第3話 秘密

 事故から一週間ほど経ったある日、ジョーとマリアの二人は、ある場所に車で向かっていた。その日は、DDUで定期的に実施されるシステムメンテナンスの日で、ほとんどのスタッフたちにとって休日となっていた。


 ミカは、休みの度にどこかにこっそり出かけて行くジョーとマリアのことが以前から気になっており、その日の前日、自分も一緒に行きたいとマリアに頼んだのだが、あっさりと断られてしまった。そのためミカは、強引にマイクをを誘って彼らの後を付けることにした。


 マイクの運転するダークグリーンのジープが、マリアの運転する赤のビートルの後を追っていく。


「あーあ、なんで僕まで。今日は久しぶりに釣りにでも行こうかと思っていたのに」


 助手席に座っているミカは、ウインドウを全開にした窓枠に左肘を掛けながら、風に髪をなびかせていた。


「マイク、あの二人が何しに行くのか気にならないの?」


「そりゃならなくもないけど。何もここまでしなくても」


「言っておくけど、了解はとってあるわ」


「了解って、マリアさんは何て?」


「もう勝手になさい、だって。だからいいでしょ?」


「……ジョーは?」


「彼は、昔の友人たちに会いに行くって言っただけ。来るなとは言われてないわ」


「友人って?」


「さあ」


 その会話以降、ミカは、ずーっと黙ったままで、前を走るマリアの車からその目を決して離さなかった。


 その日は真夏日といってよかった。まだ朝の九時を少しだけ回っただけというのに、国道沿いの街路樹に群がる緑が、熱の籠もった南風と、射るような日差しとを受けて、踊り燃えているようだった。


 ミカは相変わらず黙ったままで、風になびく髪の毛を、ときたま手櫛に通すようにして、自分の世界に浸っていた。マイクがラジオでもつけようと中央のパネルに左手を伸ばすと、ピシャリとその手をミカにはたかれた。


「ミカ、お願いだから何か話をしてくれないかな? この空気の重さ、ちょっと耐えられないよ」


「……」


「なんだよもう! そうかい、そっちがその気なら……」 


 ミカは、様々な思いを巡らせていた。AITにいるリサ博士や姉のことなど、普段は仕事に忙しく後回しにせざるを得なかったものが、休日の彼女の思考を支配するのは、むしろ自然なことであった。


 しかし、一通り思いが巡ると、急に周りが見えはじめ、現実の世界に引き戻された。


 そのとき彼女はふと、隣で運転するマイクの顔を見た。


 宇宙パイロット訓練センターにいたころ、マイクはなぜかいつも彼女のそばにいた。いや、もしかしたら彼女がマイクのそばにいたのかもしれない。


 ミカは気付いていた。マイクだけが、事ある毎に愚痴や不満をこぼす自分をいつも静かに受け入れてくれていたことを。


 そんな思いがよぎったとき、一人の男性としてのマイクが、彼女の前に突如として現れた。マイクの、まっすぐに前を見据える切れ長の青い瞳の上で、さらりとしたブロンドの前髪が運転席の窓から来る風にやさしくなびいていた。


 ミカは急に、マイクの顔をまともに見れなくなってしまった。彼女は、そのまま視線を下に向けた。


 !? !? !? キャー!!!


 ミカの悲鳴が車内を駆けめぐった。甲高い響きが、そこかしこに跳ね返る。

 一方、マイクは特に驚くこともなく、ゆったりとした感じでハンドルを握り、悦に入っていた。


(ああ、ありがたい、やっと息ができる)


 ミカの絶叫が、鋭利なナイフが乱舞するかのごとく、重く圧し掛かった空気を手当たり次第に切り刻んでいた。


 マイクは、ズボンとパンツをずり下ろした状態で運転をしていた。


「ミカ、見えるかい? 次は、絶叫を発したその口で、この肉棒の先の皮をそっと剥き、中にあるピンクの果実をやさしくほおばっておくれよ。できるかい? あっははは!」


 次の瞬間、マイクは、それまで経験したことのない大きな衝撃を下顎に受けた。マイクの脳は慣性の法則に従い頭蓋骨に相対して揺れた。


                  ◇◇◇


 助手席に座っているジョーは、窓から外の景色を眺めていた。周りに広がる草原には青々とした若草が一面に生い茂っており、夏風になびく緑が光を湛えていた。


「ふんふんふーん♪」


 運転しているマリアは、ジョーが無事に回復したということをとても喜んでいて、かなりご機嫌だった。お気に入りの花柄のワンピースと、気品の漂う薄化粧は、より華やかな印象を、彼女の笑顔に添えていた。


