第4話 ミカとマリア、そしてショーン
ジョー、マリア、そしてミカの三人は、「ほのかの里」で借りたワゴン車に乗っていた。三人はDDUに戻るところで、時刻は午後六時をまわっていた。
ミカが運転し、マリアは助手席に座り、ジョーは後部座席で気を失ったまま寝ていた。マイクはとりあえず、ほのかの里の病院施設にしばらく入院することになった。
「マイクが入院したとなると、プロジェクトの進行に影響がでるかもしれないわね」
マリアが窓越しの夕焼け空に目をやりながら呟いた。
「あいつが悪いのよ」
ミカは、前方に向いている視線を少し鋭くした。
「何があったか知らないけど、別にあなたを責めてはいないわよ。誤解しないで」
「そういうあなたの言い方、逆になんかムカつくのよ」
「あらそう、やっぱり若いのね。羨ましいわ」
「そんなことちっとも思っていないくせに」
「思っているわよ。だって、あなたがジョーと付き合いたいって言っていたとき、この女、絶対殺してやるって本気で思ったもの」
「私を殺す? あなた、彼に相当入れ込んでいるようね」
マリアは押し黙ったまま返事をしなかった。
「それにしてもマリア、私があの隔離施設に入ることをよく容認したわね。あなたが譲らなければ、おそらくジョーや他の人が何を言おうとも私は入れなかったはず」
「あなたの言うとおりよ。あそこに入るには特別な許可が必要で、それを認められているのは私だけだから。ジョーはあくまでも私の付き添い人なの。でも彼が言っていたでしょ? あなたに隠し事はだめだって。彼ね、たまにだけど、核心をつくことを言うときがあるのよ」
「核心?」
「そう、絶対に避けて通れない局面に出くわしたようなとき、彼はその状況を敏感
に察知するのね。そういうときはもう理屈じゃないのよ。言う通りにするしかないわ」
ミカは隔離施設でジョーの言葉を思い出していた。
「ねえマリア、単刀直入に聞くけど、いい?」
「なあに?」
「あなた、ジョーのこと、愛しているの?」
「もちろんよ、だって私は彼の実の姉ですもの」
「えええっ!? うそおー! うそでしょ! マリア!」
「ええ、嘘よ。びっくりした?」
ミカは思わず、これまでしょうもない男どもに打ち放ってきた伝家の宝刀である必殺の右を、横に座って呑気に何やら嬉しそうに笑う年増女に喰らわせるところだった。
「マリア、あんた何か調子に乗っていない?」
「そんなことないわよ」
「あなたたちを始めとするDDUの人たちは、置かれている状況を全く分かっていないの。いいマリア? このままだとオー・プロジェクトは本当に頓挫するわよ」
「だから何?」
「だから何って、それがプロジェクトを支えてきた人間の言う言葉なの?」
「だって仕方ないじゃない。これまでみんな一所懸命にがんばってきたわ。残念だけど、そういう結果になることもあるわよ」
「もしそうなったらあなたはどうするの?」
「さあ、少なくとも私やジョーは用無しになるわね」
「用無し? じゃあもしそうなったら、二人してDDUをやめてどこかでひっそりと暮らすとか? ずいぶん無責任ね」
「そんなこと言ってないじゃない」
眼光を伏せた目つきで、マリアが視線を窓側に向けた。
「ねえマリア、この国が今平和なのは、はっきり言ってジョーのおかげよね。何か得体のしれない力でこの国は守られている、周辺国はそんな風に気味悪がって手を出せないでいるわ。でもジョーの力が使えなくなって、もしそのことが知れたら、いつ戦争を仕掛けられても決しておかしくはないわ」
「そうならないように、上の人間がいろいろな努力をしているわ」
「確かにそうね。強引に法律を変えて軍隊をつくるとかね」
「ミカ、あなたって、民間人のくせにまるで軍人みたいな言い方をするのね」
「だって必然だわ。平和を守るために武器を持つのは」
「そう、あなたのように考えている人は多いわね。でも少なくとも私とジョーは違う考え方を持っているの」
