PM 11:13
「とりあえず、俺の方でも考えてみたんだよ」
状況の確認と情報の提示が終わった後、立石はそう口を開いた。
「まず、時系列は夜だよな。『夜を越えたい』って言ってるし。
で、この『愛』が何を指しているか。普通に考えれば、英語で言うところの'love'とか‘affection’のことだよな。でも、俺は違うと思ってる」
「と言いますと?」
「《ミドリ》さんが『愛と呼べない夜を越えたい』って言ったあと、聞いてた方のサラリーマンが『何上手いこと言おうとしてんだよ。しかも、あんまり上手くないし』みたいなこと言ってたんだよ」
「つまり?」
「『上手いこと言おうとしてる』ってとこから考えて、何かと掛けてるんじゃないかってこと」
「掛けるって、謎掛けみたいな感じ?」
私の問いかけに、立石は大きくうなずく。
「そうそう。上手くはいってなかったみたいだけどな。
あと、『愛のない』じゃなくて、『愛と呼べない』って言い方してるのも多少引っかかる」
「まあ、そうだね」
『愛のない』と『愛と呼べない』は、多少のニュアンスの違いはあれど、あまり意味は変わらない。
『愛のない』の方が簡潔で言いやすいのに、なぜ『愛と呼べない』にしたのかは、確かに引っかかる。
「だから」と立石が続けた。
「俺はこの『愛』は'love'とか‘affection’以外の意味もあると踏んでる。例えば、人名」
「人名?」
「そう。こないだ、高橋もこういう考え方してただろ?」
確かに、先月推論をした時に、私も似た手法を使った。
「この『愛』が人名だって考えたら、あえて『呼べない』って言い方してるのも説明が付く」
「なるほど。『愛』が人名だった場合、『愛のない』ってするのは不自然だもんね。『愛のいない』とかじゃないと、おかしい」
「そうそう。それに対して、『愛と呼べない』はかなり自然だよな。名前は呼ぶものって、相場は決まってるし」
私は感嘆のため息をこぼした。上手く筋が通っている。
「そんで、次。とりあえず『愛と呼べない夜』だけ取り出して考えてみたんだよ。
この文章の語り手は《ミドリ》さんだから、『愛と呼べない』の主語は《ミドリ》さんだよな?」
一つうなずく。多分、それで間違いない。
「で、『愛』を人名だと考えると、『愛と呼べない』っていうのは、何らかの理由があって、《愛》さんって人の名前を呼べないってことだろ」
もう一つうなずく。
私がうなずいているのをきちんと見届けてから、立石は、
「だから、名前を呼べない状況を考えてみた。これには、二通りあるんじゃないかと思う」
と言って、二本指を立てた。
二通りの理由。私は口を開く。
「それは、物理的な理由と心理的な理由ってこと?」
「と言うと?」
立石に倣って、私も人差し指を一本立てる。
「前者は、名前を呼ぶ、言い換えれば、声を出すこと自体が憚られる場所にいるって理由。
例えば、図書館とか映画館とかかな。静かにしなきゃいけない場所」
次いで、中指を人差し指に並べて立てる。
「後者は、何らかの状況によって《愛》っていう名前自体が呼べないって理由。
例えば……私、立石のこと苗字で呼ぶよね」
「おう」
「立石と私に置き換えて考えてみると、《立石》って呼び方ができないだけで、下の名前——《春太郎》って呼ぶのは問題ないってこと」
そう言うと、なぜか立石が自らの口をばっと手で押さえた。
「何?」
「いや、何でもない」
そう言いながらも、なんだかそわそわした様子である。私、何かしただろうか。
とりあえず、説明は終わったので、確認する。
「この二つで合ってる?」
「それで合ってる。んで、前者の状況があんまり思いつかなかったんだよなあ。図書館は夜開いてないし、映画館もちょっと考えにくい」
「確かに」
