第8話 その少女

 とにかく、今は逃げろだ!

 

 ジョーは廊下を全速力で走り出した。


 少し走ると、五十メートルくらい先の方にある脇の通路から、誰かが出てくるのが見えた。


 その者は一人で、背格好からすると、幼い少女のように見えた。彼女は視線をジョーに向けてまっすぐに歩いてきた。


 近づくにつれ彼女の詳細な姿が露わになった。ポニーテールの金髪で、目映いほどの白い肌、青く透き通る大きな瞳、それはまるでフランス人形をそのまま人間の大きさにしたような感じだった。


(うわー、誰だろこの子? めちゃくちゃ可愛いな)


 ジョーはその姿に思わず見とれてしまったが、その女の子は、ジョーのことなどまるで関心が無いといった様子で、ジョーのすぐ横を澄まし顔で通り過ぎて行った。


 しかし、五メートルくらい過ぎた所で、その少女が突然声を上げた。


「あっ!」


 ジョーはその声で一瞬ビクっとした。彼女はくるりとジョーの方に振り向いた。


「オクテットのジョー?」

 彼女がつぶやくように言った。


「え?」


「あなた、ジョー・キリイでしょ?」


 初対面の女の子にいきなり自分の名前を呼ばれて、ジョーは少しだけたじろいでしまった。


「え!? あっ、ああ、そう、そうです。どうして俺の名前を?」


 少女は満面の笑みを浮かべながら、可愛らしくちょこちょこと小走りで近づいてきた。そして二、三歩手前までくると、突然ジャンプした。それは信じられないほどの跳躍力であった!


 ガン!


 彼女の頭はあきらかにジョーの下顎を狙っていた。しかしジョーはとっさに右腕でガードした。その結果、ジョーの右肘が彼女の脳天に突き刺さってしまった。


「ぎゃん」


 彼女はあまりの痛さに声も出ないらしく頭を両手で押さえてしばらくうずくまっていた。


 一瞬の出来事でどう対処したらよいか分からなかったジョーは、彼女の前にしゃがみ込むと、はしゃいでつい転んでしまった幼い子供を慰めるような口調で言葉をかけた。


「ごめん、大丈夫かい? でも君、僕の肘鉄カウンターをまともに食らっても泣かないなんて偉いね」


 皮肉めいたジョーの言葉を聞いた彼女は、顔をすっと上げると、苦々しい作り笑顔をしながら、殺気にも似たただならぬ雰囲気を漂わせていた。


(おそらく次も頭突きかな?)


 そう思ったジョーはそっと片膝を立てて座り直した。


 女の子はニコニコしながら立ち上がると、「こんにちは!」と言いながらジョーの額をめがけて自分の頭を振り下ろした。


 ジョーは上体をさっと後ろに逸らしてこれをかわした。次の瞬間、彼女のおでこにジョーの片膝が突き刺さった。


「ぎゃん!」


 女の子はおでこを両手でおさえて再びうずくまってしまった。


「あーあ、どうにもまいったね。こりゃ」


 ジョーは女の子を持ち上げて、彼女の頭がジョーの後ろになるようにして、その腹部を左肩に乗せた。


「君みたいな子供には、キツーイお灸をすえる必要があるな」

 そういってジョーは少女のおしりをパンパンとたたきながら廊下を歩き出した。


「ぎゃあ! 何するの、こ、この変態! ちょっとやめて、やめなさい!」

 少女は、手足をばたばたさせて騒いだが、ジョーはそのまましっかりと左肩に彼女を抑えつけたまま歩いていった。


「食堂はどっち?」


「何を言ってるの? 早く、早く降ろしてよ!」


「今日は朝からまだ何も食べていないんだ。お腹がすいているんだよ。ちょうどお昼だしさ」


 廊下の壁にかかっている時計の針をみると正午を少しまわっていた。


「あんた、自分が何をしているか分かっているの? お昼なんて知らないわよ、このバカ!」


「女の子がそんな言葉を使っちゃいけないな」

 ジョーはまた彼女のおしりを数回ひっぱたいた。


「きゃあ! だれか、だれか助けて!」


 彼女の声におどろいたのか、若い男が近くの部屋のドアをあけて出てきた。


「あっ」


 その若い男はジョーたちに気がつくと、何か恐ろしいものに出くわしたかのように目を丸くした。そして、身を隠したいが今更どうしようもないとった感じで廊下の壁に背中を押しつけた。