「どんな?」
「私たちはこう思っている。本当の平和の担い手は、普段特に目立つこともなく、静かに穏やかにそれぞれの生活を送っている素朴で朴訥な人々。そういう人たちによって真の平和が形成されるって」
「だから、武器を持つ人がそういう人たちを守っているわけでしょ?」
「いいえ、逆よ。なぜならそういう人たちは本当に強いから。軍隊なんかに守ってもらう必要はないのよ」
「そんなの理想論よ」
マリアはそれ以上何も言い返さなかった。淀むような重い空気がいつの間にかマリアを静かに包みこんでいた。
「マリア、あなたやジョーには申し訳ないけど、この計画は絶対に実行して、そして必ず成功してもらうわ。そうでないと困るのよ」
「オー・プロジェクトを? でもあなたの場合、ジョーさえ復活してくれればいいんじゃない? 背中のアレを消してもらうために」
アレという侮蔑的な言葉に、ミカは一瞬我を忘れてマリアを殴りそうになった。
「アレのことはとりあえずいいとして、もっと大事なことがあるのよ」
ミカの声は小刻みにふるえていた。
「アレはいいですって? あなた、アレを放っておいてどうするのよ。あなたはアレを背負ってこれから一生生きていくつもりなの?」
アレの連呼が、ミカの忍耐の限界を著しく早めた。ミカの手が出るまでに、おそらくその言葉はあと一回が限度だったろう。
「だまれ、このくそババア!! 他にもっと大事なことがあるって言ってるだろが!」
「まっ、何? くそババアって? そんな汚い言葉使わないでくれる」
「いいから話を聞いて!」
「聞いてるじゃない。何よ、大事なことって?」
「ここでは詳しく説明できないの。だから要点だけ説明するわ。ジョーはね、この世界だけじゃなくて、ある別の世界の存在、実はその存在はもしかしたら何億にも及ぶのだけれど、そうした多くの存在を守る使命をも負っているのよ」
「多くの存在?」
「あなたちがアバタープログラムと呼んでいるものよ」
「それってただのプログラムでしょ?」
「違うの。あー、いいえ、確かにプログラムだけど、なんていうか、彼らは生きているプログラムなのよ」
「生きているプログラムですって? バカバカしい、これでも私は医者よ。そんな話、信用できるわけないじゃない」
「そうね、普通は信じられないわよね。でも事実なの。そしてこの事実は、私を含めたごくわずかな人間しか知らない秘密。いえ、こうとも言えるわね、素直で柔軟な考え方をもつ人間にしか理解できない真実だとも」
「じゃそのまま秘密にしておけば?」
「何よマリア、あんたさっきから私の話を全然真剣に聞いてないわね。ははーん、さては帰り道でまたジョーといちゃつくつもりだったんでしょ? でもそれをこうして私に邪魔をされているもんだから機嫌が悪いのね。まったく、八つ当たりもいいとこだわ!」
それを聞いたマリアは、一瞬かっと大きく目を見開いた。そして、走行中にもかかわらず助手席のドアロックを解除すると、真顔で「今すぐこの車から降りなさい! さあ早く!」と急き立て、左手でミカをドアの方に押しやった。
「ちょっと何するの、やめてよ! 危ないじゃない! この色情オバゴリラ!」
「し、色情オバゴリラ!? 何よそれ? あんたこそ、背中に変な入れ墨を彫っている勘違い任侠女じゃない!」
「勘違い任侠女!? 何それ、どういう意味よ!」
「知らないわよ、そんなの」
後部シートで寝ていたジョーは、実はもうすでに意識を回復していた。彼が目を覚ましたとき、ものすごく不穏な空気を感じた。前方で繰り広げられる二人の女の激しい言葉のバトルに圧倒されて、身動きできずにいたのである。
だがしばらくするとジョーは、二人の女性が自分のことで言い争う様子を小気味良く感じるようになっていた。
