第21話 二人目のレベル5
ブーストによる更なる負荷が、ジョーの身体を遠慮なく襲った。その影響は、TWにいるジョーの元にもビシビシと伝えられた。
「うおおおお! た、確かにこれは無茶かも。体がバラバラになりそうだ!」
ジョーは意識を一点に集中させた。それが、体を引き裂くような衝撃に対抗しうる唯一の方法だった。
アルバトロスたちは、ジョーの体が次第に透明になっていくのを見た。一方、ジョーの目にもアルバトロスのいる世界が透明なものとなり、その輪郭だけが浮き上がるようになった。
「まだだ、まだ足りない! スエズリー、もっとだ、もっと上げろ!」
「ジョーさん、もうすぐ二倍を超えます! ほんとに大丈夫ですか!?」
「大丈夫だ、やれ、やるんだ!」
「分かりました! それじゃいきます! ジーザス・クライスト!」
ブーストエネルギーが二倍を超えた瞬間、ジョーの視界に変化が起きた。
「よし、これだ!」
それまで見えていた三次元的な世界が、際限なく広がる平面に変わった。さらに、別の平面が次々と現れ、それらが何層にも重なりながら、ジョーの体をすり抜けていった。
「これが、TWの本当の姿!?」
ジョーのいる次元から見たTWは、それまでとは全くの別の様相を呈していた。真っ白な空間に、広大無辺の無数の平面が、互いに交差しあいながら、上下方向、左右方向、前後方向など、あらゆる方向に一定の間隔で規則正しく並んでいた。
「ジョー! 一体何が起きているの!?」
「カナ、大丈夫だ。これから彼らを、レベル5を探しに行く!」
「探しに行くって、どうやって!?」
「どうやら俺は今、通常のTWとは違う別の次元にいるみたいなんだ。たぶん今の俺なら、どのTWにも自由に行ける」
「別次元だって!? そんなまさか!?」
「スエズリー、悪いが今の状況を説明している時間はない。通信を一旦切るぞ。また連絡する!」
集中力をまたさらに高める必要を感じたジョーは、ブレスレットのスイッチをオフにした。
「よし、いくぞ!」
ジョーは、アルバトロスと戦った時と同じように分身を開始した。しかし今度は、その数がその時の十倍以上、つまり数千人のジョーを一気に複製した。
(これでも足りないか? だが今はこれが限界だ)
広大かつ緻密に存在するTWの群の中、ジョーの分身たちは四方八方に一斉に散らばっていった。
なお、複製された数千人のジョーはいずれも、オリジナルのジョーとほとんど変わらない存在であるが、いざというときにはオリジナルのジョーの判断が優先されるようになっている。
ジョーの感覚では、アルバトロスと同程度の強い存在感をもつALがどの辺り、あるいはどの方向にいるのかは何となく分かるが、そのALがいるTWを具体的に特定することまではできなかった。
(とにかく、しらみつぶしに探すしかない!)
ジョーの分身たちは、これと思われる可能性のあるTWシートに次々ともぐり込み、レベル5の気配を確認していった。
(さあ、このTWはどうだろう?)
そのTWでは、石畳の細い幾つもの道が、噴水のある広場から放射状に伸びており、それらの道沿いに、赤い屋根と白い壁をもつ煉瓦づくりの家々が小気味よく整然と立ち並んでいた。
(……ここにはいないか……いや待て、いる! いるぞ!)
ジョーは、自分の感覚がどんどん鋭さを増していることを実感していた。
(どこだ? どこにいる!)
ジョーは、そのTWの中を、ほとんど瞬間移動のような速さで移動していった。
(ん? あれか? そうだ、たぶんあのALだ!)
そのALは、噴水の広場の片隅に置かれたベンチに一人で座っていた。広場では、子供たちが元気よく駆け回っていた。広場に通じる道のひとつが市場に続いており、そこに出入りする人々からの賑わいも流れていた。
(うん、間違いない。彼だ!)
