8.『疑惑』

 翌朝日高が目を覚ますと襖は開け放たれ、部屋には快晴を思わせる太陽の気配が入り込んでいた。


 男子部屋は、瀬川だけが既に起きている様だ。シーツを剥がし、三つ折りに角を揃えて畳まれた寝具が鎮座している。

 光を避ける様に頭からすっぽりと掛け布団に包まったまま寝入っているのは大西会長だろう。対照的に北山は手足を大きく伸ばし、朝の明るさもなんのそのと爆睡している。


 覚醒するまでの数十秒なんとなしにその様を眺めた日高は、シャッキリ立ち上がると懐かしの水道で洗面を済ませ、その足で調理室へと向かった。


「おはようございますー」


 ドアを開けると、ふわっと出汁の匂いが漂った。見ると、沙織が鍋に味噌を溶いている所だった。


「あ、日高。おはよー」

「おはよう。すまんな、起きれなくて…」

「良いのよ。晩ごはんは期待してるわよー」


「日高君、おはよう」

 後ろから声がかかる。


 振り返ると、ジャージにデニムのエプロンを身につけた瀬川がボールに卵を解いていた。


 コンロには、四角いフライパンが載り今まさに余熱の真っ最中だ。


「おはようございます… 瀬川先輩、料理できるんですか?」


「まぁ自分が食うには困らん程度にな。

 日高君、このご時世に料理の一つもできない様な人間に貰い手はないぞ」


「そ、そうですか… 先輩は、それで料理を?」


「そうだ。秀でた魅力が無いのだから、欠点を潰して無難な選択肢となるのが順当な道だろう? なぁ、望月さんもそう思わないか?」


「ま、まぁ… 絶対そうだとは言いませんが、確かに魅力的な人でも、全く家事とか出来なかったらちょっと辛いかもですね…。やっぱり、今は結婚しても働きたい女性多いでしょうから」


「そうだろう。俺たちの努力が次の時代のスタンダードを作るんだ」


 そう言って瀬川は卵液をフライパンに流し込む。菜箸を手に取ると、慣れた手つきで出汁巻き卵を焼き上げていく。


「が、がんばります」


 日高は口先だけで返事をすると、とりあえず自分でもやれそうな事ーー割り箸を袋から出して席に並べる事にした。


「ひだかー、並べ終わったら皆起こしてきてよー」


 炊飯器の中を混ぜている沙織から声がかかる。


「り、りょーかい!」


 せっかくのご飯が冷めると沙織の機嫌がどうなるか、大いに不安を覚えた日高は明らかに寝起きの悪そうな2人を叩き起こすべく、駆け足で部屋へと戻った。






 朝食を取り終えた5人は管理人に頼んで風呂を張ってもらうと朝風呂を満喫し、それが済むと観光と買出しを兼ねて車で30分ほどの所にある物産館へと出かける事にした。


 ログハウス風の建物には大方これも地元の木材で作られたであろう陳列机が列を成し、その上に所狭しと野菜や惣菜パンや調味料が並べられている。


「わー、結構品揃えありそうねー。

 あっ、トマト美味しそう!しかも安い!」


 沙織が目を輝かせて通路を闊歩する。

 日高と北山は籠持ち要員だ。


「沙織、今夜は何にするんだよ?」

「カレーね。これだけふんだんに夏野菜があれば、美味しいカレーになるわね!」


「カレーか、それならまぁ俺たちでも何とか作れそうだな」

「沙織、失敗しないようにちゃんと見ててくれよ?」



「安心しなさい、当然やるわよ。私も食べるんだから」


 今度はナスを手に取りながら沙織が言う。

 随分と機嫌が良さそうだ。


「楽しそうだな沙織。やっぱり野菜の質が違うのか?」


「あら、日高にもわかる? そうなのよー、みずみずしくて本当に美味しそうな野菜達ね。この茄子もツヤツヤで美味しそう…。こんなお店が近所にあったら嬉しいわ」


「そ、そうなのか…、いや、野菜の違いはよくわからないけど、いつもは唸りながら野菜選んでるから、今日は様子が違うなーと思って…」


「ーーあら、案外私のことよく見てるのね」


「そ、そういう訳じゃないけどー」



 引き続きご機嫌で売り場を回る沙織と、府に落ちない表情で後をついていく日高。




 そんな2人の様子を、いつの間にか離脱していた北山、大西、瀬川が会計レジの横から探偵の様に覗き込んでいる。


「ーー別に変わった様子は無いな」

「そのようだなー」

「やっぱり何もなかったのでは?」

「大西、本当に見たのか?寝ぼけてたんじゃ無いのか?」


「私がトイレに起きた時に、日高君が布団に居なかったのは間違い無いぞ。2時半前だったな。布団はまだ暖かかった」


「えっ、布団を確認したんですか… 」

「大西… おまえ…」


「それで遠くには行っていないと思ったんだが、トイレでは無いようだったからな。まさかと思って襖の隙間から覗いたら、日高君とさおりちゃんが窓際の椅子に座っているのが見えたのだ」


