第2話 出立
コンビニまで大した距離でもないと侮り、師走の深夜に薄着のまま出掛けたことを遅まきながら後悔した。すっかり体の芯まで冷え、身震いをしながら駆け足で店まで急いだが、ちらと視界に映るライバル店には閉店時間を終えてもなおレジで会計を済ませる客の姿が窺える。
「あれ? おかしいな。鍵が掛かってるか確認してから店を出たはずなんどけど……」
盗られて困るような金品の類を置いている訳ではないが、常日頃気をつけている戸締まりを忘れてしまうほど、心身ともに疲弊しきっていた状態で
そう結論づけて扉を開けると、とっくに閉店時間を過ぎている店内のマッサージベッドに見かけない老人が勝手に腰掛けていて、俺を確認するなり片手を上げて挨拶をしてきた。あまりに自然な仕草だったので思わず会釈をしてしまったほどだった。
「えっと、すみません……。本日は閉店時間を過ぎておりまして」
照明を点けたままでいると、たまに開いてるのかと勘違いしてやってくる客がいる。老人もその類だろうと当たりをつけ、やんわり断りを入れて帰りを促そうとするも耳が遠いのか、逞しい
「困ったな……何を喋ってるのかわからないな」
見かけは隠遁生活を送る仙人のようで、頭髪は肩まで伸びた白髪――ゆったりとした衣服は布一枚から縫製されているような珍しい装いだった。これで杖でもあれば、まんま仙人だなと思っていると、老人の傍らにはそれらしい杖が立て掛けられていて思わず吹き出しかけた。
その後も聞き覚えのない言語に悪戦苦闘し、翻訳アプリを立ち上げたもののエラー表示が出るばかりでまるで役に立たなかった。それに、まず前提としてマッサージ店に訪れる客は多かれ少なかれ体に不調をきたしているはずだが、正面の老人はいたって健康そうな佇まいで腰掛けている。
「あ〜、おじいちゃん。俺の言ってることわかる? アンダスタン?」
「判っておるわい。ワシを誰だと思っておるのだ。ちいっとばかしこの世界の言語に調節するのに手間取っただけにすぎん」
――言語の調整?
一歩間違えば不法侵入と疑われかねない状況で、なにを言ってるのだろうかと不審に思いながらも会話を続ける。
「なんだ、通じているんだったら最初から答えてくださいよ。悪いけど明日以降ご来店して頂けますか」
申し訳ないとは思いつつ、少々語気を強めて扉を指差す。早く出て言ってくれと暗に告げると、爺さんはふてぶてしさを隠すことなく立ち上がった。
なんでもいいから早く出てってくれないと、おちおち死ぬことも出来やしない。
しかし最後に言葉を交わしたのが見知らぬ爺さんというのは、人生の
甘い樽香の匂いが口から鼻へと抜け、食道から空きっ腹の胃袋へと熱く燃えながら下っていく。自罰的な感覚に酔いしれていると、突然肩を叩かれたものだから大袈裟に驚いて振り返る。そこには
まさかホームレス? 寝床を探し彷徨い歩いてるうちに誰もいない店に転がり込んできたにしては身綺麗すぎる気もしなくはない。警戒心の度合いを上げて様子を伺っていた俺に、「何か困ったことでもあるのかの」と老人は透明な瞳で尋ねてきた。
現在進行系で困ってることと言えば、店から出ていかない貴方のことなんですがと伝えられるほどの度胸があるはずもなく、ただ不思議と老人の言葉に導かれるようにして返した言葉は、この数カ月間の苦境に対する淀んだ感情の吐露だった。
ライバル店の嫌がらせ行為――従業員の引き抜き――宏美との別れ――我が身一つに抱えていた苦しさを見ず知らずの老人相手に酒を酌み交わしながら語っていた。
溜まってた鬱憤が出るわ出るわ。もしかしたら、俺は誰かに自らの窮状を伝えたかったのかもしれない――。
「なるほどのぉ。陰湿な上司の嫌がらせに苦しんでいる同僚に代わって、執行部役員にパワハラやモラハラが日常的に横行している現状を直談判したのか」
「そうですよ……それに頭にきた問題の上司に呼び出されて、ネチネチと罵倒され続けました。ちょうど独立資金も予定額に達してたもんで退職届を叩きつけてやったんですよ。それを根に持った上司はいつまでも粘着質に追ってきやがって……。斜向いのマッサージ店はわざわざ『ほぐし庵』の客を奪うためだけにオープンしたみたいで、気がつけば常連客を根こそぎ奪われたんです」
「なるほどの。お主も辛かっただろうな。それでこれから自殺を試みようとしてたのか」
「え……? どうしてそのことを」
「どうもなにも、お主の顔には絶望が張り付いておるからの」
ストレートでウィスキーを口に運んでいるとは思えないほど