ジョーはそのALに対し、アルバトロスと会った時に感じたときと同じような威圧感を感じていた。
ジョーは、そのALの時間軸を慎重に探った。
(このあたりかな?)
時間軸を調節して、そのベンチから少し離れたところで姿を露わにしたジョーは、そのALの方にゆっくりと歩いていった。
(あっそうだ、分身を解くか? もし今の状態でアルのときみたいに攻撃されたらひとたまりもないぞ、どうする?)
ジョーが迷っていると、そのALの横から毛糸の布地が出ているのがみえた。
(ん? なんだあれ? 編み物?)
前の方にいってよく見ると、そのALは、両手に編み棒をもち、ひざに黒色の毛玉をおいて、長いマフラーのようなものを編んでいた。
(俺のALが編み物を?)
ジョーがぼーっと立っていると、その気配にベンチのALが気づいた。ALは顔を上げて、ジョーの顔を見た。初めはジョーを怪しむように眉間にしわを寄せていたが、突然何かに気が付き目を丸くして立ち上がった。
そのALの背丈は、ジョーと同じくらいだった。しかし、体の線が細く、なぜかロングドレスのような衣服を着ていて、化粧もしていた。見た目では、少なくとも四十歳を過ぎている感じだった。
「あなた、誰?」
「あっ、えっと、はじめまして。私の名前は、ジョーと言います」
「ジョー? あらやだ、昔飼っていたチワワと同じ名前だわ」
「私は、あなたに会うために、この世界とは違う別の世界からやって来ました」
「私に会うために別の世界から来たですって? あははは、おもしろいことをいう坊やね!」
「失礼ですが、あなたのお名前は?」
「私の名前?私の名前は……そう、私はリンダよ」
「リンダさん、お願いがあります。私に力を貸してください」
「ちょっと、ちょっと待ちなさいよ、力を貸して欲しいって、何をやぶからぼうに……」
リンダはなぜか嬉しそうにはにかみながら答えた。
「あなたが必要なのです。もう時間がありません」
「私が必要ですって? 生まれて初めてだわ、そんなこと言われたの。ねえ、もう一度言ってくれない?」
「リンダさん!」
「冗談よ、冗談。とりあえず説明してくれない? ちゃんとよ、ねえカウボーイさん、話を聞くわ、暇だから」
「暇って……」
切迫する自分とのあまりの温度差にどこか調子を狂わされながらも、ジョーはこれまでのことをできるだけ簡潔に話した。もちろん、このTWと自分のことを含めて。
「ふーん、あなたの話によると、この世界は実はコンピュータがつくりだしている仮想現実世界で、私はあなたもとにして創られた生きているプログラムってわけね。そしてあなたは、オー・プロジェクトっていうのを成功させるために、そのレベル5とかいう他のメンバーを探していて、その中の一人が私だと」
「そうです。リンダさん、飲み込みが早くて助かります。そういうことなので是非協力してください!」
「そうね。でもその前にやることがあるわ。あなたはまずそこの左の道に入って、そしてそのまま真っ直ぐ進んで、右手に見える白くて大きな建物に行くのよ!」
「は?」
「は? じゃないわよ。早く行きなさいよ!」
「どこに行けと?」
「病院に決まっているじゃない!」
「病院!?」
「そ、私これから仕事なの。お店に戻らないと。あなたのお話、なかなか面白かったわ。じゃあねー」
「ちょっと待ってください。リンダさん!」
リンダはジョーの止めるのも聞かず、やりかけの編み物をもって、広場に面したある小さな建物の中に入っていった。
(おかしいな? アルの話じゃ協力してくれるはずなのに……)
ジョーは、アルバトロスの言葉に、勝手に安易な信用を寄せていたことを少しだけ後悔した。
(とにかく、あのリンダとかいうALを説得するしかない。それにしても、あのキャラって、いわゆる〈オネエ〉ってやつだよな。農場主の次はオネエか、TWの俺って一体どうなってんだ?)