「マリアさ、その歌やめてくんない?」


「どうして? ただのアニソンよ」


「アニソンはいいんだけど、歌詞を変な風に変えるのをやめてくれ」


「別に変なことなんか言ってないじゃない」


「言ってるよ!」


「例えば?」


「“あふれ出す愛液”とか、“カウパーの香り”とか、所々に全く関係のない変ないやらしいフレーズをねじ込んでくるじゃないか」


「何、ねじ込んでくるって? そっちの言い方のほうがよっぽどいやらしいじゃない」


「だからそういうことじゃなくて、とにかく訳の分からないエロを子供の歌に持ち

込むなって言ってるんだよ!」


「ふふふ、そんなムキになることないじゃない」


「別にムキになんかなってないよ!」


「ほーら、ムキになってる。あはは、楽しいわねー、ジョー」


 マリアの気分は弾んでいた。普段とは明らかに違う特別なマリアがいた。その声の調子には、心地よくて優しいクラシック音楽のような旋律を含んでいた。


 ファン、ファン、ファン


 前方からパトカーがやってきた。そのすぐ後ろには救急車もいるようだった。


「お? なんだ? なんだ?」


 ジョーたちのすぐ横を通り過ぎたとき、パトカーの白と黒のボディと、規則正しく旋回するサイレンの赤光が妙にリアルだった。


「何か事故でもあったのかしら?」


 マリアがルームミラーに視線を移した。


「そういえば、あの二人、いなくなったわね」


「あの二人って?」


「ミカさんとマイクよ」


「え? あの二人が後ろにいたのか?」


「そうよ、ずっとわたしたちの後に付いて来ていたのよ」


「なんで?」


「ミカさん、私たちがどこに行くのかを知りたがっていたの。しつこくてほんとに困ったわ」


「それで? (あれ? そういえば俺も彼女に何か聞かれていたっけ?)」


「勝手にしなさいって言ったわ」


「ふーん、で、勝手に付いてきたと」


「そうよ。あの女、一体何なの?」


「さあね」


 マリアが眉間に少し皺をよせた。


「……ジョー、あなた、彼女とはもう寝たの?」


 マリアの口調が変わった。それまでのなめらかな調子が、急に断続的になって、質問口調になった。


「そんな訳ないだろ。付き合ってすらいないよ」


「でもミカは、あなたとちゃんと付き合っているってはっきり言っていたわよ」


「彼女が勝手にそう言っているだけさ」


「ほんとかしら?」


 少しだけつんけんとした雰囲気が、マリアを包んだ。ジョーは、なぜかそれが気に入らなかった。


「じゃ、マリアはさ、仮に俺が彼女とつき合っちゃったらさ、それでいいわけ?」


 マリアの雰囲気になにか重みが増した感じがした。


「どうって、別に」


「俺はさ、マリアが男と付き合うことにしたなんて台詞、聞きたくないね」


「どうして?」


「なんかこう、気持ち悪いんだよ」


「気持ち悪い? 私なんかあなたにとって、どうせただのおばさんでしょ?」


「確かにマリアはおばさんだけど、ただのおばさんじゃないんだ。俺にとってのマリアは!」


「何よそれ? すごいむかつく! じゃ何? 私はあんたの母親の代わりだとでも?」


 マリアはいつになくしつこく聞いてきた。こんな感情的になったマリアは初めてだった。


「母親なんかじゃない。俺はマリアのことが好きなんだよ。俺だけのものにしたいんだ!」


 その言葉を聞いたマリアは、一瞬ぎょっとしたように目を丸くした。


「……バカ、あんたはバカよ、どうしようない大馬鹿よ!」


「そうだよ。なんだよ今更。どうせ俺はバカだよ。でもマリアのことが好きなんだよ!」


(また好きって言っちゃった。今日は一体どうしたんだ俺?)


 ジョーが自分自身の言葉に少し戸惑っていると、車が急に減速した。そして、ゆっくりと路肩に停止した。


 マリアは、うつむき加減で静かにじっと座っていた。


(やばいっ、殴られる!)

 ジョーはなぜかそう直感した。


「……私を好きなら。今、ここで、私を抱きなさい」


(何? 何をしろって? よく聞こえなかった)


「私を抱きなさい! 聞こえなかったの?」


 マリアの眼はちょっとだけ赤みがかっていた。ジョーの眼を直視して、決して逸

らそうとはしなかった。


「なんとか言いなさいよ、この臆病者のチキン男! うすらバカ!」


 マリアは容赦なくジョーに罵詈雑言を浴びせた。しかし、その様子は、絶えず何かに怯えているようで、これまでのマリアのイメージからは想像すらできない、一種のか弱さが感じられた。


 ジョーがそんな状態のマリアを見たのは、勿論初めてことで、どうすればいいのか全く分からなかった。


(抱け、抱いてしまえ!)

 どこからかそんな声が聞こえたような気がした。


 ジョーは考えるのやめて、マリアの両肩を掴むとその身をぐっと引き寄せた。そして背中に両腕をまわして力の限り抱きしめた。真正面からその唇をマリアのそれに重ねようとした。鼻と鼻とがかち合った。その瞬間、マリアが笑って吹き出したため、彼女の鼻息を感じたが、おかまいなくマリアの唇をチューチューと吸った。


 そのとき何かがマリアのつぼにはまった。マリアの体全体から力抜けていくのが

分かった。マリアは、ちょっと待ってと言ったが、ジョーはかまうことなくマリアの胸をまさぐると、ブラジャーを下にずりおろして、少し弾力が失われて垂れかかっている豊満な胸の中にその顔を埋めた。しかし、埋めたもののどうしたら良いのか分からなかったので、とりあえず、乳首を吸ってみたが、もし母乳が出てきた

らどうしようと思ったのですぐにやめた。


 ジョーは、マリアを運転席から引っ張りあげて上に跨がらせると、マリアのスカートをめくり上げて下着を引き下ろした。


「ああ、ジョー!!」


 マリアは抵抗らしい抵抗をしなかった。笑いが少し収まると、ジョーの首に両腕を回して、ジョーにキスをはじめた。ゆっくりとむさぼるように。そしてマリアの太股から体全体に伝わる上下のリズムは、大人の女性だけが知る快楽への誘惑を、いや、ジョーに対する真摯な思いを巧妙に表現するものだった。


 マリアは、目を閉じながらジョーの口に舌を勢いよく入れてきた。容赦ない究極の愛撫。ジョーが主導権を握ろうとしてもそれは叶わなかった。彼女の愛撫はまさに芸術だった。マリアの体のリズムと艶めかしいくねりとが、その舌の動きとみごとに連動していた。その動きを妨げるものは、いかなる目的であっても陳腐で、醜悪なものに思えた。


 ジョーは、他に何か主導権を握れるものがないか、必死に探していた。このまま快楽の渦に巻き込まれ、溺れていくことに不安を感じていた。


(このままではだめだ)


 一体何が駄目なのか分からなかったが、とにかく何とかしなければと思っていた。


 すがるような思いでジョーはベルトを外すと、ズボンとパンツを素早く下した。ジョーの股間にいきり立つそれは、今のジョーがもつ唯一の武器であり希望だった。しかし、その希望に浸る間もなく、まるで初めからそう読んでいたかのように、マリアの第二の触手ともいうべき右手が、彼の男根を優しく掴んだ。


 マリアの体全体から生じるリズムはその右手にも伝わり、あっという間にマリアの流れに飲み込まれ、彼の希望は泡と消えた。ジョーにはもはや為す術がなかった。仕方がないので、ジョーは子供のように、マリアの乳首と陰部をくりくりとくすぐっていた。


 マリアの右手の動きが鈍くなった。突然の光明。すかさず、さっきやめた乳首の愛撫を再開した。その瞬間、マリアは咆哮するとともに身を大きく後ろによじらせ右手と唇を離した。


 今だ! ジョーは男根の先をマリアの陰部に押し付けた。とっさにマリアの右手が動き、彼の男根の向きを微妙に調整した。


 今や最高硬度となったジョーの男根は、真冬の寒さに耐える大木のように黒槍と化し、マリアの肉穴を射抜いた。暖かくうごめく彼女の肉壁が、ジョーの男根にうねるような圧力をかけていた。


