はじめに

VOL.2

 事務所オフィスの鍵を開け、彼女を中に入れると、エアコンのリモコンで、

”暖房”のスイッチを28℃まで上げ、デスクの後ろの物入にしまっておいた毛布を引っ張り出して彼女に渡し、湯を沸かす。

 コーヒーか紅茶かどっちがいいかと聞こうかと思ったが、何も言わずに震えているから、俺はバンホーテンココアのカンを出して、二杯をマグカップに放り込み、沸かしたばかりの湯をそこに注ぐ。

 本当はこんな甘ったるい飲み物は苦手なんだが、二種類も別のものを淹れるのは面倒だ。

 仕方ない、付き合うとしよう。

 俺は毛布で体を包み、ガタガタ震えながら、渡したカップを両手で持ち、ゆっくりと啜っている彼女を眺めて、

『さて、それじゃ質問だ。まず君の名前を聞かせて貰おうじゃないか』

 俺の言葉に、彼女は戸惑ったような視線を送り、何か答えようとしたが、また押し黙り、俯いてカップに口を付けた。

『何か答えたくない事情があるのは分かるが、話してくれないと何も分からない』

『分からないんです・・・・』

 しばらくして、蚊の鳴くような声で彼女が答えた。

『分からない?』

 俺は甘ったるいココアにいささかげんなりしながら彼女の目を見た。

 嘘をついているようにも思えない。

 その顔は何か戸惑っているような、苦しんでいるような、そんな表情をしていた。

『自分が誰で、何という名前で、どうしてあそこにいたのか・・・・全く分からないんです』

 沈黙が流れた。

 しかし、黙っていても事は進まない。

『すまないが、君の荷物を調べさせて貰いたいんだが』

 俺の言葉に、彼女はカップを置き、黙って傍らに置いてあったバッグを持ち上げ、卓子テーブルの上に乗せる。

 随分重みがあるというのは、見た目でも判別出来た。

『開けるぜ?』

 俺の言葉に、彼女は無言で頷く。

 バッグを手元に引き寄せ、ジッパーを開いた。


 中身を見て、流石の俺も驚いた。


 札束である。

 ざっと数えただけでも五百、いや、七百万はある。その他には何故かUSBメモリーが三つ。

 帯封の割印は全部破られておらず、札は全て新品だ。

 ついさっき、銀行から引き出されてきた、そんな感じである。

 俺はわざと札束から目を逸らし(こんなもの、長く見ていては目の毒だ)、他に何かないか探してみた。

 出てきたのは何もない。

 身元を証明する手掛かりになるもの、一切合切だ。

 彼女について分かっているのは、日本語が理解できるという事。

 言葉にも独特のアクセントも見られないから、どうやら標準語しか理解できない。従って東京か、若しくはその近辺の出身である事。

 辛うじて見つかったのは、秋葉原にある漫画喫茶の宣伝用ポケットティッシュだけだった。


 お手上げだ。

 このまま警察オマワリのところに持って行ったって良かったが、それが出来ないのが俺という人間である。

 

『くどいようだが、もう一度聞くぜ。本当に何にも覚えていないのか?』

 彼女はまた黙って首を振った。

 どうやら本物の記憶喪失アムネジアらしい。

 

『仕方ないな・・・・』呟きながら腕時計を見る。

 時刻はちょうど午後4時になっていた。

『仕方ないな・・・・』俺はもう一度繰り返すと、ソファから立ち上がり、角瓶の入った紙袋を右手に、彼女の持っていたあの札束げんなまの詰まったバッグを左手に持った。

『とりあえず今日は俺のネグラに泊めてやるよ。明日の朝になったら警察か病院、どっちかに行く。それで文句はないな』

 彼女はまた黙って頷き、俺と同じように立ち上がった。

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