第1章 《正拳の魔女》と三年生の《魔女》――と、俺 ③

「私と道場ルールで殴り合える権利をやろう。つまり、お前にとっての最後のリベンジマッチの機会をやる」


 たっぷりと間を置いて、そう言った。


「……本気で言ってる? それが俺にとって報酬になるって本気で思ってるわけ?」


「思ってるよ。お前、少なくとも中学の頃は私のことを女として好きだったろう? 本当の本気で私に挑んだことはないはずだ」


 淡々と真面目な調子で言う椿姉。その態度は自分が口にしていることに絶対の自信があるように見えた。


「そして中三の事故で再戦の機会を逃し、その年に私が現役を退いてしまったことで、リベンジマッチは叶わなくなった。お前は今まで本当の意味で本気で私に挑まなかったことを後悔している――姉弟子の私に、どんな理由であれ手を抜くのは失礼だったと。お前が空手に残した未練は、私と本気で立ち会わなかったことだろう?」


 ずばり、だった。


 そう、中二の頃に全国制覇を成し遂げた俺だが、椿姉には一度も勝ったことがない。《魔女の弟》として可愛がりを存分に受けた俺は、姉弟子である《正拳の魔女》に立ち会う度にボコボコにされ続け――


 ……けれど、それは勝ちたくなかったからだ。あの頃の俺は《魔女の弟》でいたかった。勝ってしまって、もし椿姉から自信が失われてしまったら――


 そして一昨年――中三の夏に俺は《正拳の魔女》を超えるつもりだった。師匠に諭されての心変わりだ。お前を一番鍛えてくれた人に、いつまで自分を偽るつもりだと。強くなったと伝えないつもりかと。


 師匠にそう言われて決意を改めた俺は、大会前に姉弟子超えに挑むつもりでいて――そして事故に遭った。


「――……どうして、と聞いたら自白してんのと一緒だよな」


「まあな。でも答える。私は兄弟姉妹がいないだろ? 近所の家に赤ん坊が――お前が生まれたのが、弟ができたみたいで嬉しかった。毎日お前の家に行って、おばさんに頼み込んで強引に子守させてもらってたんだぞ。わからないはずがないよ」


「……道理でうちのアルバムにやたら椿姉が映ってる写真があるわけだ」


 見抜かれていたことに力が抜けてしまう。椿姉はそれ以上なにも言わずに俺の言葉を待っていた。


「……無理だよ。椿姉も俺も現役じゃない」


「私は競技者として、選手として一線を退いただけだ。空手家として現役を退いたつもりはない。お前は知らないだろうが――私は今でも道場に通っているぞ」


「……だから道場ルールか」


 合点がいく。


 空手とは実に曖昧な競技だ――俺はそう思っている。流派により多種多様なルールがあり、その性質はスポーツから素手による人体破壊術とでも言うべきものまで様々だ。


 勿論競技としての空手はそう血なまぐさいものじゃない。細かいルールに縛られ、選手の安全に配慮した技術の競い合いだ。椿姉が《正拳の魔女》と呼ばれ、女子学生空手の覇者としてその名を轟かせた種目。


 対して元々椿姉と俺が門を叩き、俺が全国を制した空手は競技の色が薄く、武道の色が濃い。高校生以上は防具もなく、ルールもシンプルで決闘よりだ。


 椿姉はその武道である道場空手の一空手家として現役と自負している――らしい。


「それでも無理だ。俺は二年もブランクがある。勘も体力も衰えた」


「まず彼女が望むかたちで卒業していけるか――卒業式まで日があるし、それに期限は設けない。《魔女》を無事満足させて卒業させられたら、一度だけ無期限で試合を受けてやる。お前は自分が絶対勝てると思えるようになるまで鍛え直せばいい」


「それって、例えば俺が『椿姉が還暦になったらリベンジマッチを申し込む』って言ったら、椿姉はそれまで現役維持するってこと?」


「うん。古希でも傘寿でも――お婆ちゃんになってもお前の目標でいてやるよ」


 即答だった。自分でも馬鹿丸出しだと思う言葉に、椿姉はなんの迷いも見せずに頷く。


「……椿姉がそこまでするメリットってなによ。《魔女》は椿姉にそこまでさせる人なわけ?」


「私個人としても《魔女》に立ち直って欲しいと願っている。けど、お前に渡す対価に空手家としての私を賭けるのは別の理由だ」


「……それを聞いても?」


「だからお前はモテないんだよ、馬鹿――……可愛がっていた六つも下の弟が、自分と立ち会うのに手を抜いている。女子空手じゃ敵なしと言われた私相手にだ。お前が強くなったのは嬉しかったけど、手を抜かれて悲しくないわけがないだろう? 散々鍛えてやったんだ。きちんと、格好よく、私を超えていってくれよ」


 そんな風に言う椿姉はこちらを見ていなかった。長い睫毛を瞬かせ、高い空を見上げている。


「……すげえ女々しいこと聞いていい?」


「うん?」


「俺が椿姉に告ってたら、付き合う未来とかあった?」


「……私が子供の間にそういうことが起きたら、ない未来じゃなかったかもな。でももうない。消えた可能性だ――今の私とお前は教師と生徒で、大人と子供。それに、姉と弟だった時間が長すぎたな。けど、代わりに死ぬまで姉ちゃんでいてやるよ」


