第5話 増大を願うイクチ
「ふう……いずみちゃん、大丈夫かな…」
いずみちゃんの事を案じながら、結界内の中心部へと急ぎ戻る。それなりに準備はしておいた。水が飲めないと死んじゃうとは分かったから、私は泡の中に閉じ込めた海水から、水とそれ以外の存在を分離させ、彼女に水飲み場として残していっている。
記憶以外を分離する事なんてほとんどやった事が無いが、どうも私が泡の中に手を伸ばせば、それなりにいろんなものを分離できるらしい。『泡の生成』と『泡の中の存在を分離する』この二つの能力が私にはあるようだった。意外と楽しそうである。
ふと、前方に海上に浮かぶ泡の陸地が見えた。幅も3メートルぐらいしかないが。そのうえで元気に跳びはね回るいずみちゃんの姿が見えた。
「居た! いずみちゃーん」
手を振り、声を掛ける。その声に気づいていくれたようで、向こうも手を振り返してくれた。
良かった、元気のようだ。
「おかえりなさいませ、泡のお姉さん」
「泡の…まあ、そういう感じになるかぁ」
「それで、その……どうなんでしょうか。私、帰れますか?」
遊ぶのをやめ、真剣にこちらを見つめてくる。自分と同じ色の瞳は、助けてくれるのはこの人しかいないと問うようで。藁にもすがるような気持ちを伴っていて……。
…………駄目だ。ここを離れられない、大事な使命があるからなんて、助けを求める子供に対して言えるわけが無い。
「う、うん。大丈夫だ和泉ちゃん。お姉さんが陸に戻してあげるからね」
つい、
その言葉を聞いた途端、少女の顔が晴れたように明るくなる。
「ほんと!? ありがとう、お姉さん!」
「う、うん……!」
思わず頷いてしまう。これは駄目だな……神様とは、揺れ動く気まぐれな者。厳格な規則に則ってはおらず、まさにその時まちまちで在り方が変わるのが神様だ。だが、そんな神性とは別に。こんな少女を裏切れるわけが無い。
だって、もし海上に神様のお姉さんと自分一人なんて状況に、逆に私が落とし込まれたら。目の前の相手に助けてもらいたい。かつても、そうやって誰かに助けてもらいたかった。得られなかった無念がある以上、自分がその欲しかった何かになってあげたい。
「…あれ?」
ふと、自分が和泉ちゃんに背を向けて悩み込んでいる事に気が付き、顔を上げた。
今、私はなんて言ったんだ? 助けてほしかった?
自分は今日初めて生きた人と出会ったのに、何を言ってるんだろう? 自分に思い出なんてほとんどない。きっと夢の中で見ていたような断片的な夢を、自分自身の体験した事として思い返していたのだろう。
まったく、思い返す思い出もないとは、これまた恥ずかしい。
「さて……」
考えをいったん止めて、空を見る。光の道はやはり今は出ていない。
眠っている期間が長いことも考えれば、陸に行って帰るまでの間に光の道が出ないことは十分考えられるだろう。そうすれば、泡神様の使命も少女の助けも両方とも出来るだろう。
「やっぱり、それかなぁ……んっ?」
ふと、足元に影が横切ったような気がした。思わずその方向に目を向ける。
視線の先の海中には、しゅっしゅっと、いくつかの影が横切っているのが見えた。なんてこった、魚が泳いでいる。
「おー、こんなところに魚なんて……あっ!」
ハッとして、自分が先ほど行って来た方向を見た。案の定、その方向から魚たちが泳いで来ていた。
「あー……」
「? お姉さん、どうしたの?」
今まで来ることもなかったものが、急に来るとすれば。もう原因は自分としか考えられない。誰も入る事が無かった結界に穴が開き、魚がちらほらと入るようになってしまったらしい。
まずいな、もしかすると私の結界は、私自身しか居ない寝床兼仕事場から、巨大な漁獲網に変化してしまったのではないだろうか?
やったね、豊漁だね。なんて喜べる気分でもない。魚たちにトラブルが起きないことを祈るばかりだ。
「…いやぁ、ちょっとしたトラブル。 でも大丈夫、さあ、和泉ちゃん、私の背に乗って―」
そう言いかけて、和泉ちゃんの方を振り返った時だった。
ふと、自分の足元をそれまで以上の魚影が横切った。なんだ今の? 3メートル、いや、5メートル?それぐらいの
「!! 和泉ちゃん、早く!」
「ひっ! きゃあぁああ!!」
大きな水柱をあげて、私が作り上げた泡の陸地がはじけ飛んだ。
「! 和泉ちゃん!! うわっ!」
伸ばした手は届かず、叫ぶ。その直後、自分の下から巨大ウナギの胴が飛び出し、私は空中に打ち上げられてしまった。
海面10m。そのぐらい打ち上げられた私は、宙を舞いながら会場を見る。
「なんだこれは…!!」
それは、私が破った結界の入り口から、結界の中心地まで、真っ黒な影を海中に引いてやって来ていた。
でかい、あまりにもでかい。こんなものが結界の外に居たのか?
私が結界を何となく開けてしまったばかりに、こんなやつを……結界がある訳を、もっと考えるべきだった……。
「っ!?」
そう悔やんだ時、耳元でキーンと強い耳鳴りが鳴り出した。
一気に上空にあげられたら、このぐらいの高さでも耳鳴りはなるのだろうか? いや違う、その耳鳴りは更に大きくなっていき。まるで、自分自身を耳の穴の中に吸い込むような音を伴っていく。
『いいか〇〇。結界の外は、陸地よりも魑魅魍魎が多い。それゆえ、おぬしを捧げると同時に、おぬしに幾人たりとも近づかぬよう、結界を敷く』
ふと、そんな声が聞こえた。自分がその景色の中で正座して相手の話を聞いているような気がする。
顔の見えない誰かは、私の前に何かが描かれた和紙を置く。
『いいか、先日は大島、三宅島よりもさらに遠く、おぬしがこれから向かう沖島近辺でも、妖怪が見つかったと話を聞く』
その和紙に書かれていたのは、まるで筆で一本書いたようなウナギにも見えるようななにかだった。
『イクチだ。南の地近辺の海にしか現れなかったはずだが、この度、沖島にも幼体らしいものが見つかった。かのものは、成熟すれば3日泳ごうとも端が見えない程に巨大になる』
そんな怪物が、私がこれから行く島に? 身を捧げる身だから、そんな死の恐怖など今となっては関係ないはずだが、それでも恐怖は感じる。
その時、話をしていた相手が、私の両肩を掴んだ。
「いいか。お勤めに入って以降は、決して結界の外に出てはならんぞ。たちまち食われてしまうからな」
そこでハッと、意識が戻った。なんだ、今のは。いったい誰?
自分の意識が、海上を向いていてまだ宙を飛ばされている最中だという事に気づく。まるで走馬灯のようだった。
あの、最後尾も見えない怪物が、イクチという妖怪か? そう自分の中で反芻すると、名前がしっくりくるように感じた。
「…っ!」
しかし、私は即座に足をかがみ、足元に泡のクッションを作り出す。
そして、泡を大きく蹴りあげ、私は海上へと急速に飛び込んでいった。
危険な妖怪? 近づくな? そんな事は今関係ない。自分が近づかない以上に、今攫われた和泉ちゃんを助けたい。
誰とも分からない人から言いつけられた約束を破り、私は和泉ちゃんを咥え遠くへ逃げようとするイクチの頭部を目指して、後を追いかけた。
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