「ちょっとあんた、こっちを見ないで! 見たら後で承知しないからね!」


「君が助けを呼んだんだろ? 無茶言うなよ。ところでそこの君、食堂はどっちだい?」


 ジョーたちをじっと見つめているその男は一言もしゃべらずにジョーたちが進んでいた方向を指さした


「そう、こっちでいいのか。ありがとう」


「ちょっとあんた、早く助けなさい! 何ぼーっとしてるのよ!」


 その若い男は、硬直したように動かなかった。しかし、ジョーたちが前を通りすぎるとすぐに再びドアをあけて素早く部屋に戻った。


「なあ君、ちゃんと謝るのなら降ろしてやってもいいけど、どうする?」


「謝るですって、そんなこと絶対にするもんですか」


「でも謝らないと、君の可愛いおしりが大勢の人に見られてしまうことになるけど、いいんだね?」


「うるさい、早くおろして! おろしなさいって言っているでしょ!」


 女の子は腕をバタバタさせてジョーの背中をバンバン叩き始めた。


「しょうがないな」

 ジョーはそう言って彼女のおしりを、今度はさっきより少し強く叩いた。彼女は再び悲鳴をあげた。


「ねえ、君は俺のことを知っていた。なぜだい?」


「ここじゃ、あんたのことを知らない人なんていないわ」


「え? 俺ってそんなに有名人?」


「ここで働く人たちは皆、あんたには相当頭にきてるのよ」


「俺に? なんで?」


「あんたがバカだからよ!」


「俺がバカだから? ふーん」


 出会ったばかりの女の子の言うことを全て鵜呑みにするわけにはいかなかったが、なぜかジョーには、彼女が決してデタラメで即席的なことを言っているのではないように思われた。彼女の言葉には、長い時間をかけて堆積していたものが、ジョーの言葉に乱されて少しづつ巻き上げられている、そんな感じがあった。


(それにしても変だな。俺がオクテットであることは極秘事項のはず。なのになぜこの少女はそれを知っている? しかもこの子の話じゃ、ここで働くスタッフ全員が俺のことを知っている、というか嫌っているという。一体どういうことだ?)


 ジョーはしばらく無言で歩きながら考えたが、結局は何も答えを出せなかった。


(ふう、もうよそう、考えても仕方がない)


 ジョーは黙ったまま進んでいった。すれ違う人々を次々に硬直させながら。


 そうしているうちに、空腹の胃袋を刺激するなんとも言えない良い匂いがジョーの鼻孔に飛び込んできた。スパイスの効いたスープ? 焼き物の香ばしさ? それとも十分に味が染み込んだ煮物だろうか。匂いの元となる食堂の入り口らしきものが前方に見えてきた。


 すでに大勢の人が食堂の前に集まっていたが、ジョーと少女が近づくと、皆ギョッとした顔をしてすばやく脇によけた。


 ジョーと少女は、彼らの視線を引きづるようにして進んでいき、いつの間にか食堂の真ん中に来ていた。食堂にいる人間が、ジョーと少女を中心としてドーナツ状となり、その視線を一斉にジョーたちに向けていた。そのとき、背中から少女のすすり泣く声がした。


「おっと、そうだった」


 ジョーは突然思い出したかのように、少女をそっと肩から下ろして、椅子に座らせた。そのときの少女は、もはや力はなく、テーブルにうつ伏せになって泣いていた。


 食堂は静かだった。彼女のすすりなく声だけが聞こえていた。ジョーは食堂のおばちゃんらしき婦人に声をかけた。


「すみません。ナポリタンをお願いできますか?」


 その婦人は、白地にオレンジのストライプが入った可愛らしい制服を着ていたが、ものすごい厚化粧をしていたため、その格好が返って憎たらしく見えた。


 婦人は、ジョーの注文を受けたことにハッとして、急いで厨房に入って行った。

 そして、三分くらいするとナポリタンの盛られた皿を持って戻ってきた。


「どうぞ」


「ワオ! うまそう! ありがとう。お金はあとで払うからつけておいてね」

 婦人はナポリタンをすばやくテーブルに置くと、そそくさと厨房の方に戻っていった。


「なあ、いつまでも泣いていないで、君も何か食べなよ」


 少女の咽び泣く背中が、時折ひっくと揺れた。


「ねえ、君の名前は何ていうんだい?」


「……」


 ジョーはフォークでナポリタンを一刺しだけくるりと巻いて口に運んだ。


「うん、これ、けっこういけるな」


 ジョーはウインナーの一つをパスタの中に潜り込ませた。


「なあ、君ってもしかしてここじゃものすごいVIP扱いされてる人じゃない? どうだい?」


「……」


「分かった! 君、どこかのお偉いさんの一人娘とかだろ? なるほど、ここじゃ自分は何をしても許されるってか? じゃなきゃ初対面の人間にいきなり頭突きなんかしないもんなー」


