7.『ブンブンの刑』

 その後一般公開が終わる22時までの間、伊勢崎の指導のもと翌日使用するカメラとPCの接続、各種アダプター類の準備を済ませた5人は天文台から車で5分の宿へと戻った。


 シルバー人材センターから委託されているという好々爺の管理人とは、鍵の管理を徹底するという事で夜間の外出も話が付いている。


 ほとんどの利用者が星空との出会いを求めてくる場所柄、そのような依頼も多いのだそうだ。


「お風呂に入りたいものは、中浴室を使ってくれ。男湯女湯共に湯は張っていないがシャワーは一晩中使えるそうだ。お湯に浸かりたければ、明日の朝希望すれば張ってくれるそうだ。連泊だし、今週末は他に利用者も居ないみたいだから色々融通を効かせてくれるみたいだな」


「わかりました。ーー瀬川先輩、夜の間車の鍵を借りていても良いですか?」


「おっ、この天気でもやる気だな。ーーほら、管理には気をつけるように」


「明日以降が本番だから、私は今夜はしっかり寝る事にしますね。じゃあ、シャワー行ってきます〜」


「よし日高、じゃあ俺らはロケハン行こうぜ!」


「りょーかい」


 日高と北山は連れ立って、正面玄関ーー小学校だった頃はきっと昇降口だったであろうーーを出ると、今では片隅を駐車場として使用している元グラウンドに向けて歩き出す。


「空の広さは申し分ないな」


 グランドの中央に向けて歩きながら、日高がつぶやく。廃校となって久しい筈だが、よく手入れされているのだろう、草が生茂る事も無くすぐにでも使えそうな状態である。


「真っ黒ドン曇だけどなー」


 ザクザクと真砂土を蹴りながら、横を歩く北山が言う。


 木立の木々の向こうには、小規模ながらも商店や普通の住宅街があった筈だ。

 しかし視界には幾つかの控え目な灯が目に入るばかりで、道路に走る車もなく辺りは真の闇に包まれている。


 すぐとなりを歩く北山の姿もボンヤリとしか認識できないほどである。


 中央付近に近づくと、数段のステップが付いた2m四方ほどの台が見えてきた。


「これは朝礼台か!懐かしいな〜」

 登ってぐるりと一周見渡しながら北山が言う。


「よし、ここをキャンプ地と〜するぅ〜!」

「わかった、わかった。でも、これじゃなー。とりあえずSCW見よう」


 日高が懐から携帯を取り出すと、画面の眩しさに目を細める。慌ててダークモードを設定すると、幾分マシになった。



 SCWはスーパーコンピュータを用いて計算される数値予報の情報を、生っぽく配信する気象予報サイトだ。降雨の予想は勿論、通常の天気予報では中々知る事が難しい雲の局地的な発生確率をマップで表示する事ができる。


 曇り即ち敗戦、の星屋にとっては天気チェックの定番サイトだが、得られる情報が多い分その読み取りには慣れも必要だった。


「どうよ?晴れそう?」


「うーん、ここから1時間ぐらいが少し雲が薄まりそうなんだけどなー…。多分快晴まではいかないと思うよ…」


「そうか、そもそも月が出てる筈なのに気配もわからないもんなー。雲が結構厚いんだな…」


「もうちょっと粘ってみて、ダメなら撤収するか」

「そうしよう、じゃあ30分な」

 そう言いながら、日高がスマホでタイマーをセットする。


 2人は並んで朝礼台のステップに腰掛けると無言で闇を睨み始めた。



「なぁなぁ、たけちゃん」


「なんだー?」


「たけちゃん、沙織の事好きか?」


「ーー藪から棒になんだよ…。何で急にそんな事を聞く?」


「いや、曇ったらこういう話するのが定番みたいなのあるやん…?」


「そういえば、今まであんまり曇られた事無かったもんな…。ーー別にいいけど、何で沙織なんだよ?」


「おまえら見てるとムズムズすんだよ。ぶっちゃけ好きだろ? ほれ、吐いて楽になれよ?」


「自白強要だぞ、いやいや別にそんなんは無いでしょ。沙織は仲は良いけど… あいつは俺達の事、そういうーー異性的な目では見てないんじゃないか? 逆に距離が近すぎるっていうか…」


