VOL.3

 最初の”究極の選択”だ。

 いつもの俺なら、エレベーターなんぞ使わずに、狭い階段を屋上まで歩く。

 別に大した理由じゃない。

 足腰が衰えりゃ、商売にも響くからな。

 それにもし故障をしたら、箱の中に閉じ込められることになる。

 白状すれば、俺は若干の閉所恐怖症があるんだ。

 しかし、今回はそうも言ってられない。

 あの”ミス・アムネジア”(名前が分からないんだから、こう呼ぶより仕方がなかろう)を天辺まで歩かせるわけにも行くまい。

 

 そう思って、俺はエレベーターを選択した。

 7階に着き、ドアが開き、俺は屋上に通じる扉を開けると、風と粉雪が俺の顔を打った。

『寒くないか?』俺が呼びかけると、アムネジアは黙って首を振る。

 仕方ない。

 俺は着ていたコートを彼女に着せ掛ける。

 ネグラは屋上の西の隅にへばりつくようにある。

 出口からは大した距離じゃないが、それでもこの雪と風だ。

 俺は彼女を庇うようにしてたどり着き、鍵を開けて中に招き入れた。

 エアコンの電源を入れると、すぐに部屋が温まる。

 俺は上着を脱いで、クローゼットにしまう。

 当然ながら拳銃を格納するのも忘れなかった。

『今、風呂を沸かしてやる。先に入るといい』

 彼女は部屋の端にあるベッドに腰かけ、物珍しそうに、飾り気のない室内を見回した。

 風呂を沸かして(いや、正確にはバスタブにお湯を満たしただけだな)、戻ってくると、紙袋から、角瓶を取り出して封を切り、ショットグラスで一杯呑る。

 心なしか身体が温まって来たようだ。

”君もどうだ?”と勧めようとも思ったが、何しろミス・アムネジアはまだ名前も分からない。

 年齢も分からない。

 確かに見た目から判断をすれば、もう20はたちを過ぎていると判断は出来るが、しかしそれでも万が一ってこともある。

 第一、俺は探偵だ。

 正体も分からない女性を保護したからって、酒を呑ませ、その後不埒ふらちな所業に及んだなんて、妙な疑いをかけられちゃ困る。


 面倒くさいが仕方がない。

 俺はささやかな流しの戸棚を漁り、僅かに残っていたショウガ糖を取り出した。

 彼女が”それじゃあ”と、小さな声で言うと、浴室兼トイレのドアを開けて入っていった。

”ああ、中に俺の寝間着があるからな。そいつを着てくれ”

俺はドアの向こうに向かって大きな声で言った。

 彼女が風呂に入っている間、俺は”あるところ”に電話をかけるのを忘れなかった。

(どこにかけたのかって?それはおいおい分かる)

 10分ほどして、彼女・・・・ミス・アムネジアがドアを開けて出てきた。

 だが、寝間着の着方に慣れていないのか、少し帯が胸高になって、裾も幾分引きずっていた。

『腹は減ってないか?』

 俺の言葉に、彼女は相変わらず黙って首を横に振る。

『まあ、しかし何も腹に入れないってのもな』

 とりあえず彼女にはカップに湯とショウガ糖の塊を入れ、匙でかき回して渡す。

 そしてもう一度キッチンに戻り、鳥飯の缶詰(特別ルートで仕入れた陸上自衛隊御用達だ)を湯煎し、皿に乗せて彼女に渡す。

『これぐらいは喰っとけよ。俺も食べるから』

 まず俺が蓋を開け、鳥飯を喰う。

 彼女も俺の姿を見て安心したのか、匙を取って食べ始める。

 食事を終えた後、俺は毛布を抱え、

『さあ、君はベッドで寝たまえ。僕はソファを使う。疲れただろうから、早く寝た方がいい』

 これがまだ秋口だったら、まだ床に入る時間じゃないが、何せもう冬だ。

 いい加減身体もあったまったところだからな。

 やることはもうない。

 彼女は小さな声で、

”有難うございます。ではお先に休ませて頂きます”

 それだけ言うと、ベッドの中に潜り込み、俺に背中を向け、すぐに軽く寝息を立て始めた。

 俺は俺で、ナイトキャップをもう一杯ひっかけると、セーターだけ脱いでソファに横になり、毛布を被った。

 しかし、眠る気にはならない。

 女が隣にいる生活に慣れていないせいだろう。妙に目が冴えてしまう。

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