状況は異なるが、自分を取り合って喧嘩する二人の男性を諫めようとする女性の想いを綴った懐メロが頭に浮かんできた。ジョーは、その懐メロのフレーズを頭の中で繰り返しながら、DDUに着くまで寝たふりをした。
◇◇◇
「ほのかの里」の守衛をクビにされた直後、ショーンは慌ててDDUにやって来た。
DDUの守衛に面会を頼んだが、マリアとミカは、「そんな変なおっさんなんか知らないわ。帰ってもらって頂戴」と、無下に白を切った。
どうしても納得がいかないショーンは怒り心頭で、さらにジョーに面会を頼んだ。
ちょうど休憩中だったジョーは、待ってましたとびゅんっと入り口に走っていった。
「よお! ショーンじゃねえか。どうしたんだ? 元気か?」
「『元気か?』 じゃないですよジョーさん。これは一体どういうことなんですか? なぜ私が突然クビにされなければいかんのです? マリアさんもミカさんも私のことなんか知らないと言って会ってもくれないし。一体全体何がどうなっているのか」
「ごめーん、ショーン。じつは全部正直に言っちゃったんだ。帰ってからすぐにね。ほら、おれって嘘をつけない性格じゃん?」
「何ですって!? でもジョーさん、仮にバレても責任は全部あなたが取ると言っていたじゃありませんか!」
「うん、だから責任を取ったよ。三ヶ月の減俸。あいたたた」
「何が『あいたたた』ですか、私はクビですよ! クビ! 一体どう責任を取るつもりですか?」
「あんたの責任なんて取らないよ。だって悪いのはあんただもん」
「私が?」
「俺はあのときあんたを試したのさ。ああいう状況でもちゃんと自分の仕事をまっとうできる男かどうかをね。だって以前、マリアにあんだけ説教してたじゃん」
「あれは……その」
「ところがどうだい今回は。なあショーンよ、あのとき俺は正直信じられなかったんだ。あんなに簡単にミカを通してくれるなんてな」
「だからそれはプロジェクトに協力しようと思って善意で」
「うそをつけ! このエロじじい!」
「うそじゃない! わしはただミカさんに……いや、皆さんに喜んでもらいたくて」
「ならいいじゃん、みんな喜んでいるよ。特に俺なんか、あんたがクビになってくれて最高に嬉しいね」
「こ、このバカ野郎! 言わせておけば!」
「おう! ショーン、やるか? それともオレとこれから飲みに行くか?」
「ドアホ! 訳が分からんわ。なんでお前となんか」
「いいじゃねえか、やっと本性さらけだしてくれたんだからよ。行こうぜ! 飲みによ!」
ジョーはショーンの首に右腕を巻いて、強引に引きずるようにして行った。
「くそ! 放せ、このバカ!」
しかし、ジョーの力は思いのほか強く、ショーンの力では外せなかった。そのうちショーンは諦めて、結局ジョーと近くの居酒屋で飲むことになった。
店に入ると二人は、少し広めの個室に案内された。
「お飲物はいかがいたしましょう?」
「ショーン、どうする、え? 何だよ返事くらいしろよ。じゃ勝手に頼むぞ、とりあえず冷えた牛乳を2つ!」
「え? 牛乳をですか?」
「ビールじゃビール! なんじゃ牛乳って、アホ!」
慌ててショーンが言った。
「ショーンよ、酒はバクテリアのしょんべんみたいなもんだけどよ、牛乳とかのミルクってのは奇跡の飲み物なんだぜ、知ってたか?」
「うるさい、ばかたれ。お姉さん、生中を2つ、それと焼き鳥の盛り合わせも頼む。こいつの言うことは無視してくれ」
「かしこまりました」
「何、かしこまりましたって? お姉さん、ちょっと感じ悪くない?」
中ジョッキにつがれたビールがすぐに用意され、ジョーとショーンは乾杯もせずに飲み始めた。
二人とも黙って飲んでいたのだが、実はこの二人、めちゃくちゃ酒に弱かった。二人ともジョッキ一杯のビールですぐに顔が真っ赤になった。
そのうちショーンが、愚痴をこぼし始めた。
「ふん、別にあんな仕事、クビになったってどうってことはないわい。わしは職員の間でも嫌われていたし、あいつらと一緒に飲みに行ったことなんか一度も無いわい」