リンダが入っていった建物は煉瓦づくりの2階建てで、どうやら1階がそのお店になっているようだった。1階の正面には、3段ほどの低い石階段があり、その石階段の一番上に、玄関らしき四角い大きな扉があった。
扉には調の繊細な彫刻が丁寧に彫られており、ふつうの家の扉とはあきらかに異なる、おしゃれで人目をひく装飾が施されていた。その扉の左右両側に縦長の出窓が設けられており、その出窓の内側のスペースには、種々の花をあしらったブーケが奇麗に飾られていた。リンダはお店といっていたが、その外観からは何の店かは分からなかった。
ジョーが出窓から中を覗いてみると、リンダは、部屋の奥にある机の椅子に、目を閉じてそのままじっと座っていた。
(リンダさん、一体何をしているんだろう?)
ジョーが不思議に思っていたそのとき、店の前に、明らかに高級車と分かる黒のセダンが一台止まり、中から一人の女性が現れた。女性は、少しぽっちゃりした体型の中年女性で、黒い小さな帽子をかぶり、艶のある紺色のコートに身を包んでいた。女性は、楽しげな笑みを浮かべながら、リンダの店のドアを勢いよく開けて中に入っていった。
リンダが女性の来訪に気付くと、すぐさま席を立ち、笑顔でその女性を迎えて奥の別の部屋に連れて行った。
女性が奥の部屋に入り、しばらくすると奥の部屋のドアが再び開き、その女性がリンダと一緒にでてきた。二人とも何か楽しそうに話をしながら入り口のドアの方に来ると、リンダが入り口のドアを開けた。
「リンダさん、それじゃ、またね。ごきげんよう」
「ええ、何かありましたらまたいつでもいらしてください」
リンダは女性を見送りに外に出て来た。女性の表情はさっきとは違って、少し沈んだ感じの、だがその瞳に強い視線を備える神妙な顔つきをしていた。女性は車に乗り込むと、リンダに軽い会釈をして車をだした。
「ふう」
リンダは女性が見えなくなったのを確認すると、大きく肩で一息ついた。そして再び建物の中に入ろうとしたとき、窓のそばに立っているジョーに気がついた。
「あらやだ、あんた、まだいたの?」
「リンダさん、今の方は?」
「今の人? 私のお客様、お得意さんよ。付き合いはもう十年になるかしらねえ」
「お得意さん? リンダさん、あなたのお仕事というのは一体」
「私の仕事? まあ、ここじゃなんだから中に入りなさいよ」
「え? いいんですか?」
「いいわよ。今日はもうお客さんは来ないから」
リンダは思いのか優しい口調でジョーを招き入れてくれた。
「お茶はどう? わたしはいただくけど」
「ありがとうございます。でも今は結構です」
リンダは、テーブルに置いてあった小箱を手にとり中から茶葉を取り出すと、慣れた手つきで紅茶を入れ始めた。
「私の仕事はねえ、どういったらいいのかしら、とりあえず相手の話を聞いて、私が感じることを話すだけなの。あっ、そこに座って頂戴」
ジョーはリンダに進められるまま、長ソファーに座った。
「カウンセリングですか?」
「カウンセリングねえ、傍目にはそう言ってもいいかもしれないけど、少し違うわね」
リンダは視線を少し落とすと、どこか気だるいように答えた。
「私には人の〈オルタ〉が見えるのよ」
「オルタ?」
「わたしがそう勝手に名前を付けたの。どうも私たちにはその人特有のなにか別の存在が、備えられているようなの」
「もしかしてオーラってやつですか?」
「オーラ? 何それ?」
「ええっと……実は私もよく知りません」
「はあ?」
リンダは立ったままで、赤くゆるめく紅茶のカップをそっと口元に持っていき、すっと目を閉じてたちのぼる香りにその鼻を巻きこんだ。
「あの、リンダさんが見ている、その〈オルタ〉っていうのはどういものなのですか?」
沈思する落ち着いた目をしたリンダは、紅茶を飲み終えると、カップをテーブルの上にゆっくりとおいた。
「オルタは、人によってその大きさや形、そして色も違うわ。でも、影響の受け方はだいたい共通している」