「会長が覗くなよ…。それはそれでアウトだろ… 、サークルのコンプライアンスとかも考えてくれ」


「そうとは言うが瀬川よ、深夜に日高君の所在がわからないのも心配だし、さおりちゃんと一緒にいるとなれば、もっと心配じゃないか! それこそコンプライアンス的に!私は会長として健全なサークル活動をだな!!」


「でも、何も無かったんですよね?」


「ガラス戸を閉めていた様だから、声は聞こえなかったけど、あれは話をしていただけだろう。すぐ私は自分の布団に戻ってしまったから、後のことはわからないがな」


「ま、まぁ、何事も無いのが一番ではあるな。プライベートな旅行ではないのだし…大学から助成も受けているからな…。しかし何事も無いなら俺たちが首を突っ込まなくても…」

 瀬川は珍しく歯切れが悪い。


「まぁ、ただの野次馬ですよね、これ」

「いや、不健全な兆候があってはいかんからな」


 自分達の行動に今更ながら後ろめたさを感じながら、引き続き日高と沙織の様子を伺い続ける北山と大西。


 何にしても程々にしてくれよ、瀬川は出かけた言葉を飲み込むと小さく溜息を吐いた。




〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜




「んんーーー!!!おいひぃ〜〜!!」


 プラスチックのスプーンを加えたまま沙織が驚きを表現する。


 日高と北山は言葉もなく二口、三口と食べ進めている。無言ではあるが、かじりつくように皿に向かう姿を見れば味への評価は明らかだ。


 瀬川は沙織のお行儀に若干眉を潜めると、それ以降は表情も変えず黙々とスプーンを動かしている。



「大西先輩の特製カレールーすんごい美味しいじゃないですか!!これ、売ってください!」


「え?さおりちゃんになら譲ってあげようじゃないか。何なら私が作りに行こうか?」


「いいえ、ルーだけで結構ですから…」


「おかわり!!」

「おかわり!!!」


「自分でやりなさーい。私はお母さんじゃないのよ?」


 日高が勢いよく椅子を蹴って炊飯器へと向かう。北山が大慌てでその後を追いかける。


「1週間絶食した人みたいだわ。すごい食べっぷりね…」


「日高君、北山君、この後観測だぞ。満腹過ぎて動けないとかは勘弁してくれよ」


 瀬川が釘を刺すと、2人が若干スプーンを動かすペースを落とした。2皿目のカレーを味わって済ませる方針へとシフトしたらしい。



「しかし、いよいよですなぁー。私ドキドキしてきたぞ」


「天気も今のところ申し分ないですし。期待しましょう!」



「我々の最終目標はあの掩蔽観測の謎を解く事だ。今夜のライトカーブ観測はその前哨戦に過ぎない。ただ、今夜何らかのデータが得られれば、それは今後の研究計画を決める大きな鍵になるだろう」


 いつの間にか食事を終えていた妙に重々しく言い切ると、にわかに食堂に緊張感が漂った。


「有効なヒントが得られるとい良いな。そうなれば、俺たちも支援したかいがあったというものだ」


 そう言って食器を持ち席を立った瀬川が、探るようにガラス越しの空を見つめる。


 ちょうど日没を迎えた美空町の空に、きめ細やかなグラデーションが溶けていく。東の空では今日の日の最後の飾り付けとばかりにビーナスラインが淡いピンクの帯を渡し、この空に夜を迎え入れる準備を整えていた。






 同時刻、(3371) Mithere は美空天文台の座標から見て高度0°を通過し、水平線より顔を出した。もちろん、その可視等級13.5等の光は日没直後の大気の中に沈み、今はどんな望遠鏡を以ってしても捉える事ができない。


 彼らが初めてその輝きをその眼底に導き入れるまでに、まだ4時間程の時間が必要であった。


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