「ショーンさ、そんなに不満があるなら、いっそあの施設のことを世間に暴露しちゃえば? みんなびっくりするぜ!」
「ジョー、あんたはほんとにバカじゃの。こんなじじいが一人で騒いだところでどうにもならんわ。それくらい分からんのか」
「でもよー、事実は事実だろ?」
「ふん、わしはあんな施設のことなんかもうどうでもいいんじゃ。お姉さん、ハイボール頂戴!」
ショーンは、注文したハイボールを片手に持ちながら、少し遅れてきた焼き鳥をおいしそうに頬張った。
「わしの唯一の心残りはマリアさんじゃ……あの人に会えなくなるのは寂しいのう」
「え? マリア? ミカじゃないの?」
「もちろんミカさんは美人でいい女じゃ。昔逃げられた女房にそっくりだよ」
なんだか憎たらしいが、ショーンがあの施設で働く前、つまり三年くらい前まで、ショーンには十五歳下の奥さんがいたらしい。子供も一人いて、三人で楽しく暮らしていたという。
しかしある日、勤めていた会社に突然リストラされ、ふてくされて再就職もせず、毎日酒ばっかり飲んでごろごろしていたところ、嫁さんが愛想を尽かして子供と一緒に出て行ってしまったらしい。
その後離婚し、現在は奥さんが女手一つで子供を育てているという。
ショーンは、奥さんだった女性はまだ若いから別の男とすぐ再婚するだろうと思っていたようだが、なぜかまだ再婚をしていないと言う。
「ショーン、お前さ、嫁さんか子供に暴力をふるっただろ? 正直に言えよ」
「そ、そんなこと、わしは、わしはただ」
「はいっ、やっちゃいましたー! 暴力はイカンなー。そりゃ出ていくよ。彼女が再婚しないのはなー、できないからだよ。男の暴力が怖いんだ。違うか? あーあ、ぜーんぶショーンのせいだ♪ ショーンが悪い♪ おーまえなんか♪ 地獄へ落ちろ♪ さっさとな♪」
「違う、酒じゃ、酒が悪いんだ!」
「アホゥ! 酒は悪くないね。ぜんっぜん、悪くないね。見てみろよ、この琥珀色の美しい甘美な液体をよ。だれだよバクテリアのションベンとか言った奴はよ! こいつが何かしたっていうのか? ショーンが悪い! 100%悪い! このハゲが!」
ジョーは、ショーンの髪の毛をおもいきり引っ張った。すると、白髪まじりの髪の毛の束がショーンの頭から勢いよく離脱した。それはカツラだった。
「うわ! なんだこれ?」
「ジョー、お、お前、知っていたのか?」
「知らない知らない、ふざけてやったら取れちゃったんだよ。あーびっくりした。マジで脅かすなよ、このじじい!」
「うるさい、うるさい、黙れこのバカ! わしはな、毎日一生懸命働いたんだ。それなのに、それなのに会社は……突然ゴミみたいに捨てられる気持ちがお前に分かるか!」
「分からねえ、全く分からねえ。でもよ、いずれ分かるようになるかもな。だってそうだろ? あんたに起きたことなら、俺にだって起こるかもしれねえんだから。そんなことより、なあ、奥さんの写真とか持ってないのか? あるなら見せろよ」
「これじゃ」
ショーンは携帯を取り出して待ち受け画面をみせてくれた。小さな三歳ぐらいの男の子とほっそりした女の人が写っていた。
女性は二十代後半といったところだろうか。色白の美人だった。でも顔や髪型、そして全体の雰囲気はミカのそれとは全く違うように見えた。
「えー? 確かにきれいな人だけど、ミカとは違うだろ?」
「よく見てみろ、目元とかそっくりじゃろうが」
「うーん」
もう一度見てもジョーにはよく分からなかったので、携帯のアドレス帳をいじることにした。ショーンは、さらに酔いがまわって疲れてきたのか、机につっぷするようにして、注文したハイボールを虚ろな目でだらしなく飲んでいた。
「奥さんの名前は?」
「カズコだ」
「カズコさんね。ショーンおまえさ、単に若い子が好きってだけじゃね? あ、これか」