「影響?」
「大まかに言えば良い影響と悪い影響ね。そういう何らかの影響を受けると、オルタは様々な変化を起こすわ。良い影響を受けると、大きくなったり、穏やかな光を放ったりするけど、悪い影響を受けると、小さくなって、色も黒ずんできたりね」
「へえー」
「見た目は明るく振る舞っている人でも、その心には大抵は何か悩みや不安を抱えているものよ。実は、そういうことに気がついていない人って結構多いの。そのまま放っておくと、病気になってしまうこともあるわ。私はその人のオルタが今どんな状況なのかを詳しく説明してあげるの。そうするとその人が何かに気がついて、その後の判断や行動を起こすきっかけになったりするの」
「気付く?」
「例えば、さっきの女性の場合、詳しいことは話せないけど、夫が自分のことを今どう思っているのか、それを聞きに来たのね」
「え? そんなことまでわかるのですか?」
「もちろん初対面の人ならそこまでは分からないけど、あの人とは長い付き合いだから」
話をしていくと、どうやらリンダは、一種の霊感ともいうべき何か特殊な力を持っており、その力を利用して、人々の悩みを聞いて相談にのったり、いろいろなアドバイスをしたりして、その報酬により生計を立てているようだった。
「リンダさん、話は変わるんですが、さっき私が話したことは……」
「あなたの言うことを信じろというのね? 信じているわよ、最初から」
「え? 信じている?」
「最初に見たとき、あなたの顔、若い時の私によく似ているなって思ったの。それだけじゃない。一番驚いたのは、あなたのオルトが見えなかったことよ。そんなこと初めてだったもの。私、他人のオルトは見えても自分のオルトは見えないから、そのとき、あっ、この人はきっと私にとって何か特別な存在なのかもって思ったのよ」
「それじゃあ」
ジョーは思わず声をあげた。
「ちょっと待って、そのこととあなたに協力するかどうかは別問題よ」
リンダは立ち組んでいた足をといて、ジョーの隣に座った。
「あなたが言っていた、なんだっけ、ほら、なんとかプロジェクトていうの」
「オー・プロジェクトのことですか?」
「そうそうそれ、あなたねえ、そもそもなぜここまでしてそのオー・プロジェクトっていうのに関わっているわけ? あなたの話じゃ、今のままでも自分の役目を十分に果たしているじゃない」
「えっ?」
まったく不意を突かれた質問だった。自分がその計画の中心であることを自覚しているジョーにとって、その質問は、いままで一度も抱いたことのない疑問でもあった。
「俺は……一体なんのために……この計画に……」
オー・プロジェクトに関わることでカナと出会い、そしてTWの実体を知ることができた。しかしそれは、あくまでも後付けの理由だった。もちろん、表向きのそれらしい理由はいくらでもある。しかしそれらはいずれも、ジョー自身が求める答えとはまったく違うものだった。ジョーは俯いて黙ってしまった。
「ごめんなさい。変な質問をして。無理に答えなくてもいいのよ」
リンダは視線を窓の外の方に移した。
「人生に答えを求めてはいけないのよね。だって、問われているのは私たちの方なんだから」
リンダは静かに呟くように言った。
ジョーは顔を上げてリンダの顔を見た。すると、なぜか急にその顔が精気のない中年のおっさんの顔に見えて、内心ぎょっとした。動揺したジョーは、その場を取り繕うように思わず言ってしてしまった。
「リンダさん! 今から僕と勝負してくれませんか? その勝負でもし僕が勝てたら協力してもらうっていうことで」
「勝負ですって!? 何よ突然?」
「リンダさん、本当に僕には時間がありません。協力が得られないのであればここにいる意味がないのです」
「だから勝負? なんて短絡的なの? 馬鹿みたい」
「何と言われてもかまいません。どうです? 受けていただけますか?」
「一体なにで勝負しようってわけ? 暴力はお断りよ」