「……」


 少女はジョーの話を一応は聞いているようだった。すすり泣く声が少しずつトーンダウンしていた。


 ジョーが不意にその食堂をぐるりと見回すと、周りの人だかりがビクッと反応した。ジョーと視線を合わせるのを避けるため、皆一斉にうつむいた。


 大勢の人に注目されて何とも落ち着かない雰囲気だったが、ジョーはかまわず少女との会話をつづけた。


「あのさ、君、さっきの話の続きだけど、俺がここの人たちにものすごく嫌われているって言ってたよね? でもさ、もしかして君も俺と同じぐらい嫌われてない?」


 彼女の鳴き声が止まった。


「だってさ、君があんな目に合わされていたっていうのに誰も助けようとしなかったじゃないか?」


 彼女は突然がばっと体を起こした。泣きはらしたその顔は、意外にも無垢な子供の顔そのものに見えた。


 彼女は、まだ少しだけ涙を貯めた目で周囲に視線を向けた。しかし、ジョーのときと同じように皆一斉に視線を逸らした。


「君が嫌われている理由は俺にはなんとなくわかるよ。俺のとは違うんだろうけど、でもこうしてはっきりしちゃうと結構つらくない?」


 彼女は突如、テーブルの上に置いてあったアルミ缶を手に取った。そしてすぐさまその蓋をあけると、中身を全部ジョーのお皿に入れた。


「げっ!?」


 ナポリタンの上に七味唐辛子の赤い山ができあがり、彼女は再び机につっぷした。


 ジョーはもはや怒る気にはなれなかった。ここまでくると、最初の頭突きもおとなしく受けておけばよかったとさえ思うようになった。


 ジョーは何も言わずにフォークでナポリタンをよくかき混ぜた。大量の七味唐辛子は完全には均一にならなかったが、とりあえず、四、五本のパスタを口に入れた。


「ぐへえっ! か、か、辛い! おばちゃん、水っ! 水をください!」

 婦人はすばやくコップで水をもってきてくれた。


「ごほごほ、君ってほんとに酷いことをするね。でも大人をなめちゃいけないよ。俺は食べ物を絶対に粗末にしないからな。よしっ、これは俺と君との勝負だ。もしこれを俺が全部食べきることができたら君の名前を言ってもらうぞ!」


 それを聞いた女の子は少しだけ顔を上げた。何かを勝ち得たような半笑いの表情を浮かべながら、上体を起こして何かを言おうとしたその瞬間、


「ぐほっ!!」


 ナポリタンに付着していた大量の七味唐辛子がジョーの気管を刺激し、ジョーは口に含んでいたナポリタンの一部をいきなり吹き出した。そして吹き出したものの一部が彼女の右目に入ってしまった。


「ぎゃあ!」


 女の子は、右目を押さえて床を転げ回った。


「あ? 目に入っちゃった? ごめんごめん、でも見てのとおり俺も今大変なんだ、自分で何とかしてくれ。ふうー、くうー、辛い、辛すぎる!」


 女の子はすぐに調理場に駆け込んだ。そしてシンクにはってあった水の中に顔を突っ込んだ。しかし、シンクの水には中性洗剤が入れてあった。


「ぎゃああ!!」


 今度は彼女の両目に激痛が走った。おそらくこれまでの人生の中で最大級の肉体的苦痛が彼女を襲った。


 調理場にいた料理人たちは、せっかく作った料理を台無しにされてはたまらないと、強引に彼女を勝手口につれだして外に放り投げ、近くの蛇口につないであったホースで彼女に水を浴びせた。


 少女は、目の痛みだけでなく、容赦のない放水による水圧とその冷たさにも耐えなければならなかった。


 ようやく目からカプサイシンや洗剤成分が洗い流され、その痛みから解放されたころには、全身ずぶ濡れで、しかも泥だらけになっていた。


 パシャ、パシャ、パシャシャ!!