「そうじゃ、わしは若い女が大好きじゃ。だからこそ今度のことは後悔しておる。マリアさんにそんなわしのどうしようもない部分を見られてしまったことをな」
「またマリアか。実は俺、あの日マリアを抱いたぜ。あーもしもし?」
「何!? マリアさんを抱いただと?」
ショーンはいきなり机から身を起こした。
「ジョー、お前、マリアさんを抱いたのか?」
「え? ああ、そうだよ。あの施設に向かう途中でな。いわゆるカーセックスってやつ? もしもし、カズコさんですか?」
ショーンは立ち上がってジョーの胸ぐらを掴んだ。
「キサマー! よくもマリアさんを、マリアさんを!!」
「ショーン、何キレてんだよ? 彼女が自分から抱けって言ったんだよ。あっ、カズコさんですか、どもっ! わたくしショーンの友達のジョーという者ですが」
「こっちを向かんかい! 今からわしはお前を殴る! 彼女の親代わりじゃ!」
ショーンはおぼつかない足取りで腰砕けのパンチをジョーの顔面に当てた。
「ぎゃっ! 痛ってっーな、何すんだよこのハゲ! 今電話中なんだよ、あっちに行けよ! あ、いえいえ、なんでもないです。ああ、ショーンね。元気ですよ。でも今日、仕事をクビになっちゃって、いい年こいてバカでしょー? 若い子に鼻の下のばした罰です。ははは」
何やらケラケラと笑うジョーに腹を立てたショーンは、ジョーに思い切り体当たりした。
「ぐわ!」
ジョーとショーンは床に倒れ込み、そのはずみで携帯がジョーの手から放れ落ちた。
「何すんだよ、このくそおやじ!」
「うるさい、これでもくらえ!」
ショーンは再びジョーの顔面にパンチを放った。
「てめえ、やりやがったなー。よーし、それなら。ショーンよ、おまえの子供の名前は?」
「なに?」
「子供の名前だよ」
「アキラじゃ」
「アキラ君か、よし、これらかあんたが俺を一発殴るごとに、俺はあんたを三発殴る。いいな?」
「なんじゃと?」
「一発目はカズコさんの分、二発目はアキラ君の分、最後はオレの分だ」
「なんなんじゃ、それは!?」
「うるせえ! いくぞ、先ずはカズコによる、床面すれすれから這い上がるジェットアッパーだ!」
「ぐひっ! 貴様、今あいつの名を呼び捨てにしたな」
「闇を切り裂けブーメランフック! byアキラ」
「ぎゃ! くそ、だから呼び捨ては止めろ」
「そして最後に俺のデコピーン!」
「痛! くそ、このバカ」
ショーンは、グラスに残っていたハイボールを飲み干すと、「まだまだじゃ!」と言って、ジョーに再び殴りかかった。
「ショーン、ならこれはどうだ、カズコ、アキラ、そしてジョーによる三位一体の攻撃、必殺の跳び蹴りアタッーク!」
ジョーはドロップキックをショーンに炸裂させた。ショーンは店の奥の方まで転がっていったが、すぐに起き上がり、再びジョーに向かっていった。
「ちくしょー! お前ら寄ってたかってわしを、このわしを、おおおお」
「へんっ、元はと言えばお前が悪いんだよ、お前が全部自分でぶち壊したんじゃねえか。他人から見たらそんな羨ましいほどの幸せをよ! お姉さん、梅酒ロックおかわり!」
「わしが壊した? このわしがか? うおおおおおお! あ、お姉さん、巨峰サワーも!」
ショーンは泣いていた。その声と嗚咽は大きく且つ汚らしくて、怒りすら覚える醜悪なものだった。だがその醜悪な姿こそがまさしく今のショーンの姿、本当の姿だった。
「くらえ! これがカズコ、アキラ、ジョー、マリアそしてミカの五つの魂! 必殺のスペシャルローリングサンダー!!」
ジョーは五発の高速ストレートをショーンのボデイに炸裂させた。
「ぐへ、ぎゃ、ぐほ、どへ、げぼ!」
ショーンは胃袋の中のものを一気に戻して、その場に倒れた。ジョーは梅酒ロックを一気に飲み干した。
「ふん、どうだ参ったか、このくそ野郎が!」
ショーンは、しばらくそのまま動かなかった。が、少しすると自分のゲロを両手に握りしめながら言った。
