第34話 母と子

 最終シミュレーションの次の日は休日だった。


 いつもより少しだけ早く目が覚めたジョーは、DDUの近くの浜辺を散歩しに出かけた。普段は滅多にしないことなのだが、その朝はなぜか、とにかくどこかを歩きたいという気持ちに駆られたのである。


 東の方からの低く眩い光源が、その上方に煩雑に折り重なる雲々を照らしていた。橙色を帯びて広がる雲々は、決して一様ではない光の受容を描きながら、包光の暖世界を創り出していた。


 ジョーは、そうした空を見上げながら、浜辺沿いの湾岸道路を歩き始めた。


(あっ、そうだ)


 突然何かを思い出したジョーは、再びDDUに戻って行った。


 ジョーは、DDU内の特別医療病院に向かっていた。病院に到着すると、ちょうど前を通りかかった看護師に声をかけた。


「すみません。リサ博士はどちらに?」


「あっ! ジョーさんですね?」


 実は、昨日の最終シミュレーションの成功が、ジョーをすでにヒーローのような存在にしていた。その看護師は、芸能人を偶然見かけたときのような、ぱっとした明るい笑みを浮かべながら、リサ博士の病室を丁寧に教えてくれた。


「ありがとう。助かるよ」


 ジョーは運良くすぐに来たエレベータに乗り込んだ。


 エレベータを降りたジョーは、教わったとおりに廊下を歩いていき、迷うことなくリサ博士の病室にたどり着いた。


 病室のドアがなぜか開いていて、廊下から中の様子をある程度伺うことができた。どうやらその部屋には、リサ博士だけでなく、声からさっするにおそらく少し年輩の女性看護師がいるようだった。


「リサ博士、今朝のそのママレード、いかがです?」


「おいしいわね。もしかして、あなたが作ったの?」


「ええ、休みの日にたまにやるんです。孫たちが喜ぶから」


「へえー、いいわね」


 ベッドで楽しげに朝食を取っているリサ博士を見て、訪問を中止ようとしたとき、看護師と不意に目線が合ってしまった。


「あら? あなた、ジョーさんじゃないですか?」


「え?」


 リサ博士が入り口の方を見ると、何か気まずそうにおずおずとしたジョーの姿があった。


「食事をしていたところだったんですね、すみません。また出直します」


 そう言ってジョーが引き返そうとすると、


「待って、いいから中に入りなさい」


 リサ博士の、予想外の穏やかな口調がジョーの足を引き止めた。


「どうぞ、どうぞ、さあ、中に入って下さい」


 看護師に促されるまま、ジョーはゆっくりと部屋に入った。


「あの、看護師さん、申し訳ないけど……」


「分かっていますよ。三十分ほどしたら食器を下げにまた戻って来ます。どうぞごゆっくり」


 看護師はいそいそと部屋を出て行った。


 ジョーは、看護師を目で追いながら、入り口の方を見ていた。


「大丈夫よ。この病院の人たちは何も知らないの。私が実の息子に殺されかけたなんてね」


 それは、ジョーの心に重く突き刺さる言葉だった。


「すみませんでした……」


「やめてちょうだい。そんなつもりで言ったんじゃないから。本当に。だって、あの暴力に関していえば、あなたには何の落ち度もないんだから」


(そんな訳無いだろ……)


 そう思いながらジョーは、いきなり先制的なとげのある言い方をするリサ博士に少しだけ苛ついた。


「で、私になんの用?」


「……いや、その、あなたに謝っておこうと思って……」


「だから、言っているじゃない。あなたは謝る必要なんてないって」


「違うんです。私が謝りたいのはそのことじゃなくて……」


「違う?……じゃ何?」


 いちいち突っかかるようなリサ博士の口調は、ジョーの思考を狭窄的にした。


「私が謝りたいのは、あなたの研究を侮辱したことに対してです。それ以外の意図は全くありません」


 全く予期していなかった言葉がジョーの口から出たことに、リサ博士は少なからず驚きの表情を見せた。


「詳しいことは、今はお話しませんが、僕は約束したのです。あの世界、つまりチューリングワールドを守ると」


「??……約束?」


「そうです。私のALたちとの約束です。自分が守ろうとしているものを侮辱する訳にはいきませんから」


 リサ博士は何か考えこむような風で、急に押し黙った。


「それと、ここに来たのはあなたに敬意を払うためでもあります」


「私に敬意をはらうですって?」


「実際に自分で行ってみて初めて分かったんです。あの世界に行くことだけでも、どれほど大変なことなのかを。おそらくあなたは、自分の身に鞭を打つようにしてあの世界に通い続けたに違いないんだ」