 そのとき、携帯電話のシャッター音がせわしなく鳴り響いた。食堂にいた人の一部が、わざわざ外までやってきて彼女の姿を撮っていたのである。


 無機的なシャッター音は、少女をみすぼらしい見せ物のように仕立て上げ、その心から確実に何かを奪っていた。少女は、寒さと孤独に打ちのめされ、その場に立ちすくんでいた。


 そんな少女の状況も知らずに、ジョーは相変わらず真っ赤なナポリタンと格闘していた。


 ふと顔を上げると、窓際にいた人々の姿がいつの間にか居なくなっており、それにより開けた外への視界が、辛さに耐えるジョーの舌に一種の清涼感を与えた。


「ふうー」


 ジョーは外の景色に目を向けた。広いさら地に緑色の雑草がまばらに生えていた。少し離れたところでキャッチボールをしている人たちの姿も見えた。ジョーは、陽光のさす外の世界に、しばらく気持ちを解放していた。


(これを食べ終わったら、ちょっと行ってみるか)


 ジョーは楽しみにしていたウインナーを、といってもその楽しみは大量の七味唐辛子のせいで半減していたが、口の中に入れようとしていた。


「とうとう見つけたぞ、この野郎!!」


 入り口の方からどなり声が聞こえた。ジョーがウインナーをもったまま振り向くと、髪がぼさぼさの若い男が息を弾ませて立っていた。その男はさっきのローラー男だった。


「よお、さっきのお兄さんじゃないか、どうした?」


 ジョーは、久しく会っていなかった友人にでも話かけるように、右手を挙げながら席を立った。


「どうしただと? ふざけやがって、てめえは絶対に許さねえ!」


「何をそんなに怒ってんの? もしかしてクビにでもなっちゃった?」


 その言葉を言ったとき、ローラー男の顔がさらに紅潮するとともに、視線の焦点がより狭まったように見えた。


「この野郎!」


 実際、男はクビにされていた。しかもさっきローラーで破壊したもの全てを弁償しなければならないことになっていた。


 ローラー男は、ずかずかとやってきた。おそらくジョーを殴るつもりだろう。右の拳を振り上げたその瞬間、ジョーは左の手のひらを男の前にかざした。


「ちょっと待て、このウインナーだけは食わせてくれ」


 ジョーはそう言って、ウインナーを強引に口に押し込んだ。


「うるせえ!」


 ローラー男はジョーの顔面にパンチしたが、ジョーはこれをボクシングでいうスエーでかわした。


「モゴモゴ、だから、ちょっと待てって。このウインナーをちゃんと飲み込んでからだって、モゴモゴ」


「もごもごうるせえ! この野郎!」


 ジョーはローラー男の動きからその身長、体重、そして身体能力に関する大まかな所を即座に見て取った。


(どうやら格闘技の経験はなさそうだな。動きに一貫性がなくてバラバラだ。スピードもパワーもたいしたことはない)


 ジョーにとっての強さの基準は、通常の成人男性よりも少し上に設定されていた。勿論、このローラー男が他の男性と比べて極端に弱いというわけではない。それはあくまでも、凶暴なサルと化してしまったかつての上司や仲間に比べてという意味であって、むしろこのローラー男は、ここにいる他の連中よりもずっと強かった。ローラー男もそのことを自負しているからこそ、こうしてジョーに喧嘩を売ってきたのであった。


 ウインナーを口に含んでいるうちは、ローラー男のパンチはジョーに全く当たらなかった。ジョーにとってその男のパンチはほとんど止まっているのと同じだった。ジョーは、男の体の向き、姿勢、目と肩の動きなどから瞬時にパンチの種類と軌道を予測することができたので、かわすのは造作もないことだったのだ。


 しかし、ウインナーを食べ終わったとき、ローラー男の拳がジョーに突然当たりはじめた。かわし疲れたのか? いや、そうではなかった。ジョーはわざと殴られているフリをし始めたのである。それはさきほどの少女からの教訓だった。


(俺に恨みがあるなら、とりあえずそいつをはらさせてやろう。その方がいろいろと情報が得られそうだからな)


 ジョーは、男の拳がジョーの右頬に当たる瞬間、軽く後ろに引いてその衝撃を逃がしつつ、そのまま床に転がるようにして少し派手に倒れた。


 ローラー男は、えっ? そんなはずはないと初めは訝しげに思ったが、ジョーが頬を押さえてかなり痛がっている様子を見せたので、すっかり調子に乗ってしまった。


 男は、ジョーに蹴りを入れだした。しかし、ジョーは倒れながらも急所だけは巧みに外していた。


(よーし、いいぞローラー男、これで少しは気が晴れたか? そうだ。ちょうどいい機会だから、俺に恨みをもっている奴らをここにおびき寄せてみるっていうのもいいかもな)