「勝負はそうですね……」
ジョーは部屋の中を見回した。
「そうだ、あれにしましょう!」
ジョーは部屋の隅においてあるドレッサーを指さしていった。
「リンダさん、あそこにあるお化粧の道具を貸してください。もし僕がリンダさんよりもきれいにお化粧ができたら僕の勝ちにしてください」
「なんですって!?」
ジョーは立ち上がると、リンダにも一緒に来るように頼んだ。
「リンダさん、実は私は今まで一度も化粧をしたことがないんです。ここにある化粧品の使い方をおおまかに教えてくれませんか?」
「一度も化粧をしたことがないですって? よくもそんなんで私と勝負をしようなんて言ったわね? 本当に勝つつもりあるの?」
「あります。絶対に勝ちます!」
リンダはなかばあきれ顔で、ドレッサーの台の上おいてある、ファンデーション、口紅、アイブロウなどの主な化粧品とその使い方を教え始めた。
「そもそもなぜ私があなたにこんなことを教えなくちゃいけないのよ?」
「これはハンデですよ、ハンデ。さてと、だいたい分かりました。それじゃ始めますよ」
ジョーは真っ赤な口紅をとり、自分の唇に押し付けた。
「あれ? 思っていたよりも塗り難いなこれ、まあいいか、次はこれを使ってみよう」
ジョーはファンデーションを手に取ると、ほっぺにパタパタとやり始めた。
「あれ? よくテレビとかじゃこうやって付けているのに? 全然変わらないぞ?」
こうしてジョーは、思いつくままに化粧品を使っていった。それは化粧というより、とにかく顔の表面に化粧品を無理やりこびり付けて堆積させているという感じだった。
ジョーのすぐ隣でその様子を見ていたリンダは、初めのうちは、ジョーの不可解な行動にかなり怪訝な表情を見せていた。しかしそのうち、ジョーの化粧の出来の云々ではなく、自分が普段大切にしている化粧品が、どんどん無駄に消費されていくことに怒りを覚え始めた。
(あーもう、いらいらするわ。あっ、だめ、そのルージュはそんな風に使っちゃ! だめよ、そうじゃない、ばか! だめ、もう我慢できない!)
たまりかねたリンダは、ジョーが持っていた化粧品をすばやく取り上げた。
「あ? リンダさん!?」
リンダは無言のまま、化粧水を取り出して、ジョーの顔に吹き付けた。
「ぶっ、ちょっと、リンダさん、何をするんですか!?」
リンダは、ティッシュを数枚まとめてつかんでまるめると、ジョーの顔に押しつけて、ゴシゴシとこすり始めた。
「黙ってこっちを向いて、おとなしくしていなさい!」
「はい」
リンダの異様な迫力に、ジョーはリンダの方に体を向けて背筋をビンと伸ばした。
リンダのしなやかな手が、ファンデーションのケースをサっとつかんだかと思うと、いつの間にか右手にスポンジが握られており、是妙な力加減でジョーの顔面を滑らせ始めた。そして、口紅やアイシャドーなど、様々な化粧品が次々と手に取られ、迷いも無駄も一切ないリンダの見事な手技の中に委ねられていた。そうしたリンダの動きが作り出す小気味よい旋律とリズムとが、ジョーの体に同時に伝わっていた。
リンダの表情は真剣そのもので、その目には殺気さえ漂っているように見えた。
(いま動いたら殺される……)
本気でそう感じたジョーは、目をとじて、身じろぎもせずに座っていた。
「……これで、よし!」
手に持っていたアイブローを元の位置に丁寧にもどしたリンダは、ジョーに鏡の方を向くように、その両手をジョーの両肩にポンっと置いた。
「さあ、できたわよ。目を開けなさい」
そう言われたものの、ジョーはなんだか見るのが怖く、少し躊躇っていた。
(ええい、どうにでもなれ)
思い切って目をあけると、見慣れない顔がそこにあった。
「え? 誰、これ?」
そこに映っているのは自分意外の誰でもないと、頭では理解してはいるものの、にわかには受け入れ難い事実がそこにあった。
鏡には、ジョーが想定していたある種の気持ち悪さをもよおす厚化粧とは違って、むしろこざっぱりとした清潔感を漂わせながら、しかも妙に落ち着きのある中性的な印象を備える人物が映っていた。
