第1章 《正拳の魔女》と三年生の《魔女》――と、俺 ①

 私立桜花星翔高等学校は、生徒数が五千を超えるいわゆるマンモス校だ。普通科、進学科、体育科、商業科、工業科、農業科、国際進学科――あらゆる教育課程を選び放題。施設も充実。進学科はエスカレーターで付属大学へ進学できるし、国際進学科は海外大学への進学を視野に入れている生徒と留学生の半々で、特に国内の生徒には留学を疑似体験できる上成績優秀者は交換留学生として海外へ行くことも可能で大人気、倍率が大層高いんだとか。


 俺は学年の三分の一を占める普通科なので、他の科の話は入学前の説明会で聞いた以上の事情は知らないけれど。


 これだけ各科があるにも関わらず、普通科もそれなりに倍率が高かった。普通科ならわざわざ倍率が高い高校を選ばずとも似たような偏差値であれば別の高校でも良かったんじゃないか――否。体育科のある我が桜星は、そのほとんどの運動部が全国レベル。俺は普通科から目当ての運動部に入るため、倍率が高く人気校と呼ばれるこの桜星を受験して、合格を勝ち取った。


 期待を胸に入学し――もう一年が経つ。そして今、俺は――帰宅部だ。




   ◇ ◇ ◇




 五月二週目の木曜日。一日の授業が終わってもなんとなくすぐに帰宅する気にならなかった俺は、普通科の校舎の屋上を訪れていた。


 桜星では屋上が解放されている。しかし昼休みは昼食を採る、あるいは時間を潰す生徒で賑わう屋上も、放課後は人がいない。


 その無人の屋上で、俺はフェンスに寄って周囲を見渡す。


 四階建ての校舎の屋上からは学校周囲の施設が望める。幾つかの校舎が中庭を囲うように連なり、その中央校舎に管理施設や共通施設が集まっている。すぐ脇を走る幹線道路に歩道橋が架かり、道の向こうに体育館や講堂、各運動部の専用グラウンドなどが並ぶ。逆側の道路の向こうは農業科の施設が連なり――うんざりするほどでかい学校だ。


 フェンス際に立ち、金網に手をかけて道路の向こうの体育館――その脇に並ぶ格技場に目を向ける。中では他の運動部同様、部員の生徒たちが部活を始める準備をしているだろう。


「――俺の名前は羽瀬悠真(はるま)。あの格技場に未練を残している青春野郎だ」


 不意に声が聞こえた。聞き覚えのある声――頭で考えるよりはやく口が動く。


「勝手にアテレコしてんじゃねえよ、椿姉」


 振り返ると――その姿があった。白衣に身を包んだ養護教諭、花村椿。社会人二年目の彼女とはもう長い付き合いで、こうして学校で会っても先生とは思えず、ついいつものように話してしまう。


 その椿姉が腰まで伸びる長い髪をかき上げて、よっと片手をあげる。


「おっす。青春野郎」


「誰が青春野郎か」


「あ、学校では花村先生と呼べよ、悠真」


「注意が遅いんだよ。っていうかそんなことを言うならまず椿姉が俺を羽瀬くんって呼べよ」


「私が? お前を羽瀬くんて? 誰も見てないのに? はは、ありえないだろ」


 鼻で笑う椿姉。こいつむかつくな……


「元気か?」


「まあな」


 椿姉の言葉に頷くと、彼女は満足げに頷く。


「こんなとこで何をしているんだ」


「何もしないをしようかなって。まっすぐ家に帰る気になれなくてさ。椿姉こそ普通科校舎の屋上に何の用だよ」


 椿姉が去年からこの学校で養護教諭として働くことになったのは、俺がこの学校に合格したときに聞いている。しかし入学して一年と少しの間、学校で会ったのは数えるほどだ。


 先述の通りこの大きな学校には保健室が三つある……らしい。らしいというのは、俺自身は普通科校舎にある第一保健室しか知らないからだ。


 そして椿姉は第三保健室の養護教諭。正直第三保健室とやらがどこにあるかさえ知らない。


 椿姉は俺の問いににやりと笑う。


「部活の指導に向かったら、歩道橋から物憂げな顔でこっちを見下ろすお前の姿が見えたんでな。お姉さんがそんなに恋しいのかと馳せ参じてやった」


「堂々と笑顔で嘘をつくんじゃない。詐欺師か。あともう自信がすごい。別に椿姉が恋しいとかとかないよ。全然ない。無理。チェンジ」


「無理はさすがにひどくないか。お前私が思春期だったら今の言葉で傷ついて余裕で引きこもるレベルだぞ」


「いや、椿姉ならきっと言った相手をぶん殴って床舐めさせるね」


 わざとらしく凹んだ様子を見せる椿姉に言ってやる。


「これでも学生時代は結構モテたんだけどなぁ」


「それは否定しないよ。知ってるし。でも俺にとって椿姉は人生のラスボスじゃん?」


 客観的に見れば、椿姉は超がつくタイプの美人だろう。顔の造形は好みがあるから置いておくとして、すらりとした手足に均整のとれた細身の体。普段の立ち居振る舞いもお淑やかで、見た目だけなら満点だ。