 ジョーがぐったりするフリをすると、ローラー男は蹴るのを止めた。


「へん、どうだ、俺様をなめているからこういう目に会うんだ。分かったかこのクズ野郎!」


 しかしジョーは、さも痛々しげにゆっくり立ち上がると、


「まったく、モテない男のひがみっていうのは本当に始末に負えないな。俺とミカがデキてるってことがそんなに羨ましいのか?」


 ジョーのその言葉で、食堂にいた男性のうちの十人くらいが一斉に立ち上がった。


(おっ? なんだこの雰囲気? もしかして)


 ジョーは、愛憎の渦をさらに大きなものに進化させるため、さらに傲慢かつ挑発的な言動を試みた。


「そうだよなー、あんたみたいなカス男じゃ、ミカは見向きもしないよ。俺はもうすでにミカといろいろとやっちゃってるけど、あんたじゃせいぜい、隠し撮りした彼女の写メでナニするのがいいところか。ここの連中ってのは、みんなあんたみたいなチキンヤロウかい?」


 ただでさえプライドが高く、しかもジョーになんらかの恨みをもっているような連中であれば、このような侮辱を受けて黙っていられるはずはなかった。


 しかも相手は、もはや立つのもやっとのフラフラの男だ。あれならたとえ喧嘩になっても負けはしない。それにそもそも喧嘩を売ってきたのは向こうなのだから大義名分もある。


 つまり彼らにとって、今のジョーの状況は憂さをはらす絶好のチャンスだった。


 ジョーの期待したとおり、まず一人の男がジョーの後ろ側から出てきて、それにつられるようにまた一人、また一人と、結局その食堂にいた人たちの半分、およそ二十人くらいの人間が前に出てきた。


 最初に出てきた男は、細縁の眼鏡をかけ、顎が細く、いかにも神経質そうで、常にアップデートが必要な知識だけにはしっかりとしがみついてそれによって周りからの優越感を得る、そんなエリートぶった痛ーい輩がもつ特有の雰囲気を持っていた。


「あなた、何か勘違いをしていませんか? ミカさんがあんたみたいなバカを本気で相手にするはずないでしょ。そういうフリをされてだけなんですよ。あなたは相当おめでたい奴ですね」


 その台詞を聞いたジョーは、出た! 待ってました! と思った。初めから相手を自分より格下として見ているその言い方がすごく気に入った。


「へえー、じゃあんたはミカと寝たことがあるのか?」


「寝るとか、寝ないとかそういうことじゃありませんよ。一人の人間としての尊厳をもってですね……」


「バーカ! なにが尊厳だ、もう喋るな、このふにゃちんが! 言葉で女を抱けるか! ここにはミカと寝た奴はいないのか? だれも自分の腕の中で狂おしく喜びに悶えるミカの顔を見たこともなければ、快楽の絶頂に全身を委ねたときのミカの絶叫を聞いたことがないのか? 偉そうなこと言っても結局はただの根性無しじゃねえか。もういい、お前らに用はない。早く帰って一人でせっせとマスでもこいてな!」


 うわー、言っちゃったよ、という後悔にも似た思いが少しだけよぎったが、かねてから一度は言ってみたかった台詞に、ジョーは思わずほくそ笑んだ。 


「おまえが、ミカさんを、ミカさんを!」


 ローラー男は、その怒りをわなわなと拳に伝えていた。


(このローラー男は本当に分かりやすい奴だ。ショーンに似ていて好感を持てる。だが、他の連中はまだ様子を伺ってるようだ……しょうがねえなあ)


 ジョーは声をさらに張り上げて言った。


「ま、あいつはもう俺以外の男とは寝れない体だからな。あいつの背中は今とんでもないことになってるのさ。俺がやったんだけどよ。あんなもんは絶対に誰にも見せられないからな。まっ、飽きたら捨てるつもりだから、そしたらおまえ等みたいなへなちょこにも少しはチャンスがあるかもよ」


 ジョーは所謂ハッタリをかました。彼は不敵な笑みを浮かべると、体をぐるりと回してその視線を、食堂にいた男たち全員の頭の上に置いた。


「お前がやったのか」


 奥の方の席に座っていた中年の男性が立ち上がって言った。その男性は、さきほどミカがタラップから転げ落ちたときに彼女をおんぶして連れて行った男だった。


 中年男は、足早にジョーのもとにやってきていきなり胸ぐらをつかんだ。


「ミカさんの背中をあんなふうにしやがって、お前はただじゃおかない!」


 中年男はそう言って右の拳をジョーの顔面にヒットさせた。


「痛ってーな!」


 右の頬を右手でおさえながらジョーが言った。もちろんそれはフリであって、ジョーは中年男の拳が当たる瞬間に後ろにわずかにスエーして衝撃を吸収しており、痛みなどほとんど感じていない。 