「どう? 驚いた? これが今のあなたよ」
ジョーはおもわず自分の頬を右手で静かに触れた。
「あっ、ほんとうだ。俺だ。嘘だろ、なんで?」
「きれいに飾るだけが化粧じゃないわ。化粧は、その人のもつ何かを強調するための手段の一つよ」
ジョーはそのまましばらく鏡の中の自分を見ていた。化粧ひとつでこれほど印象が変わるものかと、感心の色を隠さなかった。
「リンダさん、ところで勝負の方は?」
ジョーはおもむろにリンダの方を向いて言った。
「あっ」
リンダは急に我にかえったようだった。リンダは何も言わずにジョーの顔を見つめた。ジョーの瞳に元々宿る、あどけない誠実な光が、その清涼たるジョーの顔からより一層強いものとして発せられ、リンダの心を一瞬で溶かした。
「ぷっ、くっ、うふふ、ははは、あはははは!」
リンダは堰を切ったように笑い出した。
「あっははは! ちょっと、もう、そんなに私の顔を見ないで、あははは!」
リンダはお腹を抱えながら、ジョーの顔をできるだけ見ないように顔を下に向けてなおも笑いつづけた。
「あははは、私って馬鹿ねえ。あなたのメイクに夢中になって、勝負をしていたことなんてすっかり忘れていたわ。ふふふ、しかもこんなに綺麗に仕上げちゃって、ぷっ、はははは!」
リンダの笑いは、断続的に続いた。ようやく止んだかと思えば、また思い出したように笑うのである。しかししばらくすると、疲れが出てきたせいか、笑いは除々におさまっていった。
「はーあ、こんなに笑ったことって今までになかったわ。笑い過ぎるとお腹が痛くなるって本当だったのね」
「あの、リンダさん……」
「ああ、ごめんなさい。みっともないところを見せちゃって。この勝負、私の負けよ」
「へ? 負け? いいんですかそれで?」
「ええ、もちろんよ。私、あなたの運命に乗っかってみることにするわ」
「え?」
リンダのこの言葉を聞いたジョーは、一瞬どきっとした。
(俺がリンダさんの人生を背負う?)
リンダは、椅子から急に立ち上がると、部屋の中を忙しく廻り始めた。
「リンダさん、何をしているんですか?」
「今からしばらくここを留守にするから、そのための準備よ。お客さんにもちゃんと知らせておかなくちゃいけないし」
「いや、協力してもらうのはもう少し後です。まだ他のメンバーも探さないと……」
「違うわ。私も連れていって。一緒に探すわ」
「は?」
「私、他のメンバーがどういう人たちか知っておきたいのよ。だって、一緒に仕事をするからにはお互い信頼できなきゃしょうがないでしょ?」
ジョーはリンダに言われてはっとした。リンダの言うことはもっともだった。当たり前過ぎて見えていなかったことが、急に鮮明に浮かび上がるような感じだった。
(AL同士の信頼関係か。そんなこと、今まで考えてもみなかったな)
これまでのジョーに欠けていたものが、自然に埋められていくようだった。
「リンダさんの言うことはよく分かります。だけど、本当にリンダさんを連れて行けるかどうかやってみないと分からないし、また例えできたとしても、そこでもしリンダさんの身に何かあったら、俺はどうしたらいいんですか?」
「心配しなくても大丈夫よ。わたしにはなぜか確信があるの。さあ行きましょう!」
リンダはジョーの手を強く握った。
「ちょっと待ってください。俺、この顔のままで行くんですか?」
「当たり前じゃない! その化粧を落とすんだったら私協力なんかしないわよ」
「えー!?」
カウボーイの格好でオネエ顔をしたジョーは、諦めるように肩を落としたが、すぐに思いなおしてリンダの手をさらに強く握り返した。
「もう、どうなっても知りませんよ!」
ジョーは、前と同様に意識を集中させ、リンダとともに別次元に飛んだ。
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