 しかし――


「ラスボスてお前。女に言う言葉か?」


「《正拳の魔女》とか呼ばれていた女にはぴったりだろ」


「……ふっ、昔の話さ」


「何かっこつけてんだ。だせえ。ググれば今でも余裕でヒットするくせに」


「お前こそリアルで《天才》とか言われていたくせに」


「……ノーコンテストにしようぜ。過去を口撃し合うのは不毛すぎる」


「むしろ私の負けでいいからやめておこう。大人な分だけ私の方がダメージがでかい」


 俺の提案に、椿姉がそんなことを言う。


「――で? 椿姉はどうしてこんなとこに? 俺を見かけたからじゃないだろ?」


「ああ、うん。実を言うとお前を探していた。お前友達いる? お前のクラスに行ってクラスメイトにお前の所在尋ねても誰も知らないって言うし、っていうかお前の名前出しただけで怪訝そうな顔されたぞ。仕方ないから下駄箱確認して、まだ靴があったから逆に下駄箱から一番遠いところに来てみた」


「友達についてはほっといてくれ」


 あと下駄箱に靴があるから一番遠いところに行ってみようって発想が鬼。トイレとかだったらどうするつもりだったんだ。


「そしたらお前、『僕、青春野郎なんですよ』って顔で青春ぽいことしてるじゃん? そりゃアテレコぐらいするよ」


「するな。あと別に青春してたわけじゃない」


「何もしないをしようとしてた男が青春していないと?」


「おうちょっと黙れ。な?」


「動画撮っておけばよかったなぁ」


「録画なんてしてたら盗撮でPTAに訴えるからな。っていうか何の用だよ」


 尋ねると、椿姉は少しだけかしこまり――


「なあ悠真。部活、復帰しないか?」


 それはもしかしたら言われるのではないかと考えていた言葉だった。


 だから、俺は頭の中で考えていた答えをそのまま口にする。


「……もういいよ、空手は」


「……未練、あるんじゃないか?」


「……ゼロとは言わないよ。けど膝を二度傷めた。日常生活に支障がないくらいには回復したけど、怪我をする前のように動けるようになる可能性は低いって医者に言われてるんだぜ。現役に戻って、かつてできたことをできなくなった自分を痛感し続けるのは正直きついよ」


「医者の話では可能性はゼロではないんだろう?」


「医者の立場じゃ百パーセントと断言できないってだけだろ。椿姉だって拳を壊して現役を退いたじゃないか。俺に復帰しろって言うなら、まず自分が現役復帰するのが先じゃね?」


「私が故障して現役引退したのは大学四年――学生最後の年だ。でもお前は大学に進学すれば、あと六年は学生だよ。お前にはまだ時間がある。好きだったろう、空手。汗を流す程度でもいいじゃないか。それなら私だって――」


「……もういいじゃんよ」


 彼女の言葉を振り払うように言うと、諦めたように椿姉は言いかけた言葉を呑み込み、別の言葉を吐いた。


「……すまん。まだ立ち直れていなかったか」


「いや、自分では納得しているし、立ち直ってるつもり。まあ、空手から離れて時間を持て余すようにはなったかな。リハビリも終わって暇だし。ただ復帰したいと思ってないから、勧められるのが嫌なだけ」


「……そうか」


「母さんは安心しているみたいだぜ。空手してるときは生傷絶えなかったし、いつだって体のどこか痛かったし。女親としては息子が毎日湿布やら絆創膏やら貼ってる姿を見るのは嫌だったのかもな」


「それはお前が弱いのが悪い。私は両親に空手で心配かけたことはない」


「そりゃ椿姉と俺じゃモノが違うかもだけど」


 ……余計なことを言うんじゃなかった。口を滑らせたことを後悔していると、椿姉が柔らかい口調で言う。


「……でも少しだけ安心したよ」


「うん?」


「空手に熱意がなくなったわけじゃなさそうだ。本当にどうでもいいのなら、もっと無関心だろうから」


「……そんな話をするためにわざわざ俺を探したわけ? 養護教諭って暇なのか?」


「そう言うな。これでもお前の姉ちゃんだぞ。心配ぐらいさせてくれよ」


 お節介な人だ。有り難くて溜息が出る。


 俺はかつて町の道場で空手をしていて、六つ上の近所のお姉さんだった椿姉は俺より早く道場に通い始めた。まあなんだ、椿姉を追っかけて俺が後から入門したわけだ。


 椿姉はどうやら才能という奴があって、その上努力を怠らない人だった。高校に入った(桜星のOGだったりする)頃には全国に名前を轟かせる一角の選手になっていて、公式戦を無敗で卒業するころにはその圧倒的な強さから《正拳の魔女》という字が定着し――そして大学の最後の大会で利き手の拳と手首を骨折。努力の鉄人だった椿姉は、自分の体躯に骨格以上の威力を備えてしまい、結果それを打ち出す拳が耐えられなくなって故障した。