 しかし、中年男が手を出したことを契機として、様子を伺っていた連中がぞろぞろとジョーの元に集まってきた。


「お前にはこれまでさんざんな目に合わされてきたんだ。そのアホ面、見ているだけでヘドが出る!」


「そうだ! お前がバカのおかげで、こっちは休みだってろくに取れやしないんだ!」


「くそっ! そもそもなんでこんなバカのために俺たちはあんな苦労をしなけりゃならないんだ?」


 連中は口々に文句を言いながらジョーを取り囲むと、一斉に殴りかかった。こうなるとさすがのジョーもすべての攻撃をかわすことはできず、何発かは喰らうことになった。少女を見ていた人々もジョーの方に流れて来ていた。


 彼らに踏みつけられたジョーは、体中に無数の靴跡をつけられてかなり痛々しい姿を晒していたが、それでも彼らを止める者は誰もいなかった。


 中年男がジョーに蹴りを入れながら言った。


「ミカさんを医務室のベットに運ぶと、彼女が服を着替えたいと言うから俺は荷物を取りに医務室を出た。そのとき彼女の荷物がどこにあるのかを聞き忘れて急いで医務室に戻ったんだ。ノックもせずに突然入室したもんだから、リサ博士があわてて仕切のカーテンを閉めたんだが、一瞬だけ見えたんだ。ミカさんの背中が!」


 ジョーは床でうずくまりながらも中年男の方に顔を上げると、鼻で笑うような仕草をした。


(なるほど、おまえはミカの背中の秘密を知っているのか。ならどうだ? おまえの怒りの原因をつくった男がこうして地べたからさらにおまえを挑発しているんだ、頭にくるだろ? さあ、もっとこいよ!)


「なんだ、その余裕面は? もっとヤキを入れる必要があるみたいだな!」


 中年男はジョーのわき腹に蹴りを入れた。


「ぐあ!」


 ジョーは少し大きめの声を上げて丸くうずくまった。もちろんジョーはその蹴りを予想しており、タイミングをはかった呼吸で腹筋に力を込めてダメージを最小限にとどめた。


 ジョーを袋叩きにした連中は、そろそろ終局の頃合いであることを感じていた。もともと気の弱い彼らの間には、とにかく大勢で、皆の意思のもとでやったという、いわゆる集団心理による安心感が漂っていた。


 しかしそのとき、先の少女が突然現れた。全身ずぶ濡れで泥だらけの少女が食堂の入り口の前に立っていたのである。


「ジョー! 立って、立つのよ、ジョー!」


 声の方に顔を向けると、ジョーはその声の主があの少女であることを知った。


(うわっ!? なっ、なんだその格好は? 一体どうしたんだ?)


 ほんの数分前までとはまるでちがう彼女の姿にジョーは驚いた。


(しかもなぜ俺を応援する? 俺を嫌っていたんじゃなかったのか?)


 ジョーは、そのまましばらく床に横たわっていたかったのだが、少女の声を無視することができなかった。


 とりあえずジョーは、近くのイスや机にもたれ掛かりながら立ち上がろうとするが体中に大きなダメージを受けて体がいうことを聞かない、というフリをして見せた。


「お願い、立ってジョー、そして今すぐこいつらをやっつけて!」


 ジョーは少女の言葉に耳を疑った。


(やっつけろだって? 一体どうしたって言うんだ?)


 少女のその言葉を聞いた彼らの中の一人が少女に向き直り、辛辣な表情で言った。


「俺はあんたのことも正直大嫌いなんだよ。なにが〈創造の女神〉だ。いつも偉そうにしやがって。このくそババアが!」


 そう言ってその若い男性は、テーブルの上に置いてあった誰かの飲み残しを、彼女の頭にぶっかけた。


(おおっ! ひでえ。だけど分かるぜあんたの気持ち。あんたもその子に何かよっぽど酷いことをされたんだろう。あれ? でも今、あの子のことをクソババアとか言わなかったか?)


 少女は、頭をコーラ臭くされたまま近くのテーブルに突っ伏して泣いてしまった。


 しかし、少女は突然何かに気付いたように再び起きあがると、床に倒れているジョーの元に駆け寄ってきた。


(げっ!? 何しに来た?)