 全く意外なほど簡単に挿入できたような感じがした。マリアの陰部はすでに愛液に塗れ、そしてとめどなく広がるその液体は、マリアの女としての領域を急速に拡大させていた。


 ジョーは、マリアの体の動きとリズムを読みながら、その流れにそって腰を動かし始めた。マリアの腰から臀部にかけた位置に両手を置いて、大きく息を吸い込んだ。ジョーはゆっくりと、その男根をマリアの膣にこすりつけ始めた。


「はああ、ジョー、だめ、それ以上動かしちゃ……」


 マリアのリズムが乱れ、ジョーのぎこちない腰の動作がそれに重なり、それがかえって強い摩擦を生むかのようで、ジョーが三回目に腰を動かしたとたん、マリアは渾身の力でジョーに抱きついた。


「うー、はあー、あーー! はああああ!」


 マリアは歓喜の叫びと共に、激しいオーガスムスを享受したようだった。マリアの膣から、さらなる愛液が放出された。ジョーは、自分のぎこちない動きから、なぜ彼女の声の轟と愛液の濁流とが生まれるのか分からなかったが、確かにマリアを喜ばせているというその事実がジョーを安心させていた。


 マリアは早くも三回目の絶頂に到達しつつあった。


「ジョー、私、もうだめ、あなたも早く!」


 だがジョーはイクことができなかった。ある程度の快感を得ることはできているのに、ジョーの男根はその高度を維持したままで、一向に折れる気配がなかった。


「うーー、あああああ!」


 これまでで一番の絶叫が車内に響きわたった。マリアは全身をジョーに委ねてそのままぐったりしてしまった。


 すべてが終わった。ジョーはマリアを両手でゆっくり抱きしめた。マリアはジョーの右肩に顎を乗せ、肩に腕を回していた。


 生々しい女の臭いがジョーの鼻に絡んだ。そのとき、それまでは怪しく鋭利な輝きを放つ日本刀のような存在だったマリアが、とても身近な醤油煎餅のような存在に変わったように思えた。


「ごめんね。私だけ」


 その言葉には、ある種の不満が含まれていたが、ジョーはそんなことを気遣うこともなく、

「いいんだ。別に」

 と、そっけなく返した。


「なに? 私じゃ満足できなかった?」


「いや、そんなんじゃないよ。マリアを抱くことができて嬉しいよ」


「何なの、取って付けたようなその言い方」


「別にそんなつもりは……」


「ふん、もういいわ」


「だから違うって」


 ジョーは又の上から降りようとしたマリアを再び抱きしめ、まだいきり立つそれをマリアの中に再び押し込んだ。


「え? あん、あああ、ジョー、だめ!」


「うるさい、俺もマリアの中でイキたいんだ」


 今度はジョーが攻め始めた。攻めといってもなんのテーマもストーリー性もない稚拙な攻めであった。前戯なしの衝動的なセックス、しかしそれこそがジョーのオリジナルだった。誰の手垢にも汚れていないまさに彼そのものの純粋な行為だった。


 マリアは悶えに悶えた。ジョーの全てをその身に受け止めようとしていた。


 ジョーはもがいていた。この局面を打開するために、その全神経を股間に集中させていた。しかし、なかなかそのリミッターが外れなかった。


(くそっ、なぜだ? どうして……あっ、そうか)


 混乱気味の頭に刹那のフラッシュが焚かれたように、ジョーはあることを思い出した。


 ジョーは所謂「遅漏」だった。彼はすっかり忘れていた。それは精神的なもので、何も気にすることはないって、風俗のお姉さんがよく励ましてくれたことを。

 ようやく状況を抜け出す出口が見つかったような気がした。視界が急に開けたような気分になり、ジョーは何気なく窓の外を見た。


(あっ!)


 ジョーの視線が、突如現れたミカの視線と一瞬重なった。ミカはパトカーに乗っていて、その口を両手で押さえながら目をカッと見開いていた。パトカーのすぐ後に救急車がつづいていた。


 救急車のサイレンの音がどんどん遠のいてゆくのとは対照的に、ミカの驚きの表情が、ジョーの中で奇妙に拡大されて明確になっていくようだった。


(うわー……ミカに見られちゃった。どうする? マリアに話しておくか? いや、これ以上マリアの機嫌を損ないたくない。とりあえず今はよそう。それにしても、なぜミカがパトカーに?)


「どうしたのジョー、イケた?」


 動きの止まったジョーに、マリアが尋ねた。


「えっ? いや、じつはその……」


 ミカのことはさておいて、ジョーは自分が遅漏であることをマリアに打ち明けた。それを聞いたマリアは、ふーんという顔つきでジョーの顔を舐めるように見つめると、何かを納得したように、ジョーの体をぎゅっと抱きしめた。


「たぶん、少し緊張しているのね。大丈夫よ、慣れてくれば」


 そう言ってマリアは運転席に戻り、下着を履き直して身なりを整えた。


 マリアは、また鼻歌を歌いながら運転を再開した。ジョーは、助手席でズボンとパンツをあげてベルトを締めると、マリアの髪の毛を右手でゆっくりと撫でるようにといた。


 道端に咲いていたひまわりの黄色が、いっそう色濃く際だち、炎天の空気を賑やかにしていた。目的地である『ほのかの里』はもうすぐだった。


 ほのかの里は、ヨシュア国の公務関係者だけが利用することができる特殊養護施設である。その施設は、いわゆる老人ホームを母体としているものであったが、簡易的な医療施設として機能も兼ね備えていた。


 ジョーとマリアが向かう場所は、その『ほのかの里』の施設内にあった。


 マリアが受け付けで入所手続きをしている間、ジョーが待合室に行こうとガラス越しに中をのぞいたとき、椅子に座って煙草をふかしているミカの姿が見えた。


 ジョーはとっさにかがんで、そばにあったロングソファの裏に身を隠した。


 手続きを終えたマリアは、そんなジョーの姿を見て少し不振に思ったが、ちょっと面白いかもと思い、そっとジョーの背後に近づいて蹴りを一発いれた。すると、そのハイヒールの踵がジョーの背中に刺さり、ジョーが悲鳴をあげた。


