(8)私、新たな物語を紡ぐ。



 日々の看護業務に慣れていき、仕事のミスが先月、先々月と比べると大分減りつつあります。今日は同期組全員が看護師長に「仕事できるようになったね」と珍しく褒められました。


 例の先輩は私達を叱りつけることができず、歯を食いしばっているように見えました。日中からずっと機嫌が悪くて、退勤時に仕事が遅いといちゃもんをつけてきます。しまいにはあなたの性格のここが嫌とまで言われました。


「結局何しても叱られるのかなあ……」


 夕暮れ時、自宅に帰るといつものように九里香がベランダにいて、一枚のチラシを手に持っていました。


「九里香、そのチラシ何?」


「これはさっき寄った新聞屋さんから貰ってきたものだよ。見て」


 手渡されたチラシを受け取ると、そこには仙台にある出版社が主催する『第3回 もりみやこ短編文学賞』の小説の募集要項が記載されていました。


「ん……? 何これ」


「志保ちゃんにあげようと思って。これからどうすればいいのか分からないって言ってたから」


「えっ、ちょっと待って!」


 私は額に手を当てて「うーん」と唸ります。


「一日中考えてたんだ。志保ちゃんが思い悩む繰り返される味気ない日々を抜け出すための『新たな人生の道しるべ』を」


「た、確かにこれから将来どうなっていくんだろうって悩みを打ち明けたけど、小説を書くだなんて……私に出来っこないよ」


「ふふっ、やってみないと分からないよ。それに見て今回の審査員の人を」


 私はチラシに書かれている選考委員の名前を見て驚愕しました。


「あ、開穂あけほ先生!?」


 最愛の作家に自分の作品を読んでもらうなんて畏れ多くて恐縮してしまいそうです。だけど……。


「ちょっと興味ある……かも」


 その言葉に九里香が「にひひ」と笑みを浮かべました。チラシに書かれている開穂先生のコメントに惹かれてしまったのです。まるで今を憂う私に問いかけているかのようでした。


『初めての方もベテランの方もぜひご応募ください。あなたが思い描く傑作を快くお待ちしております。私と一緒にあなたも足跡を残しませんか? たった一歩踏み出すだけで世界は自分色に色鮮やかに様変わりすることをお約束いたします。夢に狙いを定め、駆け出したあなたは何者にも止めることはできない』



 * * *



 九里香に背を押されて部屋の中に入った私はソファに座り込むとノートパソコンを開きました。


 小説の書き方なんて何一つ分からないので、検索サイトで小説の書き方を調べてみると、原稿用紙を必要とせず、パソコンにあらかじめ入っていた既存の文章作成ツールで小説を作成してもいいことが分かりました。


 文学賞に送る短編小説は原稿用紙換算で二十五枚から三十五枚分。最低でも一万文字以上書かなくてはなりません。募集する小説のテーマは無いそうで自分の好きなように書いていいそうです。


「私に出来るかな……それに、何書けばいいのか全然思いつかないよ」


 うーん、うーんと頭を悩ませ唸っているとホットサンドを焼く香ばしい香りがキッチンから漂ってきました。ソファの隣に座っていた九里香がいつの間にかいません。


「九里香ー、キッチンにいるのー?」


「うんー、まだ夜ご飯食べてないでしょ? お腹が空いていると思ってね」


 私は「ありがとう」とお礼を言うと、再び頭を悩ませてテーブルに頬杖をついて部屋を見渡しました。やはり書く小説のテーマが思いつかなくて自分の周囲にあるものから何かしらのインスピレーションを得ようとしました。


 彼氏の雑貨、私が集めた書籍、そしてパキラちゃん。


 エアコンの風を受けてゆらゆらと葉を揺らすパキラちゃんを見つめていると九里香と出会った夕暮れ時のことを思い出します。


「きっと、九里香に出会わなかったら今頃一人寂しく部屋の中で過ごしてただろうね。九里香と私を繋いでくれたのはパキラちゃんだ。ありがとう……これからもずっと一緒だよ」


 私はノートパソコンのキーを叩いて小説の冒頭を書き始めました。自然と頭の中に浮かんだのは、私と九里香の出会いから始まる一節。


「秋の夕暮れ、茜色に染まる空の下──」


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