映画館も静かにしなければいけないことに変わりはないが、名前を呼ぶくらいなら、周りから白い目で見られることもないだろう。
あくまで「愛と『呼べない』」であって、「愛と『叫べない』」ではないし。
「だから、俺は後者だと思ったんだよ」
「私もその意見には同意かなあ」
「《愛》って、多分下の名前だよな。しかも女性の」
私は無言でうなずく。男性でも《愛》と言う人はいるかもしれないが、女性の方が圧倒的多数だと思う。
「相当距離が近くないと、男女間で下の名前呼びなんてしないと思うんだよ。つまり『《愛》と呼べない』=『距離が近いと思われるのは不都合』ってことだよな」
そこで立石は一旦言葉を切った。そして、声を潜めて続ける。
「《ミドリ》さんは男性で、《ユカリ》さんっていう奥さんがいて、それでいて距離が近いと思われるのは不都合な女性《愛》さん……って、これはもう不倫しか考えられないんだよなあ」
やっぱりそう来たか。薄々途中で気づいていてはいたけれど。
私はまたもや顔をしかめてしまった。
しかし、今回は気づかれなかったらしい。立石はさらに言葉を重ねる。
「今までの話をまとめると……《ミドリ》さんは妻である《ユカリ》さんへの愛情はすでになく、《愛》さんに愛情を向けていて、たびたび夜に密会していた。普段は苗字で呼んでるけど、密会の時は下の名前で《愛》と呼んでいた」
立石は続ける。
「そんなある日、《愛》さんと《ミドリ》さんが一緒にいる場所に、たまたま《ユカリ》さんが鉢合わせ。妻がいる手前、《ミドリ》さんは《愛》さんを下の名前で呼べなかった。つまり『《愛》と呼べない』」
私はその間ずっと考え続けていた。何か、アラはないか、と。私はこの説をどうしても覆したかった。普段はこんなこと考えないのに。
やっぱり、ちょっと今の私は頭がどうかしているようだ。
なんとか一つアラを見つけて、口に出す。
「《ミドリ》さんと《愛》さんが一緒にいるところを《ユカリ》さんが見たとして、《ユカリ》さんはその場に同席するかなあ? ぱっと見で浮気っぽい現場に同席なんてしないと思うけど。
でも、《ユカリ》さんがその場に同席しないと、『《愛》と呼べない』状況にはならない」
「《愛》さんが《ミドリ》さんの同僚だとすれば、ないことはないぞ。
《ミドリ》さんの同僚ってことは、《愛》さんは《ユカリ》さんとも同僚だった、つまりはそれなりに関わりがあった可能性がある」
確か、《ユカリ》さんはかつて《ミドリ》さんと同じ職場にいたと言う話だったし、考えられなくはない。
でも、
「それが何?」
「もし、《愛》さんが《ユカリ》さんから一定の信頼を得られてたら、《ミドリ》さんと一緒にいても、《ユカリ》さんは『ああ、仕事帰りにたまたま一緒になったのかな』って思う可能性が高い」
「あ」
「俺はこの『愛と呼べない夜を越えたい』を、《愛》さんを下の名前で呼べない夜を越えたい、言い換えれば《愛》さんを下の名前で呼べる状況になってほしいって意味に解釈した。もっと平たく言えば、早く《愛》さんとイチャつける状況になってほしいって感じかな」
他にアラはないだろうか。頭をひたすら回転させる。
「《愛》さんのことを下の名前で呼べない理由は他にもあるんじゃない? 例えば、単に距離が遠いから下の名前で呼べない、とか」
「どっちにしろだろ。『《愛》と呼べない夜を越えたい』ってことは、下の名前で呼べるようになりたい、距離詰めたいってことだろ? 奥さん以外の女性と距離詰めたいって考えてる時点でダウトだ」
そう言ってから、立石はぽつりと呟いた。
「旦那に浮気された《ユカリ》さんは、今後どうするんだろうな」
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