「ぎゃん!」


 この声に周囲の人が驚き、その騒ぎでミカがジョーとマリアに気がついた。


「あはは、何をしているのジョー? 今度は私が刺してやったわ、うふふふ」


「あ……くっ……」


 ジョーは、あまりの激痛で声が出なかった。


 マリアがジョーの奇妙な行為を見て不信に思うのは当然だろう。だが、まさかハイヒールで背中を突いてくるとは、しかも呑気に下ネタをはさみながら。


 ジョーは、背中の刺された箇所を右手の甲で押さえながら、マリアを見上げた。彼女の優しい笑顔が、ある種の免罪符となっているようで、ジョーの怒る気力を消失させてしまった。


「あら? 二人共お揃いで、こんなこところで何をしているのかしら?」


 ミカがゆっくりと近づいてきた。よく見ると彼女の頭にはなぜか包帯が巻かれていた。


「あ、言い間違えたわ。何をしているのじゃなくて、ナニをしてきたのよね」


 その瞬間、マリアの顔が強張った。ミカの言葉でジョーの不可解な行動の謎がすべて一気に解け出した。


 しかしマリアは、決してうろたえるようなそぶりを見せず、すぐさま切り返した。


「こんなところであなたに会うなんて奇遇ね。っていうか、その様子だと、まさか事故ったの? ん? あれはマイク? ちょっと、どうしたのよ彼?」


 ミカが振り向くと、キャスター付きベッドに横たわるマイクがちょうど運ばれて

きていた。マイクが自分の前に来たときミカはぎょっとした。頭だけかと思った包帯が、これ見よがしにマイクの陰茎に巻かれていたのである。


「ミカ、僕は大丈夫だよ。心配しないで」


 屈託のないマイクの言葉が、純粋で悪意のない“生きた笑い”を周りの人々の心に惹起させ、マイクを運んできた二人の看護師は、顔を伏せながら、その肩を小刻みに震わせていた。


「あらあら、そっちのナニも大変そうね。どうぞお大事に!」


 マリアはそう言うと、ジョーの腕をとって待合室を出ようとした。


 ミカは恥ずかしさと悔しさでぎゅうっと両拳を握っていたが、すぐに当初の目的を思い出して、マリアとジョーの後をすぐに追った。


「ちょっと、マリア、待ちなさいよ!」


「あなたに呼び捨てにされる覚えはないわ」


「なに気取っているのよ。あんなところであんなことをしていたくせに。あんたたち、本当は付き合っていたんじゃない!」


「違うわ、どうせ信じないでしょうけど、ジョーに抱かれたのはこれが初めてよ」


「嘘を言わないで!」


「だから信じなくていいって言ったでしょ。もう付いて来ないで頂戴!」


「どこ行くのよ?」


「あなたには関係のないところよ」


 マリアはジョーの左腕にしがみ付いたままで、歩くのを速めた。


「ねえ、ジョー、いったいどこにいくのよ」


「え? まあ、なんだその、お見舞いみたいなもんだよ」


「お見舞いって、患者さんのいる病棟はこっちの方じゃないの?」


「いいや、こっちでいいんだ」


 三人が、大きな扉の前まで来たとき、その扉の脇に設けてある小部屋から、初老の小柄な男性が現れた。その男は、真新しい光沢のある制服と制帽を身に纏い、背筋をぴんと伸ばしながら制帽の庇の向きを常に気にしていた。


「やあ、マリアさん、それにジョーさんも、こんにちは」


 その男は、マリアとジョーに素早く敬礼した。


「ショーンさん、こんにちは」


 マリアが、丁寧にお辞儀を返した。


 ショーンと呼ばれるその男は、本名をショーン・キッヘン(五十二歳)といい、ほのかの里の敷地内の一角に設けられている隔離施設の守衛を勤めている。


「マリアさん、そちらの方は?」


 マリアは、髪の毛をかきあげて、視線を外しながら言った。


「こちらは宇宙パイロットのミカ・ウラカンさん。現在はオー・プロジェクトのシステムエンジニアとしても協力してもらっているの」


「そうでしたか、いやー、とてもお綺麗な方で」


 ショーンは、目を細めながら、隠そうとしても収まりきらない薄ら笑いを口元に寄せていた。そのときのショーンの目は、マリアの胸を見るときとほぼ同じだった。


 ミカは少し照れくさそうにしていた。やっと自分を丁重に扱ってくれそうな人間に出会ってほっとしたようだった。


「マリアさん、昨日の電話では、いつもどおり二人でお見えになると聞いておりましたが」


「ええ、そうよ。彼女は関係ないの」


 マリアの態度に腹を立てていたミカだったが、マリアの言っていることを素直に認めた。


「ショーンさん、でしたね? 初めましてミカ・ウラカンです。ミカとよんで下さ

い。突然お邪魔してすみません。私が勝手にマリアさんたちの後を追いかけてきただけなのです。彼らに付いてきたのは、なんというか、二人がよく来ているというこの施設のことを知りたくて。つまり、この施設には、プロジェクトに関する私の知らない何か重大な事実があるのではないかと、そう思ったのです。こんなことをいきなり言われてもご理解されないでしょうけれど、私にとって、今回のプロジェクトを成功させることは、何よりも優先すべきことなのです」


 ミカの言葉を聞いたジョーは、これまでのミカの行動を重ね合わせて考えてみた。突然裸になったことは別として、これまでのミカの言動にはどこか一貫性があった。そう、それは何か、強い意志や使命感といった言葉に置き換えられる神聖なエネルギー、彼女はそういうものを持っていた。


「ミカさん、仕事にかけるあなたのその熱意、まだお会いしたばかりですが、相当なものだと分かりますよ。ええ、分かりますとも。あなたのその大きくそして美しく輝く瞳を見ればね。ただ、特別な許可を受けた者でなければ、この施設に立ち入ることはできないのです。あなたが許可をもらっていないということであれば、ここを通す訳にはいきません。どうかご理解ください」


