第6話 イクチの道を進め、見えぬ頭部

 海上に着地すると、自分のすぐ真横に今もある、イクチの背中に飛び乗った。

 そして、何度も縦波に海上に出たり沈んだりを繰り返し、遠くの方まで続いているイクチの背を駆けていく。

 背中は酷い有様だった。至る所からオイルのように真っ黒な液体が噴出し、それが全身を塗りたくっている。だから、実際にイクチの背をそのまま走ったというわけではない。

 イクチの表面に当たるすれすれのところに、拳一個分程の泡を宙に作り、それを足場に次から次へと駆けていく。こうすれば、足を滑らせることも無くイクチの先を終えるというわけだ。


「早く、早くしなくちゃ……!」


 走っていく中で、イクチの背中からはいくつもの黒い水柱が噴出した。生理的現象なのだろうか。いや、それにしては自分の回りばかりが噴出してくる。

 自分の体表面に付いている異生物を弾き飛ばそうとしているように思える、紛れもないイクチの防衛機構のようだった。


「やっ」


 次から次に、自分の行く先を妨げようとする柱を避けていく。ぎりぎりを避けていくばかりに、羽衣の裾には、時折べちゃべちゃと黒い液体が飛び散ってしまっていた。

 強い異臭だ。腐敗とはやや違うけれど、ガスのようなつんざく匂いである。その匂いを必死にこらえながら、走り続ける。

 ふと横を見れば、海上の景色が勢いよく後ろへと過ぎ去っていくのが見えた。その真っ黒な図体からしてみれば、どのぐらいの速度で走ってるのかなんて一見分からないが、海上の過ぎ去る速度を見ての通り、かなりの速さで後ろへと去っているようだった。

 もし今、イクチの図体から押しのけられてしまえば、イクチの頭はかなり遠くへと去ってしまうだろう。そんな事をしてみろ、何時食べられるかも分からない和泉ちゃんが、喰われてしまう可能性が高まる。


「そんな事させない…っ!」


 足の速度を更に速める。

 それで足並みを乱してしまったのかもしれない。 足を出した次の地点に、地面から真っ黒な水柱が噴出した。


「しまっ! っくぅぅうう!!」


 まずい、防がなくちゃ。そう思った私は、即座に足元の足場にしている小さな泡を割った。

 そして念じる。重し、軽し、辛みも忘れ浮かび上がり給う。自由になり給う。

 頭の中で念じた直後、割れた泡の場所から、まるでトラバサミと言わんばかりの勢いで巨大な泡の幕が噴出した。その膜は、あっという間に私の全身を包み、私一人を覆った巨大な泡となる。

 その直後、足元のドロドロとした水柱は私を吹き飛ばした。

 私の全身を侵食するはずだった、毒があるやもしれないドロドロとした液体は泡の表面を張っていく。だが、それと同時に、それは私を外へと弾き飛ばした。

 なんてことだ。防ぎはしたけど、想定していた最悪を貫いた!

 焦り泡の外に目を向ける。泡の表面を押し上げるドロドロとした液体の表面には、虹色の膜が流れているのが見えた。どうやら、オイルに近い性質を持っているように思われる。

 だが、今はそんな事はどうでもいい。このまま押し上げられたらまずいという事が先だ。


「くっ!」


 私は手を前にかざし、泡の表面に触れる


「重し、軽し、辛みも忘れ浮かび上がり給う。自由になり給う。停滞さえも弾き給う!」


 そう念じると、私の手の平から泡の膜を通り越し、外側に別の泡が膨らんだ。その泡は、ただ丸い形で生まれた訳ではない。。泡は弾んだボールのように、変形している。

 バヨンッ! 景気良い音がすると、水柱に押し上げられていた自分の泡が、水柱の外に押し飛ばされた。勢いから脱したのを確認すると、自分の入っていた泡を解除する。下を振り向く、イクチはこちらを弾き飛ばしたというのに勝気を誇っている様子も見られない。淡々と激しい勢いで前へ前へと進んでいっている。


「逃がすかぁあああ!!」


 またも、私は全身を上下逆さまに傾けると、足の裏に泡を生成し、それをバネに真下へ跳んだ。近づくイクチの真っ黒な胴。綺麗に着地している暇なんて無い! イクチの胴に強く抱き着いた!


「っくあっ! はぁ、はぁ…!」


 幸い。触れただけで肌がただれる様子は無かった。時間が無いから肌は捨て置く気持ちだったが、無事で良かった。羽衣がドロドロに塗れながらも、急ぎ立ち上がる。

 そして、立ち上がり、再び走る。

 またも噴き出す黒い水柱。水柱。水柱。

 ああもう、なんてこった。一度飛ばされたからだろうか。敵の先端はまだ見えない。そもそも、あいつはなんでまだ和泉ちゃんを食べないんだ? ……それとも、見えないだけでもう食べられたのか?


「……っ」


 自分の想像に嫌気が刺す。だめだ、諦めるな。

 このままじゃらちが明かない。どうすれば、こんな図体のわりに、海上を走る速度の速い奴の頭にたどり着ける?

 考えろ、考えろ!