「そんなお主に提案がある。新天地で新しくマッサージ店を経営してみないか」
「何言ってるんですか。俺にまた店を開けと?」
ただでさえ貯蓄も食いつぶして日々の生活さえ困窮を極めている俺には、提案の信憑性はともかく土台無理な話だった。そもそもこれから死ぬ予定だった自分には縁のない話だと断ると、その点には及ばないと告げると店内を見渡して「いい店じゃないか」と、急に褒めそやしてきた。
「客に愛されてたことがよくわかる。なに、金銭面の負担を心配してるのなら安心せい。この店舗自体移転をしてもらう予定じゃからな」
「そんな古民家じゃあるまいし。というか、名前もまだ聞いていない貴方の仰る話を鵜呑みにすることなんて出来ません。とひあえず、その新天地とやらは何処なのか教えてくださいよ」
これから死にゆく自分が何を尋ねているんだと呆れていると、老人は額を叩いて答えた。
「これは失敬、不審がられても仕方ないの。立場上名を明かすことはできないが、この
呆けている俺に自称「神」とやらは、ほぐし庵に訪れた事情を説明しだした。
「実はの、ワシが管理する世界の一つでは人間が慢性的な疲弊に陥っておるんじゃ。要因はあげ始めたらきりがないが、お主の『マッサージ』という
「ちょ、ちょっと待ってください! 異世界だとか神だとか全然理解が追いつかないんですが、もしかして宗教の勧誘とかじゃないですよね?」
「別に改宗しろとは言わんが、そんなに信じられないなら、ほれ」
老人は杖を手に取り床を軽く叩いた途端、床が消失した。床だけではない、壁も、天井も、店舗そのものが消え失せ、三六五度上下左右に宇宙空間が広がっていたのだ。
「うわっ⁉」
突如足元を失った俺は、あまりの心許なさに老人にしがみついて震えていると、幼子を相手にするように笑われ「ワシが共におるから大丈夫じゃよ」と、頭を叩かれた。
周囲を確認できるほど落ち着きを取り戻すと、赤、青、黄、白――人生で目にしたことのない密度の光の粒に言葉を失い、隣で老人は説明を続ける。
「ここはワシが管理する宇宙じゃよ」
杖を振ると一つの惑星付近に一瞬にして移動した。外見は地球にそっくりで、かの宇宙飛行士の名言が甦るほど蒼く澄み渡っている。
「そうじゃな。お主が暮らしていたか地球と環境は似ておるの。人間が慎ましく生活を営み、歴史を紡いでおる。違う点といえば人間も含めて多種族が住んでおることと、危険なモンスターも存在することくらいかの」
「なんですか、そのおっかない世界は……」
聞けば聞くほどこれまで培ってきた常識が根底から覆される気がしてならないが、目の前で起きたことは一先ず信じるのが信条であるため、老人を神と仮定することにした。
「それでよい。ワシが言うのもなんじゃが盲信程危険なものはないからの。それで改めて答えを聞きたいのだが、命を無駄に散らせるくらいなら二度目の人生をやり直してみないか」
「人生をやり直す――」
口にしてみても実感が湧かないが、しかし自分の力を求められるというのは随分と久しぶりのことだった。再び元の店舗へと景色が戻ると、レジ袋に入れっぱなしだったビニール紐をゴミ箱に放り捨てて神とやらに伝えた。
「わかった。俺に出来ることがあるのなら、その異世界とやらでマッサージ店を開こうじゃないか」
「そうこなくては。今から直ぐにでも旅立てるが、どうする」
尋ねられた俺は親しい人間を思い浮かべた。親父は既に他界し、お袋は俺がいなくても再婚相手とよろしくやっている。
同窓生も年に一度は顔を合わせているが、連絡がつかなくなっても特に変わりはないだろう。唯一心残りなのは――。
「一つ聞きたい」
「なんじゃ?」
「異世界に旅立ったあと、再びこの街に戻ってくることは出来るか?」
未練がましいと言われればそれまでだが、せめて宏美には別れを告げてから旅立ちたい気持ちもある。それは余計な心配をさせるだけかと自重するもう一人の自分もいた。
「申し訳ないが、転移は一度きりの一方通行となっておる。心が揺れておるのなら時間をかけて考えても」
「いや……今すぐ行くよ。俺がいなくなったところで誰が悲しむわけでもないしな」
これ以上考えても無駄だ。全ては終わってしまったことなのだから。
老人は全てわかったような顔をして、「それでは参るぞ」と告げると再び杖で床を小突いた。そしてこの地球から跡形もなく俺が存在した痕跡は消えた。
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