「俺もつい最近までそう思ってたんだけどさ、何か違和感があるんだよな、最近の沙織」


「ーー違和感?」


「おう、妙に日高との距離が近いというか…。今日だって車の中で…ほら、天文台が見えた時さ、いくら仲が良いって言ったってあんなに平気で身体寄せるか?」


「だーかーらー、男女の意識が無いから逆に気にして無いんだろ?」


「でも日高は気になるんだろ?」


「うっ、そ、そりゃ気になるっていうか、不用意に当たったりして沙織が不快に思わないか心配になるっていうか…」


「気になるんだな」


「ーーまぁ、そうだよ!! …女性と付き合った事もないし、そういうのに免疫無いんだって…。ーー向こうは意識していなくても俺は煩悩を捨てる事が出来ない最悪の男だ…」


「お、おいそこまでは言ってないだろうが…。そりゃ当然だ、相手が意識してようがしてまいがあそこまでぐいぐい来られたらチェリーなら平常心は保てないだろう」


「北山…おまえ……まさか…」

 暗闇の中で、日高が声色だけで絶望感を伝えてくる。


「安心しろ、俺もチェリーだ!!」


「なんだよ!!」


「だが、彼女が居たことはあるぞ!」


「マジかよ!」


「まぁな〜。高3の時に半年くらい付き合ってたが、受験で忙しくなって別れちまった」


「ぐぬぬ… 北山に男女交際の経験があったとは… でも、大学では彼女居ないよな?」


「今はフリーだな。別に気になる人も近くに居ないし…」


「何か案外ドライなんだな… 交際する様な奴は常に獲物を追い求めてるもんだと思ってた」


「たけちゃん… いったい男女交際を何だと思ってるんだ…。 もっと力抜いて考えろよ。で、沙織の事は好きなのか?」


「ーーわかんないよ。他に近くに異性居ないし、免疫ないし、だから過剰に気になる時があるだけなのかもしれない」


「そうか… ただ、やっぱり最近の沙織はちょっと何か前とは違う気がするなぁ…」


「交際経験者様の勘か?」


「ひがむなって。近くで見てる第三者だからこそ気になる事もあるんだよ」


「でも俺は沙織とそういう、、ーー探り合いをする気は無いからな。何か拗れて気まずくなったら嫌だし」


「それは、まぁそうだけどさ…でも、」


 北山が続けて言いかけた途端、何かに反応して身体が固まる。日高も続いてそれに気づくと、フードを勢いよくめくって正面の闇に目を凝らした。


「聞こえたか?」

「聞こえた。正面少し右か?」

「何かの足音っぽかったよな?」

「あぁ、そんな気がした…」

「ライト付けるか?」

「たのむ」


 北山はコートのポケットから素早くヘッドライトを取り出すと、スイッチを押し込んで前方に眩いLEDの白色光を投じた。


 同時に、日高が息を飲む音が横から聞こえる。


 2人の先15m程に立派な角を生やした牡鹿が1頭、身動ぎもせず佇んでいた。


「…シカでしたー」

「いいんだよ、こんな時まで…ネタ引っ張らなくて…。あーびっくりした、、ーー襲ってこないよな?」


 光を浴びた鹿はじっとこちらを見たまま固まったままだ。


「眩しいだろう、赤に変えてやろう」


 そう言って北山が赤色に光を切り替える。

 多少、目の眩みも治まってきたのか、赤い光の中で再び牡鹿は歩み始めた。


「うーん、俺達に近づこうとしてるのか?」

 日高が不安そうに腰を浮かせている。


「何か、ずっとこっち見てるよな?」

 北山もいぶかしげである。


「もしかして、ここに来たいのか?」

「朝礼台に?」

