第1章 《正拳の魔女》と三年生の《魔女》――と、俺 ④
翌日。五月二週の金曜日。放課後。
俺は昨日椿姉と約束した通り、中央校舎の四階を訪れていた。
他の生徒の姿はなかった。このフロアには生徒が利用するような施設、部屋はないのだろうか。
実のところ、この校舎の四階に来るのは始めてだ。一・二階は吹き抜けの学食があるし、三階には図書館がある。そこまでは利用することがあるが、四階は未知の世界だった。とはいえ学校は学校、いきなり異世界になっている――なんてことはない。リノリウム材の廊下を歩き目的の部屋を探す。
中央校舎はその造りの独特さから、階段が西側の端にある。そこから東側に向かって一室ずつ確認し――『第三保健室』と書かれた扉を一番奥の角部屋で見つけた。
つまりあらゆる校舎から一番遠い場所にあった。存在目的からすればむしろこれ以上はない設置場所なのかもしれない。
その扉をノックし、ノブに手を掛ける。施錠はされていなかった――当たり前か。
「――失礼します」
少し迷ってそう告げる。ドアを開けると中からふわりと柔らかい香りが漂ってきた。これは紅茶か。甘く、温かい香り。日常的に自宅で紅茶を飲むような習慣のない俺でもそれとわかるものだ。
そのまま中に入る。
まず目に入ったのは、とても保健室にあるものとは思えないアンティークなラウンドテーブルだった。避暑地にある金持ちの別荘の庭や、もっと言えばなんちゃら宮殿などにありそうな、そんなやつ。椅子は四脚。テーブルを十字に切るように置かれている。
そのうちの一つに、ウチの制服のブレザーを着る少女が折り目正しく座っていた。タイの色は三年生のもの――椿姉の話から察するに、この人が噂の《魔女》だろう。
控えめに言って衝撃的だった。
女性の容姿を褒める言葉はいくらでもある。羞花閉月、仙資玉質、国色天香――エトセトラ。けれど、そのどれもが少し足りなくて、届かない。
例えば明眸皓歯。《魔女》の顔立ちが整っているのは誰の目にも明らかだ。だけど言葉の響きのイメージより、彼女の容姿はほんの少しか弱かった。それがかえって美しさを醸し出すというか――完璧に一つ届かないことで、より愛らしいというか。
椿姉の言葉を思い出す。『《魔女》、ヤバイ。超可愛い』――なるほど、一周回ってもうこれ以外の言葉は出てこないかも知れない。
けれど俺が衝撃を受けたのは、単に《魔女》先輩が想像の上をいく美少女だったからというわけではない。
ラウンドテーブルの向こうから俺を見る《魔女》――彼女が感じている緊張が、紅茶の香りで一杯の保健室から一切の熱を奪っていた。
彼女が感じている緊張が痛いほど伝わってきた。一目見て保健室に踏み入る足が止まってしまっていた。雰囲気に呑まれた。
これは――《魔女》と言い出した誰かを強く責められないかもな。その抜きん出た容姿もそれに一役買っているかもしれない。
しかし入り口で足を止めていても仕方がない。中に入って後ろ手に扉を閉める。がちゃりと鳴った音に《魔女》は両肩をびくりと震わせた。すみませんね、脅かすつもりはないんですよ。
改めて室内を見回す。椿姉の姿が見えなかった。呼んでおいていないとか……
……この人に所在を尋ねてみても大丈夫だろうか?
「あの、椿ね――じゃない、花村先生は?」
聞いてみると、
「――……ぶ、ぶぶ、ぶ」
何もテーブルに置いてあるスマホが振動し始めたというわけではない。どうやら伝わっていないらしいと察した《魔女》先輩が、頬を紅潮させながら――
「部活、行くって……」
蚊の鳴くような声で言った。
「ああ、そうすか。どうも」
部活? 俺を呼んでおいて?
――再び昨日の光景がフラッシュバック。『また明日』と言った俺に、椿姉は何も言わなかった。ただ意味ありげに微笑んだだけ。
あの野郎、もしかして投げっぱなしか!