 ショーンは、途中何度もマリアの方をちらりとみるような仕草をしていた。マリアにはその意図が分かっていたのだが敢えて無視していた。


 ミカはショーンの言葉を真摯に受け止めていた。無理矢理取り入ろうとも、また反駁もせず、ただ静かにショーンを見つめていた。


「さあ、行くわよ、ジョー。それじゃ、ミカさんはここで」


 ミカに別れを告げようとするマリアに対して、ショーンの瞳孔が大きく開いた。それは、明朗な紳士を装うショーンの下心に火が灯った瞬間だった。


「マリアさん、ミカさんと少し話をしてもよろしいですかな? こんなにまじめで仕事熱心な方をこのまま帰してしまうのは、さすがに心が痛むのです」


「話って、何を話すおつもりですの?」


「いやなに老婆心って奴ですよ。どうすればこの施設に入れるのか、そのつまりですね。具体的にどういう手順を踏めばよいのか、ミカさんはたぶんよくご存じないのではないかと」


 ジョーは、マリアに連れられて初めてここに来たときのことを思い出していた。


 そのときのショーンは、事前に知らせれていないからといって、すでに正式な手続きが済んでいるにもかかわらず、マリアが何を言ってもなかなか聞き入れようとず、しかも恩着せがましくマリアにクドクドとお説教を始めたのである。


 結局、ジョーが中に入ることができたのは到着してから二時間も経過してからのことであった。


(それにしても、美人っていうのは、ほんとに得だよなー。こういうスケベジジイなんか、もう軽ーくイチコロだよ。あっ、スケベジジイって言い方は失礼か。何でも決め付けちゃいけないよな。ようし、ここはショーンを試してやれ)


「そうですね。ミカさんがよければ、彼から話を聞くといいわ」


 そう言ってマリアがジョーの左腕を掴んで入り口に向かおうとしたとき、ジョーが言った。


「いいんじゃないかな? ミカを一緒に連れていっても。もしバレたら責任は全部俺が取るからさ」


「は? 何を言い出すのよジョー、この施設のことは分かっているでしょ? 何のために厳しい規則があると思っているの? 部外者は絶対に入れてはだめよ!」


「ミカは部外者じゃないよ。いや、それどころか計画の中核をなす人物だと思う。それぐらい、君ならもう分かっているだろ? マリア」


 マリアはジョーのいつになく真剣な目に動きを止めた。


「彼女の熱心さははっきり言って異常だよ。これは俺の勘だけど、おそらくミカは、オー・プロジェクトの成否を決める鍵を握っている。彼女の協力を必要とするなら、俺たちも、彼女が望む情報をできる限り提供すべきなんじゃないかな?」


 このときのジョーの言葉にはなぜか説得力があった。マリアは少し考えてから言った


「……あなたの言う通りかもね。でも、バレたら本当に後できっと大問題になるわ。第一、ここにいるショーンさんがそんなこと絶対に許すわけはないもの」


 話を聞いていたショーンは、ここぞとばかり身を乗り出してきた。


「ジョーさん、そしてマリアさん、こんな末端にいる私だってプロジェクトの重要性については十分に認識しているつもりですよ(ほんとはよくわからんけど)。それにももうあまり時間が無いことも。私だってだてに五十年以上も人生を生きちゃいない。時と場合によっては柔軟な判断をすることもあるのです。お分かりですね?」


「え? それじゃあ……」


 ミカの声が清澄さを増して響いた。


「ここはひとつ、プロジェクトの成就のために目をつむりましょう。いやなにマリアさん、心配には及びませんよ。中にいる職員だって私が通したと言えばなにも言えんのですから。え? お礼? いやいやミカさん、とんでもない、そんなもの要求するような男に見えますかな? 私はただみなさんのお役に立ちたい、その一心ですよ。まあ是非にということなら断る理由もないわけですがね。まあそうですね、今度休みが取れたときに食事でもおごってもらえればそれで十分ですよ」


 ジョーは、苦笑いをしながらショーンの話を聞いていた。


(よくしゃべるおっさんだなー。『責任は全部俺がとる』っていうその一言で完全に調子に乗ってる。仕事に対する責任感、忠誠心、誇り、そういうものを全部をすけべ心に売っちゃったよ。いや、そもそも初めからそんなもの持っていなかったかもしれないけど)


「でもミカは忙しいからなー。よっしゃ! ショーン、代わりにおれがおごってやるよ! 何が食べたい?」


「え? いやいや、そんなジョーさん、ジョーさんこそ、このプロジェクトのまさに中心人物じゃないですか。私と食事だなんてそんな時間がもったいない。ジョーさんはプロジェクトのことにだけ専念して下さい。そうでなければ私の好意が無駄になるというものですよ(いきなり何を言い出すんだこのバカが、お前は関係ないんじゃ! 黙っとけ、このドアホ!)」


「うーん、そうかなー」


「そうです、絶対そうです。ジョーさん」


「そうよジョー、ショーンさんのご厚意を無駄にしちゃいけないわ。ここはミカさんに任せておけばいいのよ。ねえ、ミカさん?」


 ミカは少し引きつった笑顔を見せながら曖昧な返事をしようとした。が、その瞬間、マリアがすばやくミカの言葉を遮った。


「ねえショーンさん、ミカさんと一緒に食事をするのは、あくまでもこのプロジェクトの関係者としてその親交を深めるため。そういうことですわね?」


「もちろんですとも、それ以外に何があります?」


「そういうことよ、ミカさん」


 マリアはショーンに気付かれないようにミカにウィンクした。


 そのウィンクの意味にミカも気づいたらしく、少しむすっとした顔を一瞬みせると、後は得意の作り笑顔でその場を乗り切った。


 ジョーは、マリアの一連の対応を感心して見ていた。

(やっぱりマリアってすごいな。俺の意図をちゃんと理解してくれたようだ)


 話が前後するが、ジョーは、マリアとここでの用事を終えてDDUに戻るとすぐに、正式な許可なくミカを隔離施設に入れたことを全てアランに報告してしまった。


 しかしアランは、ほとんど興味を示すことなく、黙々と机のパソコンに向かっていた。


「ふん、余計なことを。まあいい。だが規則はきっちり守ってもらうぞ」


 後で分かったことだが、アランも実は、少なくともミカとマイクには、施設のことを話すつもりでいたらしい。もはや後戻りはできない、進む以外に道はない。そういう状況に二人を追いこんでおきたかったようだ。


 その後、ジョーは罰として三か月の減俸をくらった。といってもほとんどDDUの中で生活し、そして扶養する家族もいないジョーにとっては、給料が少しくらい減ったところでほとんど影響はなかった。


 一方、ショーンは悪質な規則違反ととられ、数日後にクビになってしまった。これでショーンはオー・プロジェクトとは何の関係もなくなり、ミカはショーンとの食事の約束を果たさなくて済んだ。話を元に戻そう。


 おそらく卑猥な下心にしっかりと裏打ちされているためであろう、異様に丁寧に整えられたショーンの笑顔に見送られながら、ジョー、マリア、そしてミカの三人は隔離施設の中に入っていった。


「ミカさん、分かっているとは思うけど、この病棟のことは絶対に公言しないこと。それと、これからいろいろショッキングなことが起こるけど、決して大声を出したり騒いだりしないこと」


「騒ぐですって? この私が?」


 ミカがマリアに反駁しようとしたとき、


 キー! キュッ、キョッ、キョッ!!


