第3話 異世界

 寝惚け眼を擦り、凝り固まった肩を揉みほぐしながら上半身を起こすと、壁にかけられた時計の針が午前八時を指していた。白色の制服を着たままで、微かにアルコール臭い息が鼻を抜ける。

 状況から鑑みるに、どうやら昨晩に酒を飲んだままマッサージベッドの上で眠りに落ちてしまったらしい。寝癖が立つ頭を掻きながらあくびをし、ぼんやりと昨晩の出来事を思い返す。


 待合室に設置しているウォーターサーバーから熱湯をマグカップに注ぎ入れてインスタントコーヒーを作ると、我ながら笑えない夢を見たものだと苦笑いをしてアルコールの臭いが残る口にカフェインを流し込む。


 ――きっと、死にたくなるほど現実逃避していた自分が見せた泡沫うたかたの夢にすぎない。


 神だとか異世界だとか、改めて冷静に考えると赤面するほど馬鹿馬鹿しい妄想話を見るまでわらにもすがりつきたかったのかと情けなくなり、溜息ばかりで淀む室内の空気を入れ替えるために入り口の扉を開け放った俺は――目の前の光景に我が目を疑った。


「……は?」


 子供の頃から見慣れた商店街の町並みが、どこを見渡しても存在しなかった。アスファルトで舗装された通りには凹凸が目立つ石畳が敷き詰められ、本来であれば通勤時間帯のはずにもかかわらず、道行く人々の中にスーツ姿のサラリーマンは一人も窺えず子供をママチャリの後ろに乗せてペダルを漕ぐ主婦の姿も見当たらない。

 代わりに日本では見たことのない装いをした通行人達が、目の前の目抜き通りを闊歩していいた。ふと視線が合った女性に、おかしなものでも目にしたかのように顔を背けられる始末。


「本当に、ここは異世界なのか?」

 

 夢遊病者のように通りを彷徨い歩くと、見知らぬ料理を提供する飲食店や、物騒な武器や防具を販売している店が見に飛び込んできた。

 威勢のいい客引きの声にドキッとし、キョロキョロとあたりを見渡しながら歩いているとすれ違った通行人と肩がぶつかった衝撃で、よろけて倒れてしまった。


「あんた、大丈夫か?」

「痛た……すみませ、ん」


 差し出された手を反射的に取った瞬間、息を呑んで固まってしまった。その手は緑色の鱗にびっしり覆われ、ひんやりと冷たい。鋭い爪が手の甲のに浅く刺さって痛いのだが、声を上げることができなかった。


 壊れたブリキの玩具のように顔をあげると、俺の頭など丸呑み出来そうなほど大きな口から牙が覗く蜥蜴トカゲに軽々と体を引き上げられ、「気をつけろよ」と肩を叩かれて去っていく。その背中には大人の背丈ほどの大剣が背負われていたことに遅れて気がついた。


 立て続けに起こる摩訶不思議な体験の連続に立ち眩みを起こしていると、視界が突然暗くなり地面に巨大な影が下りた。

 上空を見上げると小型のセスナ機と同等サイズの鳥の群れが優雅に飛び交っている。だというのに通行人は誰一人として気にする素振りを見せない。


「いやいや……どうせこれも夢なんだろ」


 目の前の光景を疑うことなく受け入れるには情報量が多すぎる。しかし否定したいと言う思いとは裏腹に腹の虫はやかましく空腹を訴えていた。

 風に乗る土埃の匂いとともに、空きっ腹を刺激する香辛料の匂いに誘われるがまま歩いていると、得体の知れない肉が刺さった串を焼いている屋台の前で足が止まる。

 炭火で焼かれる脂の匂いによだれが垂れそうになり、爪跡の残る手の甲で拭うと忙しそうに串を焼いている店主に何を焼いているのか尋ねた。


「おやっさん。これって何の肉?」

「なんだ、そんなことも知らないのかい」


 ものを知らない人間に向けられる視線が突き刺さるも、羞恥心より空腹が勝っていていた。


「これはワイバーンのモモ肉だよ。近隣の平原で冒険者に狩られたばかりだから新鮮で上手いぞ」

「ワイバーン……」


 注文することなく突っ立ったままでいると、「冷やかしはゴメンだよ」と忠告されてしまい慌てて制服のポケットに手を突っ込むと、コンビニで受け取ったお釣りが入っていた。

 一本あたりの値段が分からぬまま五百円玉を差し出すと、受け取った店主は硬貨を裏表に返してしばらく眺めたのち、俺に投げ返してきた。


「そんな見たこともない金が使えるかい」


 空腹感は余計に強まるばかりで、結局購入を断念せざるを得なかった俺は腹を抑えながら渋々来た道を引き返している道中、背後から快活な声が飛んできて振り返った。

 そこにはアニメの中でしか見たことがない猫耳の少女が、両手に先程の屋台の串焼きが入った袋を抱えて立っていた。


「これ、あげるよ。お金ないんでしょ?」

「え? そんな悪いよ」


 外見はまだ十代半ば――女子高生程度の若者に施しを受けるわけにもいかず丁重に断っても、「いいからいいから」と押しの強さに押し切られ無理矢理手渡されると、猫耳の少女は手を振り嵐のように去っていった。


「やっぱ本当の異世界なんだな……」


 受け入れざるを得ない状況に、俺はまだ温かい串焼きを口に頬張りながら、ほぐし庵へと戻った。


       ✽✽✽✽


 ほぐし庵に戻ってくると、店先の立て看板の陰で見知らぬ少女がそわそわと店内を覗き見ていた。


「あの……何をしてるんですか?」

「キャッ!!」


 驚かせるつもりは決してなかったのだが、声をかけたことで腰を抜かせて尻餅をついた少女は、涙目になって抗議をしてきた。


「な、な、なんですか貴方はっ! この森妖精エルフである私に突然背後から声をかけてきて驚かすなんて、それでも殿方がしていい所業だと思いますの!?」

「ごめんごめん。俺はこの店の店主なんだけど、何か用かい?」

「ああ、貴方がこの店の店主なんですね。それなら話は早いです。ここはいったい何を販売している店なのか教えなさい」


 そう言うと腕を組み、人にものを頼む態度とは思えない尊大な態度で答えを待っていた。


「えっと、看板に書いてあるとおりマッサージ店だけど」

「だから、その『マッサージ』とはなんなのですか! 見たところ店内には商品らしいものは見当たりませんし、簡易的なベッドが並んでばかりのようですけど」

「う〜ん。説明するより体験したほうが早いかな」


 マッサージを知らないことなんてあるのかと疑問に思ったが、周囲に人集ひとだかりができ始めていたので、一先ず疑わしい視線を向けてくる少女を店内に案内することにした。




 

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