PM 11:37

 と、その時だった。


 コンビニの自動ドアが急に開き、スーツ姿の男性が転がり込むように店内に入ってきた。


 そして、息を弾ませたままきょろきょろと店内を見回す。

 その男性を見てなぜか目を見開いていた立石だったが、はっと我に帰り、すかさずカウンターから出た。そのまま男性に駆け寄る。


「どうかなさいましたか?」

「すみません。その、妻が熱を出してしまいまして。勢いで来たのはいいのですが、何を買えばいいのか……」

「あ、それなら、こちらに……」


 立石の指示に従って、男性はヨーグルトやレンジで調理できるお粥、スポーツドリンクをカゴに入れると、レジカウンターにやってくる。

 私はさっと脇に退いた。実はまだアップルパイの会計は済んでいなかったけれど、今はそういう話ではない。


 カゴに入った商品を立石がレジに通す間に、男性はポケットから二つ折りの黒革財布を取り出す。その財布には、緑茶色をした垂れ耳の犬のストラップが付いていた。


 そして、私は見た。

 その財布の中に、一枚の写真がお守りのように収められているのを。


 その写真には、男性の他に、赤ちゃんを抱いた綺麗な女性が写っていた。



 *****



「ありがとうございましたー」

 会計を済ませた男性が店を出ていくのを、立石が頭を下げて見送る。私も一緒に、小さく頭を下げておいた。


「高橋の説、正解だったな」

「みたいだね」


 それから少しの間があいて、立石が口を開いた。

「で? 何で俺の説に賛同したくなかったんだ?」

「え?」

「ほら、言ってただろ。『賛同したくない』って。顔しかめたりとかもしてたし、なんか理由ありそうだなーと思って」


 私は一度黙った。そして、考えた。

 立石は、何か答えをくれるだろうか。


「あの、さ」

 発した声は、思ったよりも暗く沈んでしまった。

 やはり、話さない方が良いだろうかと思ったけれど、小さな子供を相手にするようにうなずく立石を見て、続けることにした。


「私、いとこがいるんだ。年はちょっと上だけど、姉妹みたいに仲が良くてね。

 で、そのいとこが今日、彼氏を振ったんだって。大学生の頃からずっと付き合ってきた彼氏を。LINEで知らされた」

「え」


「理由は、『彼氏がもう私への愛を持ってないから』だって。

 前々から、相談は受けてたんだよ。『彼氏が私を愛してないみたいだ』って。『別れを切り出すと、私がかわいそうだから、付き合い続けてるような気がする』って」

 私はいとこ——佐々木雪音の顔を脳裏に思い描く。私に相談してきた時、色白の綺麗な顔は苦く歪んでいた。


「それでも、私のいとこはずっとずーっと『これは愛なんだ』って自分に言い聞かせて、誤魔化し続けてきた。だって、『愛されてないんだ』って理解しちゃったら、寂しくて虚しくて苦しいから。

 でも、今日やっと決心がついて、彼氏を振ってきたんだって。よりによって、二人が付き合い出した記念日のディナーの時に」


 今日の夜10時頃、雪音から送られてきたLINEの文面は、とても短かった。

〈さっき彼氏を振ってきた〉

〈私への愛がないなら、別れてくださいって〉

 私はまだ、この二文に返信できていない。


 「要するに」と立石は言った。

「高橋は、俺の説の《ユカリ》さんと、いとこを重ねちまったってことか」

 私は、いじけた小さな子供のようにうなずいた。


 力なく呟く。

「私にも何かできたことがあったんじゃないかって、ずっと考えてる」

「そんなの、ないだろ。人の恋路の責任を高橋が負う必要なんてどこにもない」

 立石は噛んで含めるように、はっきり発音した。でも、私は首を横に振る。


「確かにそうかもしれない。でも、私はそうは思えないんだよ。早いうちから、いとこに『そんな男とはちゃっちゃと別れた方がいい』って言っておけば、よりによって記念日に別れを切り出すことにはならなかったかもしれない」


 私はなぜか泣き出しそうになりながら、続けた。

「私はその後悔があるから、いとこに何かしてあげたいって思ってる。一番苦しいのは、多分今だから。けど、何をすればいいか分からない」


 立石は困ったように息を吐くと、言った。

 駄々を捏ねる子供をあやすような顔をしていた。

「高橋は優しいよな」

「どこが」


 吐き捨てるように言って、自嘲する。

「どうすればいいか分かんなくなって、逃げちゃったんだよ? そのくせ、諦めきれなくて、ハッピーエンドを欲しがって。

 立石、付き合わせてごめん」


「いや、別に気にすんなって」

 立石はぶんぶん手を振ると、「俺は」と切り出した。

「高橋のいとこが今後、素敵な人に出会って、また愛を育めるかどうか、保証はできない。安っぽい言葉で応援もできない。でも」


 立石は力強く笑った。

「上手くいくように全力で祈っとくよ」



*****



 それから、中途半端に放置されたアップルパイの会計を済ませ、私は下宿先に帰った。


 本当はまずアップルパイを食べるつもりだったが、私はすぐさまスマホの電源を入れた。


 LINEを開いて、雪音のトーク画面を開く。

 キーボードを前に少しためらったが、私は文字を打ち込んでいった。一つ一つゆっくりと。


〈今週の土曜日、暇だったりしない?〉

〈どこか遊びに行けないかな、と思って〉


 私にできることはほとんどない。でも。


 愛と呼べない夜を越えたいと願い、自ら越えていった雪音が、苦しいと思った時、すぐにもたれかかることができる位置に立っていようと思った。

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愛と呼べない夜を越えたい 久米坂律 @iscream

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