 突然、薄暗い廊下の奥から奇声があがるのが聞こえた。


「何? 今の?」


 驚いたミカが目を凝らすと、いくつもの動く小さな光が見えた。


「何? 何なのあれ? ねえマリア、ジョー!」


 騒ぐなと言ったのにと、少しあきれたマリアが、ミカの質問に答えずに呼びかけた。


「みんなお待たせ、また来たよー!」


 マリアの声で奥の廊下の小さな光が一気に増えた。そして、様々な奇声が次々とあがると、間隔の小さい不規則な足音がたくさん聞こえ始めた。


「一人や二人じゃない、何かがこっちに向かって来る!」


 思わずミカは身構えた。いつでも必殺の正拳を出せるように。


 キョー!!!


 突然、ミカの背後から大きな陰が現れた。しまった不意をつかれたと、ミカはとっさに回転肘に切り替えたが、その肘は空を切った。


「え?」


 ミカのすぐ横を何かが通りすぎた。


「サル? いやもっと大きい、まさかゴリラ?」


 キョ、キョ、キョ


 それは、ミカやジョーにではなくマリアの方に向かっていた。


「あらミカエル、元気だった?」


 マリアは、飛び込んできたそのなにかを力強く抱き抱えた。


 それは人間だった。髪の毛や髭、あらゆる体毛がのび放題になっているが、確かに人間だった。服を着ていなかったため、股間のぶらぶらですぐに男性だとわかった。


 そして同じような格好をした人間が、ぞくぞくとマリアの元に駆け寄ってきた。ざっとみたところ五十~六十人といったところだろうか。


「何なの、この人たち?」


 ミカは、ため息混じりにつぶやきながら、一人一人を観察していった。 服を着ている者も二、三人はいたが、ほとんどの者が全裸だった。さらによく見ると、全員が、いかにも鍛え上げられたといった均整のとれた体付きをしていた。


「こらミカエル、まだ食事の途中だろ。いつもすみません、マリアさん」


 看護師のような服装をした若い男性が走ってきた。


「いつも大変ね、ご苦労様、ミゲルさん」


「こんにちは、ミゲルさん」


「やあ、ジョー、元気かい? ん? そちらの方は?」


「こちらはミカ・ウラカンさん、プロジェクトのメンバーよ」


「そうでしたか、初めまして、サポート職員のミゲル・テッヘンです」


「ミカ・ウラカンです。ミカと呼んでください」


 ミゲルと挨拶を交わす間、マリアはミカエルと呼ばれるその毛むくじゃらな男にしきりに何か話しかけていた。そして、残りの男たちがその周りを取り囲むと、二人の様子を静かに見守っていた。


「マリアさんが来るといつもこうだね」


「ああ、ほんと、どうなってんだか」


 ミカは状況を全く飲み込めないでいた。しかし、たまたまミカの近くに座っていた一人の男の首に、何か首輪のようなものがつけられていることに気が付いた。首輪には、「ジョセフ・リットウ、一等空士」と記されていた。


「え? この人って……」


 ミカはすぐさまほかの男たちの首も調べ始めた。すると、少なくともミカが調べた男たち全員の首には、名前と所属、そして階級が記された首輪がつけられていた。


 ジョーは、首輪を凝視しながら考えこむミカを見た。


「分かるかい? ミカ、彼らの正体が」


「もしかしてこの人たちって、防衛庁の航空隊に所属する空士? いいえ、それだけじゃない。彼らの中には、私と同じ宇宙開発機構から選出された宇宙パイロットもいるわ!」


「ご名答。彼らは全員、オー・プロジェクトで犠牲になった宇宙パイロットたちさ」


「犠牲ですって!?」


「そう言っていいだろう。こんな状態にされてしまったんだから」


「ちょっと待って、それって一体どういうこと?」


「オクテットさ、オクテット化しようとした人間は、俺以外は皆こうなっちまうんだ」


 ジョーの声が寂しく響いた。


「この計画が始まった頃、オクテットフォーメーションは失敗の連続で全く上手くいかなかった。でも研究を重ねているうちに、あるときから少しずつできるようになってきたんだ」


「少しずつ?」


「宇宙パイロットを替える度に、オクテットフォーメーションを形成できる時間が少しずつ延びていった」


 ジョーの目に、寂しい怒りが込められた。


「ところが、オクテットになれるのは初めの内だけで、しばらくすると、皆正気を失ってしまうんだ。気の狂ったサルみたいに、くそ!」


 それは衝撃的な事実だった。オクテットが非情な危うさを含むものであることを、ミカはこのとき初めて知ったのである。


「知らなかった……まさかそんなことが起きていたなんて。適性が無いと判断された者はちゃんと元の仕事に復帰してるって聞かされていたから」


「それは政府の嘘だよ。誰一人復帰なんかしちゃいない。俺以外、つまり八十八人の宇宙パイロットたちは皆、世間から隔離されたままずっとこの施設に閉じ込められているのさ」