「そんなこと分かっておる。お前なんかに言われんでもな。くそ、くそ、あのとき、あのときにマリアさんと出会っていたら」
「なんだよ、マリアがどうしたって?」
「わしはな、あの人に出会って初めて、女性というものの本質を知ったような気がするんじゃ。もっと早くにあの人に会っていたら。カズコの気持ちにも、きっと気付いてやれた。だからわしにとってあの人は特別なんじゃ」
「ばーか、マリアなんか関係ないね、この根性なしのあほんだら! 簡単なことじゃねえか」
「簡単なことだと?」
「ショーン、お前の心はちゃんと知っていたんだ。お前にとって大事なものが何かを。それをなんだ、世間体か? それとも男の面子ってやつか? くだらねえ。お前はきちんと向き合わなかった。ずーっと自分自身から逃げていただけなんだよ。単なる臆病な愚か者だよ。マリアに会っていようといまいとその事実に変わりはねえ!」
ジョーは足払いしてショーンを床に倒すと、机の上に登りそこから飛び降りた。
「くらえ、このドサンピンが! 待ってましたのハリケーンボルトおお!」
ジョーは、倒れたショーンの顔面に拳を打ち下ろした。
「ぎゃん!」
ショーンは顔を押さえてうずくまったが、いや、うずくまる振りをして、すかさずジョーの足を取ってひっくり返した。
「ぐわ!」
こんどはショーンが、顔をめちゃくちゃにして泣きじゃくりながらジョーの顔面に張り手を三発張った。
二人はこんな調子でその日の夕方から次の日の明け方まで、酒と暴力に溺れた。飲んでは殴り、殴っては飲み、そしてときどき吐く。そんなことを延々と繰り返した。
結局、夜明け近くになったころ、ショーンが先につぶれた。ショーンは、床にうつ伏せになったままさいごの力をふりしぼり、大人としての資格と尊厳とを失う行為、即ち、その場で放尿と脱糞をして寝てしまった。
東の空から明るみと透き通る青が次第に大きく広がり、眩しい光球の一部が東の峰に現れた。
顔のあちこちが腫れていてじゃがいものようになったショーンは、その頭頂部の丸い地肌を涼しげに晒しながら、本人とジョーの吐いた黄白色の嘔吐物の中に身を埋めていた。
その部屋全体が、嗅覚をもつ生物ならばおそらく吸い込むことをほぼ確実に拒むであろうほどの臭気で満たされていた。勿論二人の嗅覚はすでに麻痺しており、ほとんど何も感じないようになっていた。
ショーンはすべてを吐き出した。液体、個体、気体、不満、欲求、絶望など、その体から生み出されたあらゆる物質、思想、観念、そうした吐き出せるもの全てを。
そして今は死んだように眠っていた。一つの生命を終えて生気のないからっぽの骸が、ただ静かに、そのままバクテリアによる生物分解を待つために横たわっているようなショーンのその様子は、ジョーにとってなんだか可笑しかった。
そのとき、窓から差し込む強烈な光が、嘔吐物に乱反射し、ショーンの体が物理的に光輝いた。その光景は、ジョーにとって単純に美しい映像だった。ジョーは、そんなショーンの写真を何枚か撮った後、それらをミカとマリアの携帯にも送信した。
ジョーもかなり疲れてはいたが、さすがにそこに寝たいとは思わなかった。近くに倒れていた椅子をなんとか起こしてそこに腰掛けた。
「ショーンの奴め、本気で殴りやがって、おー、痛てえ」
ジョーは顔を冷やしたいと思って辺りを見回し、まだ氷が残る飲みかけのグラスでもないか探した。すると、寝ているショーンの足下に電子光らしき光が見えた。何かと思いショーンの足をどけてみると、携帯が落ちていた。
「なんだこれ? 通話状態のままじゃん。あれ? そういえば俺、誰かと電話をしてたような……」
そう独り言を言って手に取った瞬間、急にオフになった。
(ん? 切れた?)
ジョーはなんだかよく分からないまま、その携帯を机の上に置いて、何か冷たいものがないか再び探し始めた。
ピンピロピーン! ピンピロピーン!