「……っ! そうだ!!」


 私はハッとした。

 泳ぐのが圧倒的に上手いとしても、海の上を泳ぐものでも、耐えられないものが自然にはある。

 ならば、


「一か八かだ。 やってやる!!」


 そう叫ぶと、私はイクチの背中から、海中に飛び込んだ。

 ドボンと自分が飛び込んだ分の泡が海中に出来、私は沈んでいく。海面を見上げれば、とても速い勢いでイクチの胴が進んでいく。

 待っていろ、その勢いを止めてやる。そう叫ぶと、私は海中に潜る。

 数十メートル潜っただろうか。そこで再び海面を見やる。

 そうだ、このぐらいがいい。

 私はパンっと両の掌を合わせ、力強く詠唱を始める。


「重し、軽し、辛みも忘れ浮かび上がり給う。自由になり給う。溢れんばかりの浮力を持ち給う!!」


 私は両手の平を前にかざす。その瞬間、両手の平を中心に、半径十数メートルほどに光のヒビが現れた。

 そして、その光の日々の間から。限りない程の微細な泡が噴出した。


「溢れろ、泡よ。 海中に満ちよ、空気よ!!」


 泡は、それこそイクチの太さより幾倍かある大蛇のように、海上に向かって隙間なく噴き出していった。そして、その泡の先端が、イクチの腹に到達した。


「行けぇっ!!」


 私は叫んだ。

 その瞬間、海中全体が振動するかと言うほどの激しい振動が起きた。そして、低くくぐもった叫び越えと共に、


「!! やった!!」


 成功した。泳ぎの得意な者。海に浮かぶもの。人の本来届く事の無いであろう海の世界に、たくましく力を持つか、知識を誇るかして乗り出し、自在に海を進むものは数多くいる。だが、そうした者達も海の上の自然現象には抗えない事もある。

 その一つが、激流だ。海の中に潜む激流には、多くの生物が抗えず飲み込まれる。

 私は、その激流を起こす為に泡を大量に呼び込んだ。海中数十メートルの範囲で、一気にが生まれればどうなると思う? そこに水が入り込もうと、一気に激しい激流が生まれる!

 右から、左から。前から後ろから。イクチは泳ぐ場所が無くなったままに、激しい海流が流れ込み、その力強い泳ぎを封じ込めた!

 空洞になった領域で、イクチの胴隊はまず、大空洞の高さ数十メートルを落下してくる。


「撤退!!」


 私は、即座に海中に向かって泳ぎ始めた。

 滑るように海中へと進んでいく私の体を、大空洞へと流れ込んでいく下の海流が引きずり込もうと流れてくる。

 その勢いは洒落にならない。私自身も抵抗しないとあっという間に大空洞の中だ。

 だが、まだだ。耐えろ。イクチが大空洞の中で、一番下に叩きつけられれば……!

 下へ、下へ。強く泳ぎ続ける。

 やがて、イクチが海中に引きずり込まれ、その胴を私が先ほどまで居た場所、大空洞最深部に叩きつけた。

 その瞬間、激しい勢いが海中を下に向かって走った。

 イクチの大きすぎる胴体により作られた衝撃は、そのまま私を背中から叩きつける。


「ガハッ!」


 衝撃波は、私の全身を貫いた。自分でもどうなってるか分からない体内を砕き、わたしを吐血させる。意識が揺らぎそうになった。

 落ち着け、まだ落ちるな。自分がどうなったかを認識しろ。

 消えそうになる意識を、落ち着き取り戻す。自分は……衝撃波によって深海に向かって押し出された。イクチの落ちた空洞から離れたからだろうか、私の体を引きずり込む水の流れは、かなり弱まった。


「! やった、抜けだした!!」


 私は急ぎ後ろを振り向く。

 大空洞の中に、折り曲げられるように落っこちたイクチの胴隊。そして、そこに今現在進行形で流れ込む海水。イクチは再び泳ごうと蠢いているが、その力に押し任され、縛られているようだった。

 動きが止まった。そして、私は自由だ。

 今がチャンスだ! 私は、海中をイクチの頭部へ向かって泳ぎだした。


「今行くからね…!」


 地上で走るよりも圧倒的に速い。あっと言う居間に、前方の海面にイクチの影の途切れ目が見えた。

 あそこよりも先が無い。おそらく、あれが頭部だ!


「はああぁぁぁあああ!!」


 私は、地上へ向かって勢いよく登り上がる。次の瞬間、私の視界に海面の光が覆った。

 バシャァっと、海を突き抜けた音と共に、さわやかなほどの空気が私の体を触った。

 目を開ければ、海上十数メートルに来ている。下を見上げれば、そこには待ち望んでいたイクチの頭部があった。

 その先端に、シャツの襟を噛まれるようにしてぶら下がっている和泉ちゃんの姿があった。


「! 泡のお姉さん!!」


 バタバタと抜け出そうと暴れていた和泉ちゃんが、空に居るこちらを見た。その顔は、涙でぐじゅぐじゅになっていて、ぼろぼろだった。

 可哀そうに、こんなに怖い思いをしたなんて…。


「!」


 そう思った次の瞬間。イクチが頭部を下に揺らし、上に振るった。

 その勢いで、口と思われるのっぺりとした先端から、和泉ちゃんが宙に放り投げられた。


「!! 和泉ちゃん!!」


 そして…。のっぺりとしたイクチの頭部が裂けた。

 ぺりぺりと、貼り付いていた物がはがれるような嫌な音が鳴り響き、巨大な口を横に開く。あまりにものっぺりとしたウナギめいた姿をしていたから、そこに口が存在している事もそれまで分からなかった。

 イクチが開く口の先には、ほうりなげられた和泉ちゃんが舞っていた。


「きゃあああぁぁあああ!!」


 なんてことだ! どこかへ逃げようとしてたらしいが、追い詰められたと思ったら喰うのを早めだした!