 ジョーとミカはしばらく無言のままでマリアの方を見ていた。


「マリアは何を?」


「彼女は、ああやって一人一人に話しかけているんだ。彼らの奥さんや家族の近況を報告しにね」


「え? 彼らマリアの言うことが理解できるの?」


「はっきりとしたことは分からない。でも彼らは、マリアが来るといつもああやって彼女の話を静かに聞いているんだ」


「今あそこにいるのは、宇宙パイロットたち全員?」


「いや、だいたい70人くらいだ。奥の方にいるはずだ」


 ミカはその視線を少しだけ床に傾け、数歩だがゆっくり静かに歩いた。


「ジョー、あなたも、親しかった友人たちに会いたくてここに来ているの?」


「俺? いや、ここでの俺の主な目的は、マリアのボディーガードをすることなんだ」


「ボディガード?」


 そのときちょうど、集まっていた彼らのうちの一人が、マリアの後ろから彼女の胸をまさぐっているのが見えた。


「またあいつか、ちょっと失礼」


 ジョーはすぐさま彼らをかき分けて、マリアの胸を触っている奴の後ろにいくと、その脳天におもいきり肘鉄を下した。


「グヒ!!」


 彼はが悲鳴を上げて後ろの方を向くと、ジョーは強引に彼を引き上げて立たせ、そのまま背負い投げをして床に叩きつけた。


「ギャン!!」


 その元宇宙パイロットは、背中を押さえてのたうちまわったが、しばらくするとどこか暗闇の中に姿を消してしまった。


「あいつらの中には突然発情してマリアに襲いかかろうとする奴もいるんだ」


「でもちょっとやりすぎじゃ?」


「いいんだ。恨まれるのは俺だから。それに訓練生時代はこいつらにたっぷりかわいがってもらったからな」


「かわいがられた?」


「ああ、昔はこいつらによくいじめられたもんさ」


「でも、今はこんな状態になって家族にも会えないでいるのに」


「そうだな。適性があるのは俺だけだ」


「何よそれ? もしかして自慢?」


「自慢だって?」


 ジョーは不敵に笑った。


「ああ、そうだな。俺は、ある種の優越感に浸るためにここに来てるようなもんさ、ざまあみろってな」


「ジョー、あんた最低」


「ふん、何とでも言うがいいさ。俺に言わせりゃ、上手くやったのはこいつらの方さ」


「え?」


「そうさ、貧乏くじを引かされたのはこの俺なんだ」


「どういう意味よ?」


「意味なんかない。見ての通りだよ。俺だけがなぜかまともなんだ。そしてこんな訳の分からないプロジェクトをやらされている。君にこんなことを説明してもしょうがないけど、俺はきっと、これから何かをしでかすことになる」


 ジョーの目が少し虚ろになり、その覇気が弱くなった。


「いるだろ? 歴史を変えるようなことをしたにもかかわらず、為政者の陰に隠されて表舞台にほとんど出てこない人間が。例えば、原爆投下のスイッチを実際に押した人間とかさ。俺はきっとそういう類の人間だ」


 このときのジョーは、なぜこんなことをミカに話し出すのか自分でもよく分からなかった。マリアにさえ、そうした話をしたことはなかった。


「分かるんだ、俺には。そう、俺のせいで世界はめちゃくちゃになる。でもしばらくすれば、みんな疲れ果ててまた静かになるのさ。その頃あいつらはちゃんと治って元通り。でもそのとき俺は……多分もうこの世にはいないだろう」


「ジョー、あなた……」


 怖いのね。その一言を言おうとしてミカは止めた。


 マリアは依然として元宇宙パイロットたちの中心にいて、一人一人の手を握って、ゆっくりと、分かり易い言葉で話かけていた。ときどき、胸のポケットから何かのメモを取り出してみたり、写真を取り出して見せてもいた。


「なあ、ミカ。いつか言っていたよな。マリアのおかげでオクテットができるようになったって。マリアはミッションスケジュールを俺の能力や体調に合わせてしっかりと管理してくれる。しかもこんなことをやりながらだぜ。だから確かに、オクテットができるのはそのおかげもあるだろう。でも本当の理由は、少なくとも俺の中では、マリアが管理してくれるからっていうよりも、マリアがああいう人間だからっていうことのほうが大きいような気がするんだ」


「彼女の存在そのものがあなたの支えってこと?」


「ああ、そうだな。そうかもしれない。だから思うのかもな、こいつらの誰にもマリアへの敵意は絶対に抱かせないって。敵意は人の心を傷付けるからな。マリアの心には傷を負わせない、たとえほんのわずかな傷であっても」


 ジョーの、マリアを見る真っすぐな視線。ミカが初めてみるジョーの真剣な横顔。女としての嫉妬心を覚えるような、そんな瞳。このとき、ミカがこれまでジョーにしてきたことのほとんどが、あまり意味の無いもののように思えた。


「わたしの入り込む余地なんか、初めからなかったのね」


 だがこのときミカは、落胆というよりはむしろ安堵と言った方がより正確とも言える不思議な気持ちを抱いていた。


「ところで、ミカ、君があの事故のときに話していたことは全部嘘だろ?」


「え? 何のこと?」


「君の背中の入れ墨が、昔付き合っていた男にやられたって話さ」


「嘘だなんて、そんな」


 実は、ジョーの指摘は当たっていた。中学生のころのミカは、いわゆるヤンキーで、先生や両親といった大人のいうことを全く聞かず、自由奔放な生活を送っていたのである。背中の入れ墨も、そのころ憧れていた先輩の真似をしたいがために、周りの友人から借金をして、自ら希望して彫ってもらったものであった。


「やっぱりな。たまにいるよね、嘘を簡単に見破る勘の鋭い人って。超人格はその最たるものだと思う。あのとき〈親父〉は、君が嘘をついていることが分かっていたから、少しだけ君に悪戯をしてやろうとしただけなんじゃないかな? 少なくとも悪気はなかったと思うよ」


 自分の嘘が見破られていたという点だけをとってみても、ミカが、このときのジョーの言葉にある種の説得力を感じざるを得ないのは、無理のないことだった。


「お? そろそろ終わったようだぞ」


 マリアは、最後の一人と抱擁をかわすと、急ぎ足でジョーとミカのところに戻ってきた。


「ごめんなさい。お待たせして」


「お疲れさん、マリア。さーて、ひと仕事するか」


 そう言うとジョーは、マリアと元宇宙パイロットたちの間に立った。


「さあさあ、お前たち、もういいだろ。さっさと自分たちの部屋に戻るんだ」


 ジョーがそう言うと、元宇宙パイロットたちは騒ぎだし、マリアを連れ戻そうと

近づいてきた。


 ジョーは、その元宇宙パイロットたちの一人をつかまえて一本背負いでぶん投げた。


 ドドン!


