第4章 それは霹靂のように ②

 返事とともに彼女の背筋が伸びた気がする。


 ――これでもう変身済み。当初に比べると見違えるほどだ。


「……もう全然変身の瞬間わかりませんね」


「君のお陰だよ、悠真くん。感謝している。本当にありがとう」


 そう言って微笑む真那さん。保健室という空間に限りもう《魔女》は完全だと思えた。少なくとも俺相手にテンパって罵りの言葉を投げることはなくなった。《魔女》を演じることで、彼女も思い通りに俺と接することができる。


 そろそろ次のステップへ進む頃合いなのかも知れない。


「俺は特に何も。先輩が頑張ったからですよ」


「ありがとう。でもそれは君が《魔女》は忌避するものでないと教えてくれたからこそ、だよ。そして毎日辛抱強く私に付き合ってくれた。だから私は頑張れたんだ。こんなもので礼になるとは思ってないが、それでも嫌じゃなければ愉しんで欲しい」


 ピッチャーの縁を指先でなぞり、真那さん。


「こっちこそ、先輩の淹れてくれる紅茶は美味いんで毎日有り難くいただいてますよ」


「本当かい? それなら嬉しいが――それにしては君、茶葉の種類を憶えないよな」


「俺は飲む係。先輩は淹れてくれる係。俺が憶える意味あります?」


「まったく、君というやつは……まあ、しばらくはそれでいいか。君が色々と憶えてしまえば、君の為に用意する楽しみがなくなってしまうだろうしね」


「あざます。で、先輩。提案があるんですけど」


「うん。なにかな?」


 俺の言葉に、先輩は身構える。


「そろそろ人前で《魔女》を披露してみましょうか」


 その提案に真那さんは表情を強ばらせた。即座に否定しようとし、しかしぐっと堪えて言葉を紡ぐ。


「無理……と言いたいところだが、先を考えるといずれは必要なことだな」


「ええ。現状先輩が落ち着いて《魔女》でいられるのは俺と椿姉の前だけです。まだ他の人の前で試したことがない」


「……自信がないよ」


 この保健室は彼女のフィールドで、俺や椿姉は味方――自分をいたずらに傷つけないとわかっている安心できる相手だ。その環境で思うように振る舞えても、環境が変われば自信が持てないというのはわかる。


「けど、いつかやらなきゃ自信なんていつまでもつかないですよ」


「わかっている。君が私のことを考えてそう提案してくれていることもね」


 態度は毅然、仕草も絵に描いたようなお姉さんぶりで格好いい。だが表情は今にも泣き出してしまいそうだ。


 ……こんな手法でくすぐるのは卑怯かなぁ。まあ、誰かにそう言われたとしてもやるんだけれど。


「正直、今の先輩ってある意味立ち直ったと言ってもいいんじゃないかと思うんです。そりゃ完璧にとは言えないかもしれないですけど、《魔女》と向き合って、抗って、受け入れた。素敵な《魔女》になるために努力もしている。打ちのめされていた頃の先輩とはもう違います」


「そう……ありたいと思っている」


「……もう、ここでゴールにしましょうか。俺の目から見ても先輩は随分頑張った。俺が先輩に望んだ《魔女》を呪いの字にしない――これもクリアしてくれた。このまま保健室で茶会を続けて――楽しく卒業しましょう。俺で良ければお付き合いします。そして、そのことに文句なんて俺が誰にも言わせない」


「――……悠真くんは意地悪だよ、本当に。いやらしい」


 いつか聞いたような言葉を返される。先輩の目に力がこもっていた。ある意味予想通りの反応だ。手応えは十分。


「心外です。誰にもそんなこと言われたことありませんよ。もっとも、そんなことを言われるほどの人付き合いがないという説もあるんですけど」


「じゃあ私が何度でも言ってやろう。先輩として、友人として。君は性格が悪い」


「あざます」


「うん――なあ、悠真くん」


「はい?」


「私がこのままクラスに復帰できずに卒業したとして――」


「はい」


「きっとそれでも復帰を果たせなかったことそのものは後悔しない。最近はそんな風に思うんだ」


「……そうなんですか?」


「うん。過去の自分を恥じて、ぐじぐじと悩んでいた私はもういない。君が《魔女》は忌むべきものではない、花村先生にも冠された誇らしい字であると教えてくれた。私の《魔女》もそうしてしまえばいいと言ってくれたことで随分と救われた。そうあろうと努力したいと思うことで、本当に少しだが前進もできた。毎日君の為にお茶を用意するのも楽しい。このまま卒業して、いつか振り返って――これがいい思い出にならないなんて嘘だ。きっと私は、今の毎日に思いを馳せて温かい気持ちになれる」


「……はい」


 言葉とは裏腹に、先輩の表情は決して明るくなかった。


「だが、卒業して五年後、十年後――君や花村先生とどこかでばったり会ったとしよう。その時の私は胸を張って君と向き合えるだろうか。花村先生とも――否だ。きっと私はこのまま卒業してしまえば――彼女に詫びないまま卒業してしまえばそれを抱えてしまうだろう。今の毎日を後悔しないだろうが、それはまた別の話だ。そしていつかそのことをうじうじと悩み続ける日々を送ることになるだろう。そんな私が、君や花村先生に胸を張って会えるわけがない」


「後悔のない生き方なんてしてる人、いやしませんよ」


「それでもしないように努めるべきだろう? 特に私のように、自身の念に潰されてしまうような人間は。それにね、新しい目標もあるんだ」


「新しい目標、ですか?」


「ああ。悠真くん――君には随分とよくしてもらっている。高二の放課後――そんな貴重な時間を費やしてもらって、本当に感謝しているんだ。私はとても至らない先輩だが、そんな君に卒業までに先輩としてなにか遺したいと思っているんだよ。そしてそれは、このままここをゴールにしてはきっと見つけられない。なにも遺せない――そんな気がするんだ」


「俺に礼なんて――別にそんなの気にしなくていいですけど。紅茶いただいてますし」


「そうじゃない。そうじゃないよ、悠真くん――私が贈りたいんだ。君に君がしてくれたことを憶えていて欲しいから、何か遺したいんだ。まあ今はその話はいい。まだ何も思いついていないしね」


 先輩は言いながら長い髪を後ろ手に捌いた。ふわりと彼女の黒髪が舞う。


「君の甘言に乗ってここをゴールにすることはできない。まだ頑張りたい。頑張らせてくれ」


「格好いいです、先輩」


「ふっ――《魔女》だからな、私は」


 真那さんはにやりと笑う。それは本当に自信に満ちあふれた才女のようで、美しく、格好良かった。人前で見せれば――特に年下の女子なんかはきっと無条件に憧憬を抱く、そんな優雅で、凜々しくて、たおやかなもの。


 しかしそれも束の間、顔色は青くなり、自信や威厳なんかも消え失せる。


「……だ、だからまあ、君の提案、前向きに考えたい……」


「落差が! もうちょっと頑張って!」


「くっ、少し格好をつけすぎたようだ……」


 やや震える声で言う。生まれたての子鹿のようだ……とまでは言わないが、精神的にダメージがありそうだ。これで俺がオーダーしたらKOしてしまわないだろうか。


「さあ、聞かせて貰おうか、君の提案を」


 ぜいはあと今にも倒れそうなボクサーの体で、真那さん。肘をテーブルにつき、挑むような姿勢である。実は結構余裕あるんじゃないか……?


 まあ聞かせてくれと言うのだ、思いついた案を挙げてみようか。


 俺は、それを口にする。




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