椿姉に対して燃え上がる怒りを堪えつつ、現状の把握に努める。目の前の先輩女子が《魔女》なのは状況的に間違いないだろう。椿姉は話を通しておくと言っていた。彼女は俺の来訪を知っているはず。おそらく、その目的も――
ふと彼女を見る。テーブルの下で、スカートの裾をぎゅっと握りしめていた。どれだけ力を込めているのか、よく見れば両肩が小さく震えている。
事のあらましを既に聞いているからというのもあるかもしれないが、椿姉がこの《魔女》に立ち直って欲しいと思う気持ちがわかる気がする。
クラスメイトとの間に溝を作ってしまったほどのあがり症――それを治したくて、見ず知らずの男子生徒と二人きりという状況を前に、頑張ろうと耐えているのだ。
しかし投げっぱなしとはたまげたな……俺にどうしろってんだ、椿姉は。
考えろ、俺。
瞑目。
俺のクリムゾンレッドの脳細胞はものの数秒で答えを導き出した。未だかつて俺より速く動ける選手は椿姉以外にいなかった。大抵の奴は俺より遅いだろう。だったら簡単だ、相手の動きを見て後の先を取る。打ったと思った時に打たれて崩れない奴はいない。《正拳の魔女》の得意技で、俺もたたき込まれた技術――って、それは空手の初対戦の対応だ! 意外とテンパってんな、俺!
考えたら駄目だな、これは。椿姉も俺に理知的な行動は求めてないだろう。
よし、当たって砕けの精神で行こう。
「あー、その、先輩」
向こうも俺のタイの色で後輩とわかっているだろう。そう声をかけると、先輩はやはりびくりと反応し、立ったままの俺を上目遣いで伺う。
「花村先生から俺が第三保健室にくるってことは聞いてます?」
今度は首を楯にぶんぶん振る彼女。先輩もテンパってるな。そんなにがっくんがっくんしたら首痛めるぞ。
「俺は羽瀬悠真(はるま)。羽に瀬戸の瀬、悠久の悠に写真の真で悠真(はるま)です。普通科二年A組。先輩の名前を聞いても?」
「――……伏倉(しくら)真那。進学科三年F組です……」
「字はどんな?」
「……伏せる倉、写真の真に、那須高原……」
「あ、奇遇ですね。字、一つ一緒だ」
何の気なしにそう呟くと、先輩――真那さんはぼっという擬音が聞こえてきそうな勢いで頬をより赤くする。もう顔全体が真っ赤だ。
紅潮した顔で力の入った肩を震わせる彼女はそこだけ切り取って見れば恥ずかしがる様子が可愛い女の子って感じだが、二言三言交わしただけでこれだ。
ちらりと嫌な考えが頭をよぎり――それを即座に排除する。然るべき場所で病名をつけて、専門科の治療を受ければいいのではないかというものだ。学校やカウンセラー、大人の椿姉たちがいて、それをしていないのだ。そうしない理由があるのだろう。
じゃなければ俺に出番は回ってこない。
俺が黙したままでは彼女が辛かろう。あまり深く考えずに口を開く。
「じゃあ、俺が何しにここへ来たのかは聞いてます?」
「…………か、軽く…………」
「それじゃちゃんと話しますね。座っても?」
尋ねると、こくこくと頷く彼女。俺は空いている椅子に担いでいた鞄を置いて、彼女の対面になる椅子に座る。
不躾かなと思いつつ、俺は改めて彼女を眺める。艶やかでまっすぐな髪。長い睫毛と桃花眼。鼻梁は高く、整った唇は綺麗な桃色。力一杯美少女ですよとアピールするパーツ群――その全てが緊張と拒絶に染まり、それを抑え込むべく小さな肩を震わせている。
椿姉は先輩を冗談で『好き』と言っていたが、冗談にしたって大したものだ――可愛いのというのに異論はない。だけど今俺が感じているのは『好き』とかそんな柔らかい感情ではなく、自分がこうさせているのかという罪悪感だ。この場から去って解放してあげたいと思うほど。
しかしそれは誰の為にもならない。椿姉の《魔女》や俺に対する想いも、《魔女》が自分を変えたくてここにいるという覚悟も。俺にしたって椿姉との約束を違えたと後悔するだろう。
――さて。
「《魔女》――」
その言葉を口にすると、真那さんは一層大きく体を震わせた。この反応で、自分がそう呼ばれることにどれだけ心を痛めているかわかる。
「――って呼ばれているのは先輩で間違いないですか?」
「……は、い」
頷く。
「花村先生から大体のことは聞いてます。先輩が《魔女》と呼ばれるようになった経緯と、先輩の悩み――すみませんね。勝手に聞いてしまって。悩みなんてプライバシーの最たるものなのに」
《魔女》と呼ばれたショックか、力なく首を横に振る彼女。
「……大丈夫な人、って聞いてるから……」
「花村先生に?」
こくりと頷く。なにが大丈夫なんだか……