「聞いたふうなこと言わないで。たった一度あそこに行ったくらいで、あなたに一体何が分かるっていうの?」


「分かりますよ。あなたの言う通り、確かに僕は一度しか行ってないけど、それでも……実は、僕はレベル2の全員に会ってきたんです」


「何ですって?」


 リサ博士は思わずベッドから身を乗り出し、そのはずみで朝食の食器を床に落としそうになった。


 実は、ジョーがTWでレベル5を探す際、分身した約一万人のジョーうちの数人がレベル2に会いに行っていた。もちろんそれはジョー本人の興味が先に立つもので、レベル2をどうこうしようというものではなかった。ただジョーは、これまで一緒にオクテットとしてやってきたレベル2のALたちに会ってみたかったのである。


「中学三年生のキョウスケ君は、高校受験で第一志望に見事合格しましたよ。確かメイ……」


「明和高校よ! 本当に!? ああー、よかった。本当によかった」


 それまで何か憮然としていたリサ博士の表情が一変した。大きく見開いたその瞳からは、嬉々とした光が溢れ出した。


「高校三年生のドコーキン君も大学に合格しました。なんと医学部です」


「ドコルも!? 将来お医者さんになることがあの子の夢だったのよ! ああ、その夢がもうすぐ叶うのね」


「ケニーラ君は、恋人のスーの病気がよくなったそうです。高校を卒業したら二人は同棲するつもりみたいですね」


「あの二人が同棲するですって? だめよ、それはまだ早いわ。あー、あの子には女性についてアドバイスしたいことが山ほどあるのに」


「……まあ、そういうことは本人たちに任せておけばいいんじゃないですかね」


「あなた何を言っているの? 駄目なものはダメよ、絶対に!」


「……」


 こんな感じで、ジョーは、レベル2たちのそれぞれの近況について、知る限りのことをできるだけ詳しくリサ博士に報告していった。その間のリサ博士は、なんの警戒感もなく、その関心をむき出してにしていた。ここぞとばかりがむしゃらに近隣の情報を聞きまくり、その本懐を達成しようとする一人のおばちゃんがそこにいた。


「というわけで、それぞれ短い時間でしたが、私は彼らと会って話をすることができました。リサ博士、あなたのおかげでみんな元気でやっているようです。彼らは皆、あなたにすごく会いたがっていましたよ。最近はTWにあまり行っていないようですね?」


「……ええ」


 リサ博士は、それまでの嬉々とした表情から一変して、物思う雰囲気を醸し出した。


「? それと、みんなあなたに感謝していましたよ。『本当のお母さん』によろしく伝えてくれと。ちなみに、私があなたを半殺しにしたことはさすがに言えませんでした」


 リサ博士は何もを答えず、じっと床の方に視線を落としていた。


(どうしたんだろう? 急に静かになっちゃって……)


 二人の間に流れるその沈黙の時間は、ジョーにとって少し耐え難いものだった。


「あの、私は、もう、そろそろ」


「え? ちょっと待って、もうおしまい? まだ聞きたいことがあるのよ」


 リサ博士が急に顔を上げたそのとき、ミカとカナが血相を変えて病室に飛び込んできた。彼女たちは、病院のフロントでジョーが来ていることを知らされたのである。


「ジョー!」


 先に病室に入ってきたのはカナだった。


「あ、カナ!」


 続いてミカも入ってきた。


「やあ、ミカも来たのか。おはよう。よし、丁度二人が揃ったところで、僕はこれでお暇します」


「待ちなさいジョー、まだ話は終わってないわ!」


「リサ博士、もう勘弁してください。僕が知っていることはすべてお話しました」


 ジョーがそう言って部屋を出ようとすると、


「じゃあ、私もあなたに教えないわよ」

 リサ博士は急に窓辺の方にそっぽを向いた。


「俺に、教える?」


 二人の間に再び沈黙が走った。


 しかしジョーは、肩をすくめるような動作をして、再びドアに向かおうとした。


「あなたは誤解しているのよ!」


 リサ博士のその言葉で、ジョーは再び彼女の方に振り向いた。


「誤解なのよ、ジョー。でも今はそのことについては何も話さないわ。もし聞きたければ、このプロジェクトが終わった後、またここに来て頂戴。全てを話すわ、約束よ。だからいい? 必ずここに戻ってくるのよ!」