 世界に手が届く選手だった椿姉は故障を治して選手を続けるのかと思っていたが、あっさりと引退。母校からの(本人曰く熱烈な)オファーに応じ、大学卒業後は養護教諭という名の空手部のコーチに収まった。


 そして俺は――先の通り椿姉の後を追いかけて空手を始めた。入門したのは小四か、その前後くらいだ。子供の頃は近所の綺麗なお姉さんに見えていた椿姉が好きだった(今はそんな気はないけれど)俺は気を引きたくて空手を始めた。そんな雑な理由で始めた空手が、やってみたら意外と面白くてのめり込んで――


 その上俺にも才能の欠片みたいなものがあって、努力も楽しめた。《正拳の魔女》が道場的な意味で可愛がった弟弟子の俺は、次第に《魔女の弟》なんて呼ばれるようになり、小さな大会で結果を出せるようになっていった。


 中学二年の時に、椿姉の母校で空手の名門校である桜星への進学を意識した。手っ取り早くスポーツ推薦で合格を決めようと考えた俺は、師範の勧めもあって年代別の大会に出場し――全国を制した。


 その頃から《魔女の弟》だけでなく《天才》とも呼ばれるようになった。呼び名が増えて周囲の期待も大きくなり、中三の大会前には全国制覇は勿論、世界大会のエントリーとその結果も期待された。


 そして中三の夏前、今から二年前の今頃――交通事故に遭い、左膝の十字靱帯を切った。医者には手術とリハビリで復帰に一年かかると言われた。


 当時の俺は腐らなかった。怪我のせいで推薦こそ逃したものの、リハビリと平行して勉強に励み、受験に臨んだ。桜星に合格したときは椿姉がいた高校で空手ができると健気に喜んだものだ。


 しかし、去年の夏前――医者の許可を得てようやく参加できるようになった部活の初日に、同じ場所を故障した。怪我の内容も同じ。治療にかかる期間も同等。ただし、医者は最後に次はないと締めくくった。


 ――俺はその診断結果を受けて空手部を退部した。それだけの話だ。膝は生活に支障がないほどに回復した。スポーツも無理のない程度にはできる。しかし俺は空手に戻るつもりはない。


 椿姉の言う通り心残りがないわけじゃないが、もうそれを望むことはできそうにないから、空手ごと諦めた。




「そんな話なら聞きたくないぜ。養護教諭は腰掛けで、椿姉の本業は空手部のコーチなんじゃねえのか? 辞めた部員に構ってないで、さっさと現役の指導にいけよ」


 昔を思い出し、感情がささくれて言い方がきつくなってしまう。俺たちは姉弟子・弟弟子の前に幼馴染みの姉弟だ。周囲の目さえ気をつけていれば、椿姉は俺の態度を咎めたりはしないが――だからといって、言い過ぎて罪悪感を覚えないわけじゃない。


「悪い。言い過ぎた」


「――いや、こっちこそごめんな。久しぶりに顔を見て、つい口から出てしまった。これは本題じゃないよ。別の用事があってお前を探していたんだ」


「別に謝らなくてもいいけど――は? 用事? 俺に?」


「うん。頼みがあって。まさか私の頼みを断らないだろう?」


 尋ねると、椿姉がにやっと意地悪く笑う。これは断らせないつもりどころか、無理難題を言いつけるつもりだな?


「拒否権ってある?」


「あるよ。ただし断ったらめちゃめちゃ可愛がる。道場的な意味で」


「ないのと同じじゃんか。適当な空手部の部員にやらせろよ」


「いやいや、信頼できて暇そうな奴がお前しかいなくてなぁ」


「いやいやいや、俺こう見えて実は結構忙しくて」


「リハビリ終わって暇だって言っていたじゃないか」


「いやね、これからなんか始めようかなって」


「うるさい黙れ。ぶっ飛ばすぞ」


「あっはい」


 こうなった椿姉はダメだ。逆らったら引退した《正拳の魔女》が復活する。いや、もう正拳は使えないはずだから、《ビンタの魔女》とかかもしれない。


「――……なんだよ、頼みって」


 びびってない。びびってないぞ。《ビンタの魔女》と俺の現在の戦力差を比較して身の安全を優先しただけだ。びびってない。


 聞く姿勢になった俺に椿姉は微笑んだ。


「素直な悠真が可愛くて好き」


「うるせえよ! で、なんなの」


 調子よくにっこりと笑う椿姉にそう吐き捨てると、彼女は口元を引き締めて――


「悠真。お前、この桜花星翔高校に《魔女》がいることを知っているか?」


 そんな本気で聞くには馬鹿馬鹿しすぎる言葉を口にした。


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