第4話 膜の中の泡神様

「…ふーむ……」


 いずみちゃんを一旦、自分が目覚めた地点に残して海を走っている。

 ちゃんと、泡を複数組み合わせたりして、遊具場みたいなのを用意してきたわけだが。なるべく早く戻らないと…。

 置いて来たのも、正直自分が行く先にあるものが、何があるのか分からない不気味な存在だったからだ。


「行くとなると……これだよなぁ」


 目的地にたどり着き、自分はそこにあるものを高く見上げる。

 そこにあったのは、高さ数百メートルはあるだろうか。揺れる光のカーテンのように横へ広がる、巨大な壁だった。

 海上と海中に、光を輝かせながら絶えず揺らめいているこれは、恐らく結界だと思う。

 思えば、自分がここに居る間、生き物を見た事は無いと言ったが、その理由の最もたるものが、この光の結界によるものなのだろう。

 考えられるのは。漂流物のような物ぐらいしか、通さないはずだ。


「……」


 恐る恐る、手を伸ばしてみる。

 ゆらめく光のカーテンに少し触れたところで、バチバチっ! と激しい閃光が起こった。


「うわっ!!」


 思わず背後に飛びのいてしまう。ちょっと足がもつれ、背中から海に落ちそうになったが、泡を背中に呼び出しクッションにした事で、難を逃れた。


「びっくりした…」


 泡から起き上がり、改めてカーテンを見直す。

 いったいこんなものを誰が作ったというのだろうか。この結界の中に居たのが、私と魂の泡ぐらいしかないことを見るに、恐らく私を囲う為に、誰かが展開したものだろう。

 残念なことに、その私自身の領域を作り上げた誰かさんを、私は知らない。全く、意識してなかっただけで知らないことがこんなにもすぐそばにあった事に驚かされる。

 そこでふと、ちょっとした好奇心が浮かんできた。


「……行くにしろ、行かないにしろ。結界の外は見ておいた方がいいよね…」


 自分の生活圏を越えてみたい。そんな好奇心が浮かんできた。

 そこで、先ほどはバチバチっとほとばしられれて拒絶されたばかりだけど、思い切って貫いてみる事にした。

 羽衣の裾をめくり、手をかざす。そして、カーテンに手が触れたところで、そのまま破る勢いで飛び込んでみた。


「はぁあああ!」


 そうした瞬間。カーテンはあっさりと閃光の後に、その体を壊してしまった。

 なんだ、意外と簡単に破れるじゃないか。本当に外部からの侵入者を防ぐためだけにあったんで、わたしを閉じ込める為にあったわけじゃないのかも。

 破れるんだったら遠慮なく通らせてもらおう、あれよあれよという間に結界を越え、私はその外側の海に飛び込んだ。


「!? わぷっ!!」


 結界の向こう側に出た瞬間、足に当たって跳ね返った波しぶきが私を襲った。

 なんだ、何事だ!? と思わず羽衣で顔を覆った私は、ゆっくりと顔を上げる。そこには、いつも変わらなかった日常以上の喜びが広がっていた。


「! わぁ……!」


 そこにあったのは、変わらず海だった。だが、

 空からは体に痛いぐらいの陽ざしが指し、それ一つ一つが大きな生き物と言わんばかりの真っ白な雲が点在している。海面もこれでもかと言うほどにあらゆる方角からの波がぶつかり合っては、互いに激突して新たな向きの波を産み出している。そして驚いたことに、水平線の遠くには、近くに一つのそれなりの大きさはある島、遠くに二つほどの近い島、そしてさらに遠くにぼんやりと小島が一つと。水平線も何も無かったはずの世界に、突然島が現れた。

 なんだここは、海っていうのは、こんなにも生命に満ち溢れた営みが繰り返される。絶え間無い変化の溢れる場所だったのか!? そう驚いた。自分が住んでいた結界内は、海も空も澄んでいて、これ以上の変化など無いとばかりに静かな空間であった。


「すごい……こんな世界が近くにあったなんて」


 思わず、私は懐中に潜る。

 すると、潜ったとたんに前方からそれなりの大きさの魚の群れがこちらに向かって泳いでくるのを確認した。


「うわっ!?」


 思わず悲鳴を上げる。魚たちは、後もう少しで自分に激突するというところで、群れを二手に割け、自分の両脇へ避けて泳ぎ、後ろへと通りすぎていった。

 自分はあっという間の事に、背後を振り向く。

 すると、魚たちは結界が貼ってある幕を回避するように、かくっと横に泳ぎを転換して避けていった。


「!」


 なるほど、どうりで結界内で生き物にも会わないわけだ。生き物もまた、無意識に結界内に入り込まないように避けるよう作られているらしい。

 まあ、そんな事よりも実際に魚を見れたことが嬉しい。いずみちゃんが突然来たと思ったら、今度は魚に会うとは。途端に断絶されていた世界に、自分が接続されたのを感じる。

 海上にバシャッと水しぶきを上げて、またも海面に立った。結界の外側の空を見上げる。

 絶えず変化してる空だが、光の道が現れるだろう場所は、何故か分かってしまった。

 ちょうど、点々と続く島の続く先、二つ島の更に奥のぼやけた島よりもさらに遠く。まだ陸地が見えさえしない先に、光の道は続いているのを感じた。

 おそらく、その先に島がある。そんな確信があった。きっと島沿いに泳いでいき、光の道の方向を目指していけば和泉ちゃんの故郷にたどり着けると思う。


「……しかし……」


 しかし。そう思ったところで、私はつい口ごもってしまった。

 見た事の無い海。見る事の出来るかもしれない陸地へのわくわくとした気持ち。そして、不幸にも何かが重なり、私の結界内にやって来た少女を助けたい気持ち。いくつかの要素が、私に海を進めと語ってきているのは明白だった。

 だが、それ以上にだ。使

 この結界内部に居て、光の道に乗って魂が運ばれていく時、沈んでしまう魂を救済し、道に帰す。それだけの為に目覚め、それだけの為に長い間眠りにつく。それが私の全ての筈だ。

 もし、旅に出てその間に光の道が出たら? 魂が旅の先からやって来るのを見てから引き返して。泡神様の仕事は間に合うだろうか?

 好奇心と助けたい気持ちより、恐らく数百年以上続けてきた使命が、更に重くのしかかってくる。


「……はぁ」


 遠くの水平線を眺め、ため息を漏らしてしまう。

 悩みに未練で重く沈んでしまう魂から、重さを取り除き、軽くして空に帰す泡神様がなんと様だ。泡神様が自分自身の重みに悩んでしまうなんて、恥だ。

 …こんな悩んだのも、初めてかもしれなかった。

 いったん結界内に帰ろう。使命と少女の故郷帰りが両立できるか、考えよう。

 自分に言い聞かせるよにつぶやき、私は結界にできた隙間から中へと戻った。

 しかし、私自身が去ってしばらくしてから。そこで何が起きるかという事を私はよく考えておくべきだった。

 自分が破った結界の裂け目が、波に打たれ揺れるたびにその穴を広げていく。

 結界の内側と外側を繋ぐ、私が作り出した穴はどんどん大きくなっていく。中と外の空気が交換されていく。

 そうしていった事で、内部から漏れ出したを感じ取ったものが居てしまったのだった。それは、大きな体を這うように動かし、結界の内部を目指し、暗い深海の底から浮上してきた。

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