 少女は自分の両手を顔の前に持ってきて、ハアーッと息を吹きかけた後、その手でジョーの体をさすりだした。それはどうやら蘇生術か何かのマネ事をしているようで、その仕草は懸命で、何より健気だった。


「以前、映画か何かで見たことがあるのよ。おじいさんがこうやって若者をマッサージして傷を直すところを」


 彼女の言っている映画が何か、ジョーにはすぐに分かった。


(それってもしかして、映画『ベストキッド』のミヤギのことか? 子供のくせにそんな昔の映画をよく知っているな)


 女の子はジョーの脇の下に手を滑り込ませて、より激しくマッサージを続けた。


(うひょ、うひょひょ、だ、だめだ、や、やめろ、やめてくれ!)


 ジョーはくすぐったいのをずっと我慢していたのだが、とうとう限界に達してしまった。マッサージを止めさせるためにはもはや起き上がるしかなかった。


 ジョーは、少女の手に優しく触れてマッサージを止めさせた。


「う、うーん、なんだかよく分からないけど、君のおかげで痛みが無くなったような気がする」


 ジョーはそう言いながら、感謝の意を込めるように静かに彼女の手を握った。その瞬間、彼女はそれまで見せたことのない素直な笑顔でその頬を赤らめた。


(あーあ、せっかくやられたフリをしていたのに。でもこんな笑顔を見せられたらなー、俺も一応男だし。しょうがない、やるしかないか)


 ジョーはゆっくりと立ち上がった。そして、右肩の方に顔を少し傾けて、そのまま首を軽くくるりと回しながら上着を脱ぎ始めた。


「昔、どこかの国のコメディアンが言ってたっけ、『赤信号、みんなで渡れば怖くない』ってな。はっきり言って名言だよ。偉人と呼ばれる人たちが残したものに匹敵するぐらいのな」


 ジョーの鍛え抜かれた上半身がさらけ出された。


「だけどよ、もしその横断歩道に通りかかった車がたまたま、いいか、たまたまだぞ、買ったばかりのスマホに夢中になっているおっちゃんが運転する十トントラックだったとしたら?」


 ジョーは連中を見回しながらゆっくりと歩き始めた。


「勿論、運転中にスマホをやるのは危険行為だ。絶対にやっちゃいけない。だけどそのおっちゃん、信号は一応守っていたわけだよな?」


 ジョーはまず中年男の姿を確認した。そしてその中年男を中心としするその他の者たちの相対的な位置を把握した。


「歩道を渡っていた奴らはあの世で後悔するかもな。他人がどうしようと、いつものように信号をきちんと守ってさえいればと」


 ジョーは言い終えるとほぼ同時に中年男に向かって猛ダッシュし、その顔に渾身の張り手を放った。


 バンッ!


 その瞬間、フィギアスケーターの回転ジャンプのごとく、中年男の体が横回転しながら宙に舞った。中年男は着地と同時に床を勢いよく転がり、壁に激突して止まった。男は倒れたまま口から泡を吹き、体をびくびくっと痙攣させていた。


「……」


 時が止まったような一瞬の静寂。しかしその後すぐに、これまで経験したことのない恐怖が、ものすごい伝搬力で彼らを襲った。


 彼らの顔色が次々と変っていった。頭の中では、グズグズするな! 早くここから逃げろ! という本能の叫びが響いていた。


 う、う、うわああああ!


 声をあげずにはいられない。彼らはパニック状態に陥った。

 ひ弱な彼らがジョーに対抗するとすれば、もちろん皆で力を合わせることしかない。


 自己犠牲を伴う純粋な仲間意識と協力関係。だが、もともと彼らにそんな高尚なものはなかった。


 当然ながら、瀕死の中年男のことなど全く気にかける様子もなく、彼らは皆、我先にと出口へと走った。


 しかしジョーは彼らを逃がさなかった。一発の張り手がジョーのアドレナリンを全開にしてしまった。素早く出口に回り込むと、逃げようとする彼らの一人一人に全力の張り手を喰らわせていった。


 や、やめて、バンッ、うわー! ババン! た、助け、ドバン!


 悲鳴や絶叫、そして炸裂音が飛び交う中、ドラマで役者の代わりに崖から落とされるマネキン人形のように、彼らは次々と宙に舞った。本気になったジョーの前で、彼らはあまりにも無力だった。


 嗚呼、ジョーを痛めつけているときに、誰も備えをしていなかったのだろうか?


 ジョーに罵声を浴びせる前に、蹴りやパンチをいれる前に、こうなることを少しでも覚悟しておかなかったのだろうか?


 瞳孔を全開にして瞬きもせず、恐怖から逃れるために全神経を集中させていた時間が、彼らにとってスローモーションで過ぎていった。しかしその間、恐怖心だけがいたずらに増幅され、それが最高潮に達した瞬間、顔面に走る激痛と共に意識をとばされた。


 ジョーの袋叩きに加わった者のほとんどが、彼渾身のビンタの餌食となった。


 ガチャ、バン!