「……それって、ラスボスから死ぬまで逃げられないってことじゃね?」


「ラスボスから逃げられないのは当然だろ?」


 ようやく笑顔を見せる椿姉。


「逆に、お前はいつ私をあきらめたんだ?」


「聞くかよ、それ」


「姉ちゃんに教えてくれよ」


「いつだろうな――椿姉が引退を決めて、姉弟子越えがもう一生叶わないと思った時かな」


「やっぱりな。あの時だろうなと思っていたよ」


 椿姉はそう呟くと両腕で膝を抱え、丸くなって空を見上げた。


「少し寂しい気もするが、私たちはそれでいいんじゃないかと思う」


「椿姉がそう言うならそうなんだろうな――……なあ、ついでにもう一つ聞いていい?」


「なんだよ、お前本気で女々しいな」


「うるさいな……《魔女》の友達候補、どうして俺なんだ? さっきのは半分嘘だろ? 椿姉が信頼できる人は俺以外にも沢山いるはずだ。要は《魔女》に人慣れさせるための初めてのオトモダチだろ? それに俺を選ぶ意味がわからない」


「どうして? 逆にお前じゃダメな理由なんてあるか?」


「質問に質問で返すなよ……なあ、椿姉。実は俺、クラスでも浮き気味で友達らしい友達がいないんだ。そんな俺を――」


「知ってる。お前ぼっちだもんな」


 ……………………


「……………………」


「なんだよ。自分で言い出したくせにそんな目で見るなよ」


「……そんな俺を《魔女》の最初の友達に選んだのは、何か理由があるのかなって」


「……《魔女》にはお前の物怖じしない豪胆さと不遜なくらいのふてぶてしさが必要で、お前には《魔女》の繊細さが刺激になるんじゃないかと思ったからだ」


 どこか突き放したように淡々とそう口にする椿姉。


 その言葉と態度に、すっと胸に落ちるものがあった。


 ――ああ、そうか。これは――椿姉にとって、故障で挫折した俺の心のケアでもあるのか。


 そしてそれを俺が成し遂げれば、空手に復帰するはずだと信じているのか。その上での報酬――椿姉との立ち会いということか。


 ……それを改めて確認するのはさすがに野暮だよな。


「……わかった。やるよ。いや、断れるとは思ってないけど」


「そうか、やってくれるか。ありがとうな、悠真」


 椿姉はそう言ってはにかんだ。俺の為に遠回りに報酬まで考えたくせに、さも助かったとばかりに俺に礼を言う。


 正直、椿姉の言う通りに《魔女》をクラスに馴染めるように俺がなにかを頑張ったとして、空手に戻る気になるとは思わない。しかも唯一の未練が椿姉にバレているとか、顔から火が出るほど恥ずかしい。


 それでも――空手に戻らずとも、椿姉の気持ちに応えなければならない――そう思えた。彼女の言葉は方便だ。実際にリベンジを申し込まずとも、彼女が用意したミッションに前向きに応えることができれば、もう心配をかけることはないだろう。


 とりあえず今の俺にできることは、椿姉に礼を言って彼女の気苦労を徒労にするのではなく、乗せられた体で前向きに頑張ることだろうな。


 だから、礼は言わない。代わりに――


「まあやると決めたからにはやるけど。暇だし。でも報酬が《正拳の魔女》と試合って全然テンション上がらないんだけど? なんか副賞くれ」


「絶対やる気出るから心配するな」


「……その心は?」


「《魔女》、ヤバイ。超可愛い」


「なんで片言なんだよ……」


「いやもう言葉出ないんだよ。めちゃ可愛いの。やばい。好き。思い出しただけで目覚めそう」


「お巡りさんこの人です」


「警官の一人二人で私を止められるかな? 機動隊を呼べ」


「どんな自信だ……そんなに美人なの?」


「保証する。興味湧いてきた?」


「……ちょっとだけな」


「素直でよろしい」


 椿姉が満足げに頷く。


「けど、心配じゃないのか? 要は極度の人見知りなんだろ? 《魔女》にとっては俺、見ず知らずの男なわけで」


「それは大丈夫。お前が女をいたずらに傷つけるような男じゃないことは私が保証するし、そういう相手を保健室に呼ぶという同意はとってある」


「あ、そうなんだ」


「彼女も、できることなら自分を変えたいと思っているんだよ。自分と、自分に親切にしたために傷つけてしまった少女のために。お前にできる範囲でいいから力になって上げて欲しい」


「任された――で、具体的にはどうしたらいいわけ?」


「《魔女》には明日、私から話を通しておく。お前は明日、放課後に第三保健室にきてくれ」


「わかった。第三保健室ってどこにあるの?」


「中央校舎の四階だ」


「了解。受業が終わったら顔を出すよ」


 椿姉が口にした校舎は主に共有施設が占める校舎だ。学食や購買、図書館など――ある程度科によって分けられた校舎群で、どの科の生徒も足を運ぶ場所。そしてそれ故各科の校舎から離れて独立している。なるほど、第三保健室の主目的から考えればどの校舎より中央校舎にあるべきだ。


「良かったよ、引き受けてくれて――では私は部活に行こうかな」


 言って、椿姉が腰を上げる。


「ああ、俺もそろそろ帰るよ。また明日な」


 立ち去ろうとする椿姉にそう告げると、彼女は何かを含むように微笑んで――そして踵を返し、屋上の出入り口へと消えていく。


 ……今の笑顔の意味はなんだ?




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