「俺達が居て近づけないのかも」

「ふむ」


 日高の発案で、2人は一度朝礼台から離れてみる事にした。


 するとどうだろう、2人が離れるや否や牡鹿は真っ直ぐに朝礼台に歩み寄っていく。

 そして北山の照らす赤い光の中でゆっくりと頭を垂れると、朝礼台の脚を舐め始めた。


「何やってんだ?」

「さぁ… 縄張りなのかも… ん?」

 不意に北山が、ライトを奥へと振る。

 グランドの奥から、対になった幾つもの光る点が紅く反射してくる。


「おぃ、奥から沢山くるぞ…」


 みるみる間に一群のシカが牡鹿を囲う様に集結すると、皆一様に朝礼台の脚を舐め始めた。


「あぁ! 鉄分を摂ってるんじゃないのか?」

 不意に日高が声を上げる。


「鉄道のレールを舐めに来るのが、よく鹿が事故に遭う原因だったってニュースをどこかで見たんだ。ここの鹿たちにとって、あの朝礼台が貴重な鉄分なのかも…」


「なるほどねー… しかし、あんだけ群れてるとちょいおっかねーな」


「まぁ、朝礼台より校舎側に居れば大丈夫だろう。他には用事無さそうだし…。明日以降はそうしよう」


「じゃあ、今日は引き上げるか。もうそろそろ30分だろ?」


「あぁ、今25分になるところ。撤収しよう」


 2人は鹿の家族に背を向けると、校舎へと歩き出した。



 部屋に戻ると常夜灯に照らされて4つの敷布団が並んでいるのが見えた。入り口から遠い方の2つが膨らんでいて、大西と瀬川が収まっている様だ。仕切りのふすまは締め切られ、奥では沙織が寝ているのだろう。


(ひーだかー、風呂はどうする?)

(そんなに冷えてないし、明日朝風呂をリクエストしようかな?)

(のった!じゃ、俺もそうしよう)


 できるだけ音を立てない様に防寒着を脱ぐと、日高は一番入り口に近い布団へと潜り込んだ。

 敷布団、掛け布団にはピッチリとシーツが張られ、枕カバーも左右が折り込まれてシワひとつない。

(たぶん瀬川先輩の仕事だな…、明日起きたらお礼言わなきゃな…)

 布団に包まれた日高の意識は、急速に沈んでいった。



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


 不意にポケットが震えた気がして日高の意識は浅瀬に浮上した。直感的に、寝入って何時間か経っている事を察する。今は深夜か。


 フリースのズボンの右ポケットにはスマートフォンが入れっぱなしになっていた筈だ。


(幻想振動症候群だろう…)


 ぼんやりとした思考の中で一度は気のせいだろうと決めつけようとした日高だったが、どうにも気になり始めてしまい、結局ポケットからスマホを引っぱり出すと布団にすっぽり潜って画面を確認した。


 時刻は2時14分。

 待ち受け画面の最上段に届いたばかりのメッセージ通知がハイライトされている。



《ねぇ、まだ起きてる? 月が綺麗よ。》



 沙織だ。

 日高の心臓が跳ね上がり、意識が一気に覚醒する。


 指を指紋センサーに置いてロックを解除すると、返事を打ち込んで送信する。


《起きてるよ。外にいるのか?》

 すぐに既読が付いて、返信が来た。



《部屋の窓から見えるの》


 ひと呼吸おいて、もう1通






《こっちに来て、一緒に観ない?》





 日高が忍者の如く物音を立てない様に襖を引くと、部屋には浅く白い月光が差していた。畳の室内の真ん中には布団が敷かれ、その掛け布団が斜めにめくれ折れて住人の不在を告げている。