ともかく、椿姉は手詰まりとか言っていたけど椿姉自身はある程度の信頼を得ているようだ。じゃなけりゃ大丈夫の一言で先輩も納得したりしないだろう。。
「大丈夫かどうかはあれですけど、他言はしないつもりですので、そこは安心してください」
頷く彼女。
「さすがにこれは花村先生から聞いていると思いますけど、俺は先輩が保健室登校からクラスに復帰して馴染めるようになる――その手伝いをしに来ました」
「……質問、してもいいですか?」
「敬語使わなくていですよ。先輩は三年、俺は二年ですから……どうぞ?」
控えめに、たどたどしく聞いてくる彼女を促す。先輩はおずおずと口を開いた。
「……どうして?」
「どうして先輩の保健室卒業を手伝うかってことですか?」
それ、というように真那さんが頷く。
「簡単に言えば花村先生に頼まれたから、なんですけど。俺、元々先輩のこと知らなかったし」
「……花村先生と親しいの……ですか?」
「一言で言えば幼馴染みです。花村先生は俺を生まれたときから知っているんで。ウチに入り浸って俺の子守をしていたらしいですよ。その花村先生――普段は椿姉って呼んでいるんですけど。椿姉が、俺が先輩を手伝うことが俺自身のためになるって言うんで。椿姉がそこまで言うなら俺は俺自身のために先輩を手伝うべきかなって。だから先輩は俺に遠慮しなくていいんですよ」
俺のことや椿姉とのリベンジマッチのことは今話さなくてもいいだろう。話が長く、ややこしくなる。いずれ機会を見て、だ。
「……………………」
先輩からのリアクションは特になかった。それきり口を結び、俯いて、肩を震わせる。
口を動かすにも限度があるよな。どうしたって考えてしまう。
この会話が続かない少女をクラスに馴染めるようにするにはどうしたらいいのか。
――と、いうか。
決して興味本位ではない。しかし
でも《魔女》化したことを悔やんで自主退学をしようとし、思い止まっても保健室登校を余儀なくされているんだよな。変身させたら傷つくかな……
――いや。傷ついても、最後にちゃんとクラスメイトたちと卒業できればその方がいいはずだ。
俺は無言で立ち上がり、出入り口の扉に鍵をかけた。その音に反応して驚いた顔で俺を見る真那さん。
ここは四階――窓はわざわざ施錠せずともそこから外には出られない。これで密室の完成だ。逃げ場はない――彼女もそれを理解したはずだ。
本当に閉じ込めるつもりは毛頭ない。彼女に『逃げ場がない』という点を意識させたかっただけだ。
あとは――
「《魔女》先輩は――」
真っ赤な顔を白くして真那さんが俺を見る。なぜ、どうして――そんな顔だ。どうしてそんな風に私を呼ぶのかと。
気持ちはわからなくもない。けど俺は、《魔女》と呼ばれて傷つくあんたに傷つくんだぜ。
――《魔女の弟》だからな。
「《魔女》先輩は、紅茶が好きなんですか?」
真那さんははっとして、自分の前に置かれたティーセットとティーポットに目を向ける。しまったと言う顔だ。慌ててソーサーとカップをもう一組用意し、俺の分だろうものを淹れようとする。俺はそんな彼女に畳みかけた。
「高そうなカップですね。学校の備品ですか? それにしては高級な――テーブルとは似合っていますけど」
「テ、テーブルは学校の……カップは」
「《魔女》先輩の私物?」
「ち、ちが……花村先生……私、借りて……」
「ああ、椿姉の私物か。こんな趣味あったんだなぁ」
これは本気で知らなかった。テーブルに歩み寄り、その陶器に目を凝らす。
「ブランドものですか? 俺、こういうの詳しくなくて……《魔女》先輩はわかります?」
「……こ、これはエルメスの……カップで」
「ああ、さすがに俺でも知ってます。エルメスって元は馬具屋だったのに今は手広い高級ブランドですよね。教師って儲かるのかなぁ。《魔女》先輩はどう思います?」
距離が近づいたせいか、《魔女》攻勢のせいか――体を強ばらせた真那さんは手にしていたカップを取り落とす。紅茶を注ぐ前で良かった。俺は咄嗟に手を出してそれをキャッチ。ついでに真那さんが持ったままのティーポットに手を添えてテーブルに置く。こちらを取り落とされてはたまらない。
ポットをテーブルに置いた瞬間、真那さんは沿えた俺の手を勢いよく振り払った。そのまま平手でテーブルを打つ。
そして――
「――さっきから《魔女》《魔女》とうるさいな、君は! そんなに珍しいものかい? それとも私を辱めて愉しんでいるのかな?」
眉を吊り上げて、涙目で――真那さんが怒鳴った。
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