじか。まだそんなもんか。
五分の縄跳びでこの汗と疲労か…てっきり十五分くらいは跳んでたものかと。
……衰えたなぁ、俺……
「……大丈夫?」
「思ってたより遙かに鈍ってた体力に凹んでるだけなんで大丈夫です。先輩の方こそ大丈夫ですか?」
「私?」
「本番はこれからですよ。まだ《魔女》でいられますか?」
まだ食事の準備をしただけで食事そのものはこれからだ。尋ねると、先輩はめずらしく高いテンションで、
「大丈夫! 緊張する、けど……楽しいです。まだやれます」
「そりゃ良かった。もう知ってると思いますけど、今日はカレーです。カレー大丈夫ですか?
ウチのカレーはそんな辛くないですけど」
実は俺の基準でウチのカレーはがっつり辛くしない。
俺は基本的に辛いものは好きな傾向だが、カレーの辛さが苦手である。ハバネロ入りのたこ焼きや担々麺など唐辛子系の辛さは好物だ。生山葵とか、激辛系のカップラ、胡椒系も。
エスニック系のスパイスが体に合わないのかな……カレー屋の中辛で辛いけど食べられる、辛口はツラい……そんな感じだ。
「大好きです、カレー」
「そんじゃ沢山食べてってください。一人暮らしだとなかなか作ったりしないんじゃないですか?」
「うん……どうしても一人分だとね。カレー一人分ってかえって手間だし……」
「椿姉と先輩がくるからって、母さん張り切ってました」
「美味しそうでした。楽しみです」
にこりと嬉しそうに笑う真那さん。うん、リラックスできてるな。これならまだしばらく大丈夫そうだ。
……さて、俺も息が整った。
「先輩、先に戻って五分待つように言っておいてくれませんか?」
「いい、けど……」
どうして? と小首を傾げる彼女。
「いや、思ったより汗かいたんでシャワー浴びてきます」
「わかった。待ってますね。でも急いでね。あの、花村先生が」
……ああ、あの人が一番『待て』ができない人だもんな。
「先輩が『待ちましょう(キリッ)』ってやれば大人しくなりますよ」
「キリッ、ですか?」
ふふっ、と真那さんが笑う。
「ええ。椿姉の今の最大の弱点は先輩ですからね。上目遣いで『待ちましょう……?』でもいけると思います」
「! いや、そんなことはないと思いますよ……?」
「そんなことあるのが椿姉なんですよ」
「花村先生はそんな人では……」
「いやいや、教師になってだいぶマシになったんですけど、椿姉の基本属性はしつけが雑な柴犬です。興味があることに全力投球。タウリン分泌されまくっていて疲れ知らずのハイテンション、抑えが効かない……そんな感じです」
「タウリンはヒトの体内で合成されませんよ……?」
「それを可能にしたから《正拳の魔女》だったんじゃないかなって時々思います」
「そ、そんなこと……たゆまぬ努力をされたから尊敬と憧憬の念を込めて《正拳の魔女》と呼ばれるようになったって、私に教えてくれたじゃないですか」
「そんな風に思っていた時期が俺にもありました。最近の椿姉は子供のころの犬っぽさを取り戻してる感じがします。基本アホの子ですから、あの人。俺としちゃそろそろ嫁のもらい手が心配で――」
俺の言葉の途中で、真那さんは全身を強ばらせてぎゅっと目を閉じた。
……うん?
「……そうかそうか。彼女いない歴=年齢のお前に嫁のもらい手を心配されるほどか、私は」
背後から怖ろしい声が聞こえた。まるで、地獄の底がひび割れるような――そんな声。
ゆっくりと振り返る。そこには憤怒の形相を見せる仁王が立っていた。
「げ、椿姉! なんでここに!」
「お前らが遅いからだ。はぁ、犬? しつけが雑な? 誰が?」
くそう、まさか椿姉が背後にいたとは! ちょっと真那さんの言葉が説明的だなとは思ったよ!
だがしかし、俺のサンイエローの脳細胞は既に起死回生の一手となる改心の文言を導き出している。
「しつけが雑っていうのは」
「おう」
「……伸びしろがあるってことで、どうか一つ」
「どうもならんわ馬鹿野郎! さっさとシャワーを浴びてこい!」
咄嗟に真那さんの背中に隠れる俺。しかし彼女は俺より頭一つ背が低く――
次の瞬間、真那さんの頭をまたぐように芸術的なハイキックが稲妻の如き速度で飛んできた。回避不能、防御も同様。先日と同じように肩で首を固定し、額で受けることしか出来なかった。痛い!
スカートの中身はいつかに比べいくらか年相応に見えた。そんなところに気を遣う前にスカートで上段回し蹴りを振り回すのを止めようなと伝えたい。
多分伝えたら追撃がくるので黙っておくけれど。
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