突然、今さっき机に置いた携帯が鳴り出した。ジョーがその携帯を手にとって画面をみると「カズコ・キッヘン」という名前が表示されていた。
「カズコ? あれ? どこかで聞いたような名前だな、うーん、だめだ思いだせない……あーくそっ、考えると頭痛てえ」
ジョーはその名前の主を必死に思いだそうとしながら、床に寝ているショーンの鼻と口とを右手で完全に塞いだ。
ショーンが苦しみ始めると、ジョーは、「いいや、まだまだ」と、鼻と口とをさらに強く塞いだ。
「ふご、ふご、ふご!」
ショーンはぱっと両目を開けて、手足をばたばたさせた。
「ショーン、起きろよ、カズコさんという人から電話がきてるぞ!」
ショーンは、息苦しさの理由を理解するとすぐさまジョーの腕をつかみ、その手を顔から引きはがした。
「ぶはあっ! ぶはっ! はあ、こ、このバカ! ド馬鹿! きさま、わしを殺すつもりか!?」
「やっと起きたか、ほら、いいから早く電話に出ろよ、カズコって人からだ」
「なに? カズコじゃと? まさか?」
ショーンは、ジョーから奪うようにして携帯を取りあげると、恐る恐る電話に出た。
「カズコか? わしじゃが」
ショーンは、ジョーにくるりと背中を向けてしゃがみ込んだ。
「うん、そうだ……え? 何? ほんとか? ほんとにいいのか?」
ジョーは、ショーンの体に付着した嘔吐物に触れないような絶妙な姿勢で、馴れ馴れしくショーンの首に腕を回した。
「ああん? ショーン、いったい誰なんだよ、何の電話なんだよ?」
「ええい、うるさい! このバカ! あっちへいけ! あ、いや、すまん何でもない、こっちのことじゃ。ああ、もちろん酒は辞める! いや、わしはもう辞めていたんだ。お前たちが出て行ったあの日から、今わしの横にいるこの馬鹿と飲むまでは。今回はこいつに誘われて無理やり飲まされたんだ。これは本当なんだ、信じてくれ! もう今後一切、酒は飲まない、約束する! もし一滴でも飲んだら、その場でわしをどうしてくれてもかまわない……そうか、分かった、すぐに行く。そうだアキラは? まだ寝とるか、それはそうだな、わはは!」
電話でのショーンは、本当に嬉しそうに笑っていた。その笑顔には、長く続いた苦闘の果てに、自分の運命にやっと気がつき、それを取り戻したかのような、何か若々しい生気に満ち溢れていた。
「これからすぐに行くから、昼頃には着けるじゃろう。うん、わかった、じゃまた後でな!」
ショーンは携帯を切ると「こうしちゃおれん」と、忙しなく当たりを見回した。
「ショーン、どうしたんだ? 今の電話は誰からだったんだ?」
「ええい、うるさいわ! 昔別れた女房だよ! なんか知らんが、また一緒に暮らしてもいいと言ってきた」
「へえー、よかったじゃねえか」
「おい、ジョー、あんたの服を脱いでくれんか?」
「なんだよ急に?」
「いいから早く、パンツも全部じゃ!」
「パンツも!?」
「あたりまえじゃ! 早くしろ」
ジョーはショーンの異様な迫力に圧され、言われるままに服を脱いだ。
「わしはこれからカズコのところに帰るんじゃ、こんなゲロウンコ臭い格好で帰るわけにはいかん。それくらい分かるじゃろ!」
「そりゃそうだろうけどよ、じゃあ俺は何を着てかえりゃいいんだ?」
「ほれ! とりあえずこれでその粗末なものを隠しておけば十分じゃろ!」
「は?」
ジョーは、渡されたおしぼりを股間にあてがった。
「あとは……そう、金じゃ、金がいる。ジョー、とりあえず百万でいいから貸してくれんか?」
「百万? そんな大金持ってる訳ねえだろ。そもそもお金なんか一円もないよ」
「一円もないじゃと? それならカードか? 少しの間でいいから、それをわしに貸してくれんか? このとおり、頼む!」
「そんなものはないよ」
「ない? じゃあここの支払いはどうするつもりじゃったんじゃ?」
「いつもは店から直接DDUの方に、つまりマリアに請求してもらうようにしている」
「なんじゃそれは!?」
「仕方ないだろ、俺のことは全部マリアに管理されているからな。使えるお金だって例外じゃない」
「子供かお前は! とことん使えん奴じゃのう」
「なんだよその言い方、ショーン、あんたこそどうなんだよ、そんな年なんだから、少しぐらい蓄えておくのが普通だろ?」