 男は、おもいきり床にたたきつけられた。


「ほら、どうしたトミー、こいつは昔おまえさんに教えてもらった技だぜ」


 ジョーがトミーと呼ぶその元宇宙パイロットは、背中を押さえて床にうずくまった。


 それを見た他の元宇宙パイロットたちが、次々とジョーに襲いかかってきた。これに対してジョーは、一人一人の名前を叫びながら全力で彼らを叩きのめしていた。なにせ人数が多いので、一発で確実に急所を射抜かなければ、つまり一回でも打ち損じれば、ジョーの身が危険にさらされることは明らかだった。


 ジョーが繰り出す拳や蹴りは的確だった。要するにそれは、ジョーには相手の動きがよく見えているということを意味する。あたかもジョーが彼らと普段一緒にいて、その性格や行動パターン、さらには癖なども熟知しているかのように。


 だがそもそもジョーには、彼らと戦う理由などなかった。マリアの用事が済んだら、職員に手伝ってもらうなどして隙をみてマリアと一緒に逃げだせばいいだけの話だ。


 だがジョーは、襲いかかってくる彼らから決して逃げることなく、いつも必ずその拳を交えてきたのである。


 実はジョー自身もなぜ自分がこんなことをするのか初めは分からなかった。だがそうしているうちに、彼らとの間に、表面的なものではない、何かもっと確実なつながりを感じるようになってきていた。確実にヒットさせることで、彼らがまだ人間であること、つまり、ジョーがよく知る友人たちであることを証明したかったのかもしれない。


「どうした? もう終わりか? もっとこいよ! カモーン!」


 最後の一人が雄叫びをあげながら突進してくると、ジョーもそれを迎えうつようにダッシュし、すれ違いざまに右腕で強烈なラリアットを食らわせた。


「ぎゃん!」


 その元宇宙パイロットは空中で一回転して、そのままものすごい勢いで床に落ちた。


「フィニッシュ! 悪のエテ公軍団、ここに殲滅!」


 最後の一人が倒れると、襲いかかってきた元宇宙パイロットたちはみな、我先にと暗闇の中に姿を消していった。


「よし! これで今日のお勤めは無事終了っと」


「ジョー、すごいわ、実にみごとな立ち回りね!」


「そうかい? ミカ、君にそう言われるとお世辞でも嬉しいね」


「お世辞なんかじゃないわよ。あら? そういえばマリアは」


「ああ、たぶんキャプテンの所だ」


「キャプテン?」


「そう、名将エドワード・シン空士長だ」


「その名前なら知っているわ。防衛庁航空隊から選りすぐった超エリート空士たちによって構成された〈チームウインド〉のキャプテンだった人ね」


「そのとおり。ちなみに俺ものそのチームの一員だったんだぜ」


「えっ、うそ!? だって、あなたは元々宇宙パイロットだったはずじゃない?」


「うそじゃない、本当さ。意外だろ?」


「ええ。あ、ごめんなさい。でもあなたがそんなに優秀なパイロットだったなんて知らなかったわ」


「優秀じゃないよ」


「え?」


「彼らの中では、パイロットとして秀でた所は俺には何もなかった。ただ彼らの訓練についていくことができたというだけ。だけど、俺が居る方がチームがまとまるんだって、キャプテンにそう言われていた」


 ジョーは懐かしさに浸るように静かな笑顔を見せた。


「〈チームウインド〉のメンバーってさ、みんな優秀なんだけど、自尊心の強い個性的な奴ばっかで、絶対に自分を曲げないんだ。ほんと、大人げない子供よ、子供。チーム内で何か問題が起こると、何でか知らないけど全部俺のところに来るわけ。そんで俺が中に入っていろいろ調整してさ、例えば、自分の本意じゃないけど、ジョーがそう言うから仕方がない、みたいな雰囲気にもっていくのよ。ようするに俺は、蕎麦でいうところの小麦粉、いわゆる”つなぎ”みたいなもんだったのさ」


「ふーん、つなぎねえ」


「ま、四番バッターだけそろえても野球はできないってこと」


「エドワード空士長もああいう状態に変わってしまったの?」


「いや、キャプテンは違う。あの人は狂った猿みたいにはなっていない」


「なってない? じゃあどうなったの?」


「動かずにただじっと椅子に座っている」


「座っている?」


「そう、まるで目を開けたまま寝ているみたいに。とにかくずっと椅子に座ったままなんだ」


 ジョーは少し早歩きして、ミカの前に周り込んだ。


「ここだけの話、実は俺、マリアがこの施設に行きたがるのはキャプテンに会いたいからだと思っていたんだ。彼は超イケメンで、しかもキャプテンだろ? 当時の女性職員の憧れの的だったからな」


「男の嫉妬はみっともないわよ」


「ふん、いいだろ別に。だからマリアとここに来るのは嫌だったんだ。昨日まではね」


 ジョーとミカがエドワード空士長のいる部屋に向かうと、その入り口の前でマリアが仁王立ちして待っていた。


「あれ、マリア? どうした? 中に入んないの?」


「ジョー、あなたね? 彼の顔にあんな落書きをしたのは」


「え?」


 マリアがドアを開けて、三人で部屋の中に入った。部屋の一番奥には、開閉できない小さな窓があり、その近くで、長い背もたれのある少し大きめの椅子にエドワード空士長が座っていた。


 ジョーは歩きながら、この前マリアと一緒にそこに来たときのことを思い出していた。


(俺、何かしたっけ? ええっと、マリアがいつものようにキャプテンに話かけて、その後、あっ、そうだ俺も二人きりで彼に話したいことがあるからって、マリアを部屋から出して、そしたらなんか急にむかついてきて……あっ、そういえば)


 ジョーは、エドワード空士長の顔にペンでいたずらをしたことを思い出した。


「ごめん、マリア、悪気はなかったんだよ。俺、マリアがキャプテンのことを好きなんだと思っていてさ、それでなんかむしゃくしゃして、ちょっとした悪ふざけだよ」


「何それ? とにかくこれで拭き取ってちゃんときれいにしてちょうだい!」


「はいはい」


 ジョーはそう言って、エドワード空士長の前に立った。


「あれっ? これ、前にどこかで見たような……」


 その模様は、中央にある“アホ”という文字と、その文字の周りに配置される女性の性器を模式化した大小四つのマークを備えていた。


 ジョーがその模様の所在を思い出そうとしたその瞬間、彼の下顎に閃光のごとく衝撃が走り、脳が頭蓋骨に相対して揺れた。


 意識が遠のいてゆく中、「やっぱりテメエの仕業じゃねえか!!」というミカの怒声が静かにフェードアウトしていった。

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