「くっ! 間に合え!!」


 私は足に泡を生成し、それを蹴り飛ばし、落下していく和泉ちゃん目掛けて飛び込む。

 口が閉じていく。間に合え!!


「っ!!」


 口の閉じる音と共に、一瞬の静寂が過った。


「……間に合った!!」


 私の両腕には、しっかりと和泉ちゃんが抱きかかえられていた。

 喰われる前に、抱きしめられた!


「っ! あ、あれっ、えっ!?」

「ふぅ……良かった。本当に無事で良かった、和泉ちゃん」


 和泉ちゃんの、自分が喰われたのかどうか分からないと混乱した顔に、私は優しい笑みをなげかけた。

 そして、バシャッと。海上に着地した。

 背後では、和泉ちゃんを喰い損ねたイクチが空に向かって咆哮をあげていた。


「こ、湖畔お姉さん……う、うああぁぁん! 怖かった、怖かったあああぁああああ!!!」


 歳よりもやや幼いぐらいに和泉ちゃんは泣き叫んだ。私は、胸元に抱きよる和泉ちゃんの背中をそっと撫でた。


「うん…。もう大丈夫だからね、私が居るからね……」


 なんだろう。そう声に出しながら、何か暖かいものが胸の内にこみ上げてくるのを感じた。なんと言えばいいか分からない。とにかく熱い感情が胸の内に膨らんだ。


「……さて、すぐここから去らないとね…」


 私は背後をちらりと見て呟く。和泉ちゃんを喰えなかったことで怒っているイクチだが、そのあまりの図体ゆえに海上に散った豆のようなこちらを、すぐに見つけられてないようだった。今が逃げるチャンスだろう。


「さ、和泉ちゃん。お姉さんにしっかりと掴まってなさいね」

「うん…! ……ひっ!」


 ふと、小さい悲鳴を和泉ちゃんがあげた。


「お、おねえさん! 体! あいつの泥がついてる!!」


 毒に侵されてしまった姿に驚いたかのように叫ぶ。ああ、そうか。ひとまず即効性の毒が無いっては思ってたけど、改めて見て見れば、自分の体は羽衣の半分ぐらいがあのオイルのような泥まみれだ。

 こんな姿を見れば、そりゃ和泉ちゃんも驚くだろう。


「ああ、大丈夫。 この泥、そんな毒は無いみたいだから、ひとまず……!?」


 ひとまず。そう言いかけたところで、今度は私が小さな悲鳴をあげてしまった。

 …まさか。こんな怪物、

 なのに、そのオイルのような泥の表面に這う、虹色の膜。そこには、私が最も見覚えがある物が浮かんでいた。


「……こ、これは。記憶……?」


 そうとしか言いようが無かった。

 黒い液体の表面を這っている虹色の膜には、細かい泡のように、いくつもの丸の中に、ぼんやりと景色が映っていた。

 自分も懐かしみのあるどこかの漁村の光景。木製の漁船を引き上げる漁師たちの姿。囲炉裏を囲んでやり取りをする村人たちの楽しそうな姿。手を振って海に出る誰かの姿。嵐。海に逃げる魚。落ちる漁師。沈む体。無念。後悔。帰りたい気持ち。悔しさ。悲しさ。

 青ざめつつ、乾きかけたはずの胸元が、また染みるのを感じた。


「…?」


 手で、胸元を触ってみると。首筋から水が垂れていた。涙だ。いつの間にか私は、涙を流していた。

 に。生きていた生を離さなければいけなかった記憶の主の無念に、思わず、涙を流してしまっていた。

 私は、ゆっくりと後ろへ振り返る。そこには、変わらず空に向かって吠えているイクチが居た。


「…………?」

「えっ?」


 思わず、自分の口から変な言葉が出てしまった。

 取りこぼし? 自分の喋っていた言葉から、それが何を指すのかを思いめぐらす。それは、その言葉は、私が光の道から、深海に取り逃してしまって行方が分からなくなってしまった、じゃないか。


「まさか、そんな!!」


 そう認識したとたん、このイクチがいったいなんなのか、ようやく理解した。

 こいつは、やはりだ。

 数百年前、泡神様として最初に始めた頃に逃がしてしまった魂の泡だ。

 こんな、こんな姿に変わり果ててしまっていたなんて!!

 私が泡神様として役目を果たせなかったばかりに、変わり果ててしまったその姿を、ただ唖然として眺めてしまった。

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