 食堂の入口のドアが勢いよく開けられ、リサ博士がミカと共に入ってきた。 


 中では、机と椅子がごちゃごちゃに乱れ、メニューやお皿、皿からこぼれた料理などがそこら中に散乱していた。


 そうした惨憺たる状況にまみれて、少なくとも十人以上の人間が、白目をむいて床に倒れていた。


 リサ博士はすぐさま、床に倒れている者のもとに駆け寄り、その顔を一人一人確認していった。


「ジョン、ロウ、ケント、ロビン、ウィリアム……」


 最後の一人の顔を確認し終えたところで、リサ博士は力なくその場に座り込み、両手で顔を覆った。


「だめだわ。もう何もかも終わりよ……」


 ジョーは、リサ博士の存在に気付いてハッと我にかえると、張りつめていたテンションが急減していくのを感じた。ジョーは、少女の方にゆっくりと近づきながら、うなだれるリサ博士の姿を眉を潜めて見守るしかなかった。

 

 ジョーが食堂にいたとき、リサ博士は医務室でミカと話をしていた。ミカからDDUにおける詳細な報告を受けていたのである。はぐれてしまったジョーのことを少しは気にかけていたが、今後の対応を決めるためにはミカの報告の方を優先すべきだと考えたのだ。


 リサ博士が医務室でミカの話を聞いているとき、突然勢いよくドアが開けられた。


「大変です! 博士、すぐに来て下さい! あの男が、食堂で暴れています!」


 ノックもせずに血相をかえて入ってきたその職員は、食堂で起きて

いることを、ミカとリサ博士に手短に話した。


「なんですって!?」


 その報告を聞いたリサ博士は、すぐさま立ち上がり、ミカたちと共に食堂に走った。


「早く、早く止めなければ! とんでもないことになるわ!」


 食堂に入った瞬間、リサ博士の目に飛び込んできたのは、なぜかびしょ濡れで酷く汚れた格好をしている少女の姿と、リサ博士の研究に関与するスタッフたちが、食堂の至る所で白目を向いて倒れているという異様な光景だった。


 ジョーは、呆然として床に座り込んでいるリサ博士をしばらく眺めていたが、何かを思い出したかのように少女の肩をポンッと軽く叩くと、こっそりその場を離れようとした。


 そのとき、聞き覚えのある声がジョーを呼んだ。


「どこにいくつもり? ジョー」


 声の主はミカであった。彼女はジョーの後ろで仁王立ちしていた。


「うわっ!」


 思わずジョーは声を上げてしまった。その声で我に返ったリサ博士は、顔を上げて辺りを見回すと、ジョーの方に目を止めた。


 ミカはジョーの右腕をしっかりと掴んでいた。


「ジョー、逃がさないわよ」


 リサ博士は鋭い視線をジョーに向けつつ、ゆっくりと立ち上がった。


(やばい)


 リサ博士に殴られる、ジョーはそう直感した。教育的な意味などない、溢れんばかりの怒りが込められた彼女の拳が、ジョーの顔面に突き刺さる瞬間を。


 だがこのとき、未だ大量のアドレナリンが、ジョーの体内を巡っていたのである。


「ママ、今はだめ!」

 少女がリサ博士を止めようとしたとき、リサ博士はすでにジョーを右拳で殴るモーションに入っていた。


 これに対してジョーの身体がほとんど反射的に反応し、その左腕がリサ博士の右腕に被さるようにしてクロスした。


 ジョーの左腕は梃子の原理で刹那にしなり、そのおそるべき反動力を宿した左拳が、リサ博士の顎を閃光のごとく射抜いた。


 バキィ!


 それは見事な左クロスカウンターだった。怒の炎を燃やしていたリサ博士の瞳は一瞬にしてうつろで冷たいものとなり、彼女は、もろく崩れ落ちる何かのように膝を折って倒れた。


「キャー!」


 ミカと少女の悲鳴が食堂全体に響きわたった。

 

 この後、リサ博士と、ジョーにビンタを喰らった連中は全員病院に搬送された。

 幸いにも、リサ博士を含むほとんどの者が一週間以内で退院することができた。しかし、ジョーを不用意に袋叩きにした連中にとってこの事件は、もはや記憶などという曖昧なものではなく、決して消え去ることのない身の毛もよだつ恐ろしい体験として、彼らの心に深く刻み込まれることとなった。この事件以降の彼らは、ジョーの名前を聞くだけで、全身が震えて失禁するようになってしまった。

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