 リサ博士のその言葉は、現在のジョーを取り巻く環境が、もはや以前とは全く違う、人生の岐路とも言うべき局面に至っていること示唆しているようだった。ジョーは、リサ博士の言葉を素直に受け止めた。


「……分かりました。ありがとう、リサ博士」


 部屋を出ようとするジョーにカナが尋ねた。


「ジョー、どこにいくの?」


「これからミエズリーのところに行くつもりだ」


「それなら私も一緒にいくわ。ミカ、ママのことお願いね」


 ミカは静かに頷くと、リサ博士の脇にそっと寄り添った。


 ジョーとカナは、そろって病室を出た。


 病室を出てからうつむき加減で何かを考えているようなジョーの横に、カナはすっと並んで歩いていた。


「ありがとう、ジョー」


「え?」


「あなたが自らこうしてママに会いに来てくれるなんて正直思っていなかったわ。ママとあなたのことは、私もミカもずっと気にかけていたのよ。ママと何を話したの?」


「ああ、レベル2たちのことだよ。彼らの近況をね、少し」


「レベル2ですって? あなた、一体いつの間に?」


 ジョーはリサ博士に話したことを掻い摘んでカナに説明した。


「そういうことだったの。ジョー、もう一度言わせてもらうわ。ありがとう。でもこれはママの代わりよ。ママもきっとそう思っているから」


 ジョーは恥ずかしそうに、小さく明るい笑顔を見せた。


 カナにとって、今回のジョーの突然の訪問はとても嬉しいものとなった。たとえ完全なる和解と言えるものではなくとも、ジョーとリサ博士の間に新たな別の感情が生まれていることを見て取れたからである。


「さて、あの兄弟たち、どうしているかな」


 ジョーとカナがガンダーレ兄弟のいる病室の手前まできたとき、数人の病院スタッフがその部屋の前で、何かを話し込むようにたむろしているのが見えた。


「あら? あそこはあの兄弟たちの病室だわ。何かあったのかしら?」


 ジョーとカナが病室に入ると、ウエズリーが、数人の医療スタッフに囲まれていた。隣のベッドにミエズリーの姿はなかった。


「あっ、ジョー! そしてカナさんも」


 ウエズリーが二人の訪問に初めに気付いて声を発した。


「よお! ウエズリー、どうしたんだ?」


「ミエズリーが行方不明なんだ。今朝、目が覚めたらもう居なくて」


「なんだって?」


 ジョーが驚くその横で、カナは、説明するミエズリーの顔から視線を離さなかった。


「少なくとも、昨日の夜は確かにそこのベッドに寝ていただ。でも今朝になったら

いなくなっていて、初めはトイレにでも行ったんだろうと思っていたんだが、なかなか帰ってこなくて」


「先生、今、航空部の方から報告がありました。セスナ機が一機なくなっているそうです」


 ベッドの脇に立っていた女性の看護師の一人が、兄弟たちの担当医と思われる白髪混じりの男性に報告した。


「まだそんなに動ける状態ではないのに……一体どこに行ったのか? 君、心当たりは?」


 医師はそう言って、ウエズリーの方を見た。


「もしかしたらAITに帰ったのかもしれません」


「AIT? 我々の扱いでは不満という訳か? しょうがない。こちらからAITに連絡を入れよう。安否だけでも確認しておく必要がある」


 医師はそう言うと、看護師たちと共に病室から出て行った。


「ウエズリー、あなた嘘をついているわね」


 出し抜けにカナが言った。


「バレましたか、さすがカナさん」


「嘘?」

 少し困惑するジョーをよそに、二人は話を進めた。


「昨日の夜、あいつが目覚めた後、私がカナさんに言ったことを話したんです。すると突然、『確認しなければならないことがあるからバレないように時間を稼いでくれ』と言って、そのまま飛び出していきました」


「それで、嘘を?」


「そうです。確認したいことというのはおそらく、あいつが管理するAITのデータベースのことだと思います。アクセスするには本人の指紋と光彩の認証が必要ですから」


「データベース?」


「詳しいことはなにも話してくれませんでした。でもたぶん、あの件に関することだと思います」


 ジョーは、二人の会話の内容に全くついて行くことができなかったが、とりあえずは静かに二人の話に耳を傾けていた。


 カナとウエズリーの話がやっと終わり、ジョーが自分の部屋に戻ってきたときは、すでにお昼を過ぎていた。ジョーは、昼食を一緒に食べようとマリアを誘おうとしたが、その日も彼女を見つけることができなかった。仕方なく一人でお昼をすませたジョーは、その日はその後ずっと、自分の部屋に籠っていた。

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