 細く開けた隙間に身体を通して、そっと襖を閉める。去り際に覗き見た男子部屋は、皆深く寝入っている様だった。


 振り返ると沙織は広縁に置かれた背の低い椅子に深々と腰掛け、ひらひらと片手で手招きしている。


 日高は布団を踏まない様に回り込むと、縁側の敷居を跨ぎ、小さな円卓を挟んで置かれた2つ目の籐の回転椅子に無言で腰を下ろした。


 沙織が無言で腕を伸ばすと、縁側と部屋を仕切るガラス戸を静かに滑らせーー締め切った。


「2枚扉を挟めば、まぁよっぽど向こうには聴こえないでしょう」

 控えめな声量で沙織が日高に笑いかける。


 白く透き通った月光の中で、沙織の短い髪が艶やかな陰影をまとって揺れる。

 モノクロの世界の中で、沙織の髪だけが微かな栗色を発している気がして、日高はしばし返事も忘れてそれに見惚れていた。


「ーーーーそうだな… さおりは、ずっと、起きてたのか?」


「ううん。さっき目が覚めたのよ。そしたら、嘘みたいに晴れて月が見えたからびっくりして起き出してきたの」


そう言いながら、沙織は窓の外を見つめる。


 格子窓の向こうに、地平線の杉並木へと傾いていく月が浮いている。近くに光るのは、アルデバランだろうか。


「綺麗ね。普段と同じ月なのに、何だか特別に見えるわ」


「…旅先で見慣れてない土地だから新鮮に感じるんだろう。この縁側も、素晴らしい舞台装置の一部ってわけだ」


「ひーだかー、解説されると何だかつまらなくなった気がするんですけどー」


「それはすまなかったな」


 しばしの間、2人は無言で窓越しの宇宙を眺め続ける。


「ずーっと曇りだったのかしら?北山君との観測はどうだったの?」


「あー、ずっと曇ってたな。結局恋バナ?みたいなので終わったわ」


「こ、い、ば、な、?? ーー日高からそんな言葉を聞く日が来るとは思わなかったわ」


 沙織の眼が薄暗がりの中で妖しく輝いた。

 日高は口を滑らせたことを後悔すると同時に、先ほど目にした鹿達の人畜無害を主張する透き通った眼の輝きを酷く懐かしく感じた。


「恋バナって言ったって、俺と北山だぞ。そもそも話すべき話題が無かったよ」


「あらそうなの? でも、北山君は高校生時代に彼女居たんでしょ?」


「沙織知ってたのか…」


「みんな知ってると思うけど…。地惑の新歓の時に大内先輩に捕まって洗いざらい吐かされてたのを横で聞いてたのよ」


「そうだったのか。俺は昨日初めて知ったぞ」


「日高は新歓の時、隅の方で大人しくしてたもんね。ーーーー日高は、彼女居たこと無いの?」


「無いよ。今も居ない。いる様に見えるか?」


 日高がじとーっとした目線で沙織を見ると、沙織は逃げる様に視線を月へと移した。


「まぁ別に良いじゃない。過去や今は重要じゃないのよ。未来が大事なの」


 再び、沈黙が2人を支配する。




「なぁ、沙織は男女間の友情って成立すると思うか?」


 ふいに日高が訪ねた。


「ーーさぁ?一般論として、友人としての信頼関係と異性に対しての信頼関係というのは根本的に違うと思うけど…実際の所は人に寄るんじゃないかしら」


「ーーそうか」


「でも…」


「でも?」


「私は友人から始まる恋も悪くないとは思うわ。相手の事がよく分かってるじゃない?」



日高は一瞬固まり少し間を開けて返答した。

「なるほど、リスクが低いと」



「…嫌な言い方するわね。まぁ、そう言っても構わないわよ。でも、最終的にお互いの為になる話よ」



「ーー確かにそうかもしれない。俺も…相手を良く知ってから誰かを好きになるというのも、アリかもしれないと思う。ーー俺は交際経験も無いし、臆病だからな、異性に振り回されて酷い目には遭いたくない」


 沙織が目を丸くして日高の方を見る。


「日高はそんな事考えてたのね」


「誰ともこんな話しないし…」


「親しい仲でも、知らない事っていっぱいあるのねー」


「まぁ、そうだな」


「ありがとう日高。…勉強になったわ」


 そう呟く沙織の視線の先では、既に木立の中に月が沈んでいた。



 月明かりの消えた室内には影が刺し、もはや沙織の表情をうかがい知る事は出来なかった。


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