(7)私、大切な人を失う。



「私の彼氏は……もうここには来ないんだ」


 私の言葉を聞いた九里香が寂しげな瞳で見つめます。その視線に私はさらに声色を震わせてしまい、これまでの日々を思い返して鬱々と積もりに積もった様々な感情が抱えきれなくなって一気に込み上げてきました。


「私、これからどうなっていくのかな……毎日毎日自宅と職場を行ったり来たり、何から何まで同じような出来事を繰り返してる。頭がどうにかなりそうだよ。職場の先輩は怖いし、彼氏は私の元から離れていく……月日が経つ毎に胸の奥にあった爽やかなものが消え失せていくのを感じて私怖いの」


「志保ちゃん、おいで」


 九里香は両手を広げ、抱擁ほうようするように促していました。私はそのまま縋りつくように抱きついて自然と目から涙が溢れ、今までパキラちゃんに打ち明けていた悩み事を洗いざらい全て話し、すすり泣きました。


「助けて。私、救われたい……。『天使』を目指しているあなたは何か出来ることないの?」


「……ごめんなさい。私は困っていて悲しみに暮れている人のそばに寄り添うことしか出来ないんだ」


「じゃあ……ずっといてよ。私の気持ちが晴れるまでずっといて……お願い……」


 九里香が私の額にそっと手のひらを当てると全身の体の力が抜けていきます。深い、深い眠りへといざなわれていくのを感じました。


「だいぶお疲れのようだね。今の私に出来ることといえばこれくらい。夢の中へ連れていってあげる」

 

 自分の想いを打ち明けたことにより気が落ちついてきた私は、九里香が発した言葉を最後に金木犀の香りがする腕の中で静かに眠りにつきました。


「『繰り返される味気ない日々の中で大切なことは、喜怒哀楽どんな感情になろうとも前に進む意思を失わず、大地を踏み締め足跡を残し続けること──』。おやすみなさい、志保ちゃん」


 それは、幻を見せる魚を追う軍人の物語『幻燈魚の導き』に記されていた最愛の作家が書き残した一節でした。



 * * *



 ──ドン、ドン、ドン!


「……やめっ、離せよ! 本当の──天使はお前じゃない! 俺は絶対に認めないからな! くっ……俺に近寄るなァ!」


 暗がりの中、隣室から聞こえる騒音に途切れ途切れに意識が目覚めます。確か……隣は……。



 * * *



 カーテンの隙間から朝日が漏れていて、その眩しさに目を細めました。夢と現実の区別がつかず、頬をつねってみます。


「痛いなあ、もう」


 私はソファに横にさせられていたようです。薄暗い部屋を見回してみると九里香の姿は何処にもなく、部屋から既に去っていったようでした。


 壁掛け時計が朝六時半を示していて、ソファから立ち上がって窓を開けると、雲一つない赤紫色の晴れ渡る空がそこにありました。ベランダに出て、新鮮な外気を吸いながら思いっきり背伸びをします。


「……やだなあ、仕事に行かなきゃ」


 シャワーを浴びようと部屋の中に戻ると、テーブルの上にラップに包まれた一枚の皿が置いてあることに気付きます。手紙が添えてあって、九里香が置き手紙していったようです。


『志保ちゃんの真似してホットサンド作ってみました。朝ご飯に食べてください。初めて作ったから形が歪だけど気にしないでね。また本を読みに遊びに来るよ。かしこ』


「へー、九里香って字上手いんだね」


 ボールペンで書かれた丁寧な字に感心して、ラップに包まれた形が歪なホットサンドを見てクスリと微笑みました。私はラップを解くと少し焦げたホットサンドを手に取りかぶりつきました。心が満たされてぽかぽかと暖かくなっていきます。


「よし、今日も頑張ろ!」


 開け放たれた窓から緩やかな風が吹いてきて、部屋の窓際に置いていたパキラちゃんの葉が気持ちよさそうに揺れていました。


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