「何のために?」
「何のためにって、老後のためとかあるだろ?」
「老後じゃと? 何の生き甲斐もないワシに、そんなものを大事にする理由なんかないわ!」
「なんだよそれ?」
「だが今はちがう、これからわしの第二の人生が始まろうとしているんじゃ」
「そんなこと言ったって」
何気にジョーは自分の左手首を触った。
「あっ、これならいいかも」
ジョーは左手首から腕時計を外してショーンに渡した。
「なんじゃこの時計は? 何々『A.LANGE&SOHNE』? うーん、聞いたことのない名前じゃのう」
「それ、去年の誕生日にマリアからもらったんだ。俺もよく分からないけど、きっ
とかなり高価な代物だぜ」
「マリアさんからじゃと? そんな大事なもの、わしが貰う訳には……」
「おいショーン、俺から身ぐるみ剥いでおきながらそこで躊躇するか?」
「マリアさん、本当にすまない! このご恩は一生忘れません!」
「コラコラ、感謝する相手を間違えてるぞ!」
ショーンは、さっそく左手首に腕時計をはめると、「じゃあ、後はよろしく頼む!」と言って、店の出口に猛ダッシュした。しかしすぐにまたダッシュで戻ってきた。携帯でも忘れたのかと思いきや、ショーンはジョーの前で立ち止まり、何も言わずにジョーに向かって深々とお辞儀をした。そしてまた出口に走って行った。
「あーあ、行っちゃった。さよならショーン、元気でな」
ジョーは、股間をおしぼりで押さえつつ、鼻水を垂らしながらショーンを見送っていた。
「あのー、お客様、そろそろお勘定の方、よろしいですか?」
初めに注文を取りに来た女性の店員が、口と鼻とを塞ぐようにタオルを巻いて後ろに立っていた。
「ああ、お勘定ね。請求はDDUの方にお願いします。マリア・ハハノカンと言ってもらえばいいから」
「分かりました。えーっと、それではですね、生ビールが五杯、山崎十三年のロックが二杯、赤ワインが三杯、レモンサワーが六杯、梅酒ロックが八杯、ハイボールが三杯、ジントニックが一杯、巨峰サワーが一杯、焼き鳥の盛り合わせ、それと、汚物で汚れた床板と壁の張り替えと机と椅子の修理費用、全部で九十八万八千円です」
「あーそう……えっ!? 九十八万!? うそお!?」
そのとき店のドアが開き、すぐにそれとわかる制服を着た一人の若い警官が、無線機を持って店に入ってきた。
「あっ、いたいた。はい、今確認しました。確かに居ます。分かりました。これから確保します」
店の外の方に、旋回する赤いランプが一瞬だけ見えた。
「おやおやお兄さん、だめじゃーん。何? 飲み過ぎちゃった?」
と言いながら、若い警官はジョーの両手に手錠をかけた。
その瞬間、ジョーの体にビビッと電気のようなものが走った。
「ええーと、とりあえず公然猥褻っと、それから器物破損もだね」
女性店員が大きめのバスタオルを用意してくれた。
警官がそのバスタオルで優しくジョーの体を包むと「さあ、行こうか?」と言って、ジョーの背中にすっと左手を添えた。
そのときジョーは、我が身に起きている事象を理解した。即ち、人間社会における善悪の完全なるバランスをとるために、法による神聖な審理がこれから行われようとしていることを。そしてそれは、職務にきわめて忠実で、且つ、ブレのない確固とした常識と、偏頗のない良識とを合わせ持つすばらしい女性店員がいてくれたおかげであることも。
ジョーは、くるりと向きを変え、その女性店員に向かって深々とお辞儀をした。彼女は少し驚いたようだったが、その視線を絶えず斜め下に落としていた。
東の空には、太陽がその姿を完全に現し、地面にジョーと警官の二人の長い陰が伸びていた。二人はパトカーに乗り込み、その店を後にした。
尚、その後のジョーは、一日だけ警察署に拘留された後、何の罪にも問われることなく無事に釈放された。
マリアが自ら、ジョーの身柄を引き取りに来てくれたのである。マリアが署長に事情を説明すると、署長は彼女に対して深い同情の念を抱きながら、ジョーを彼女の元に快く返してくれた。
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