PM 11:27

 私はレジカウンターにバンと手を付いた。

 カウンター上のアップルパイが小さく振動する。


 立石が驚いた顔でこちらを見た。

「え、どうした」

「もう一回、最初から考え直さない? 私は立石の説に賛同したくない」


 立石の説にアラを見つけられないのなら、もう一度、最初から説を構築しなおせばいいのだ。


 カウンターに手を付いたままぐいっと見上げると、立石は困惑した様子でうなずいた。

「いや、まあ、全然いいんだけど。俺の説は後味悪いから、最初っから別の説考えてもらうつもりだったし」



 *****



 顎を押さえて、じっと考える。


 立石と違う説を組み立てようとするなら、最初の方に出てきた「愛と呼べない」理由を考え直す必要がある。


 多分、後者の「心理的な理由」で説を構築していくと、どう頑張っても浮気やら不倫やらにたどり着いてしまうだろう。だとすれば、私は前者の「物理的な理由」で説を構築していかなければならない。


 物理的な理由。

 夜、図書館は開いていないし、映画館も考えにくい。

 他に、声を出すのが憚られるような状況はないだろうか。


 今までの話を反芻して反芻して。

 私はあることを思い出した。


「ねえ、立石」

「ん?」

「この『愛と呼べない夜を越えたい』って言葉は、《ミドリ》さんが口頭で言ったのを聞いたんだよね」

「え? おう」

 立石は急に訊かれたことに驚いたようだったけれど、肯定した。


 口頭で言ったのを聞いたのならば、いけるかもしれない。

 私は口を開く。

「最初の方に名前を呼べない理由について話したでしょ?」

「物理的な理由と心理的な理由ってやつ?」

「そう。立石は後者の理由から考えてたけど、前者の理由から考えることはできないかな」


 すると、立石は分かりやすく眉をひそめた。

「でも、高橋も前者の理由は考えにくいって」

「確かに、あの時はそう思ったんだよ。でも、声を出すこと自体が憚られる状況、まだあるよ」

「……それは?」


 大きく息を吸ってから、私は答えた。

「呼びかける相手が寝てる場合」

 立石は目を見開いた。しかし、すぐさま問いかけてくる。


「いや、でもさ。呼びかけたぐらいですぐ起きるか?」

「だったら、相手は小さな物音ですぐに起きちゃう性質を持ってるんだよ。例えば……赤ちゃん、とか」

「そんな唐突な」


 呆然と呟かれた言葉に、私は重ねる。

「《ミドリ》さんは二十代後半なんだったら、娘さんがいてもおかしくない。

 それに、立石は例の言葉を音でしか受け取ってないんでしょ? だったら、」

 私はレシートの裏に書かれた『愛』の字を人差し指でつつく。


「この字は、本当は別の漢字をあてるのかもしれない。例えば、藍色の『藍』とか」

「それが?」

「《ユカリ》さんの名前の漢字は分かんないけど、『むらさき』って字をあてることもあるじゃん。それで、旦那さんの名前は《ミドリ》」


 そこまで言うと、立石が「あっ!」と声を上げて、話を引き継いだ。

「色の名前か!」

「うん。親の名前から関連させて子供の名前を考える親も多い。二人とも色の名前なんだったら、子供の名前も色の名前になる可能性はあるでしょ?」

「要するに、《藍》さんは、《ミドリ》さんと《ユカリ》さんの子供の可能性が高いってことか!」

「うん!」


 私達は、《ミドリ》さんを始めとした登場人物は全員大人だと思っていた。しかし、違っていたのだ。

 そう考えれば、状況はガラリと変わる。


 私は、最後にもう一押しした。

「例の言葉の意味は、早く《藍》ちゃんに起きてもらって、名前を呼びたいってことでしょ。つまり、この言葉は子煩悩の父親の言葉!

 子供を愛する人が、不倫なんてするはずない!」

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