(6)私、最愛の作家の本を読む。



「ねえ、九里香って天使なんでしょ。天国や地獄って実際にあるものなの?」


「私は『金木犀の天使を目指す者』だよ。まだ天使じゃない」


「え?」


「私は天使じゃないし、天国や地獄なんて行ったことがないからそんなものあるかどうかなんてわからないよ」


 あろうことか、どこからどう見ても教会の絵画や絵本に描かれるような天使様の姿をしているのに九里香は自身を天使ではないと言い張るのです。


「なら……あなたは一体何なの? どこから来たの?」


「私は魚。『ソラ』から来た」


 その発言に急に得体の知れないものに見えて、私は椅子から立ち上がって距離を取りましたが、九里香はホットサンドを食べ終わると「ふふん」と満足そうに鼻を鳴らしました。食卓から立ち上がると、ソファに戻って本の続きを読み始めます。


「ホットサンド美味しかったよ。私も作れるようになりたいな」


 九里香は魚のように口をパクパクすると顔を可愛げに綻ばせました。私をおちょくっているのでしょうか? 九里香の笑顔を見ていたら警戒したことが不思議と気にならなくなっていきます。まるで初めて会話をした夕暮れのベランダの時のように……。


 ページをめくる音を聞いていると私も無性に本が読みたくなり、本屋のビニール袋から『機械仕掛けの神』を取り出しました。表紙を開いて見返しのページに開穂先生のサインがあるのを見て微笑んだ後、九里香の隣に座って読み始めます。


 静寂な時間が流れていく──。


 私の脳裏に物語の舞台が展開され、廃業寸前の古びた劇場のしんと静まり返る薄暗いホールやツンと鼻につく埃の匂いに包まれていくのを感じられます。


 片手で数えられるほどの少人数しかいないこの劇場で、私は今、観覧客の一人となった。時折、他の観覧客達の息遣いや椅子の軋む音が周囲から小さく聞こえてくる。しばらくして鳴り響くけたたましい開演のブザーとともに眼前の紅色の舞台幕が上がっていきました。



 * * *


 

『機械仕掛けの神』


 それは古代ギリシア時代から存在する演出技法の一つ。物語の局面がもつれた糸のように混乱を極め、解決不能な事態に陥った際、突如として神や絶対的な力を持つ救世主といった超常的存在が現れて強引に登場人物を救済して話を終わらせてしまうというもの。


 演劇において神に扮した役者が大掛かりな舞台装置に乗って登場することからラテン語で「機械仕掛けの神〈デウス・エクス・マキナ〉」と呼ばれるようになりました。


 この物語の主役は、古びた劇場の倉庫の片隅に放置され忘れ去られていた壊れた機械人形マキナ。


 その姿に哀れみを抱いた神は天より降臨し、全能の力を貸し与えたことでマキナは美しい女性の姿へと生まれ変わります。


 年老いた劇場支配人に発見されたマキナはその美貌と全能の力に活路を見出され、演劇のトップスターとしてステージに立たされることになります。劇場支配人に利用される日々、客足が戻った古びた劇場は再建され全盛以上の輝きを得ました。


 マキナは『忘却されず、この世に存在する者の一人として認められたい』という願いがあったにも関わらず、劇場に訪れる下卑た富裕層の者達に全能の力を求められて、金を積まれた劇場支配人に命令されるがままに不老化、不治の病の治癒、死者蘇生を実行します。


 自分のもつ力にしか興味をもたれていないことを憂い、やがてマキナはステージ上から飛び降りて外の世界へと旅立つ。その道中で本当の不幸に苛まれる人々と出会い、その者達のために力をふるうようになっていく。町や国、世界が幸福に満ち溢れていきました。


 けれども、マキナは気づいてしまうのです。


 幸せになっていくための過程をすっ飛ばして人を幸せにしてしまうこと、それは『これまで存在していたはずの人物を消去して、別人にすり替えることに等しい』ということ。


 初めて出会った頃は親しくしてくれたのに、救われた者は皆、便利な道具として見ていたかのようにマキナと共に過ごした記憶を簡単に忘却していくのでした。


 私も皆も「何か」が足りないのだとマキナは苦悩していく。


 かつて心を持たない機械人形であったマキナはそれが「愛」であることを知らなかったのです。


 全能の力を無制限に使ったことでこの世の理が崩れ、世界が混沌としていく。


 無限増殖していく金銀財宝の津波に飲み込まれて崩壊する街や国、月に追いつこうとする衝突寸前の太陽、蘇生した者や空想から生み出された存在するはずのなかった人々同士の愚にも付かぬ思想のぶつかり合いによって始まった戦争……。


 もつれた糸のように乱れてしまった世界を救う唯一の希望はマキナの過去の記憶。物語に終止符を打つもの、それは、ただ人を楽しませるだけの機械人形だった頃の自身を愛してくれた人々との懐かしき思い出の中にありました──。



 * * *



 この物語のテーマは、救済と追憶。


 そして、愛。


 本を閉じる音を聞いてふと隣にいた九里香を見ると、ソファにもたれながら瞳を閉じて余韻よいんに浸っているような顔をしています。どうやら私の愛読書『幻燈魚の導き』を最後まで読み終えたようでした。


「たまには読書もいいね。志保ちゃんありがと、この本面白かったよ」


「そう? 良かった。感想聞かせてよ」


「この本に主人公の相談役で『パキラ』って名前の言葉を話す大きな植木が出てくるね」


「うん、実はこの本に影響されて観葉植物買ったんだよ。小さい植木だからパキラちゃんって呼んでるの。物語の中みたいに言葉を話したりはしないけどね……ふふっ」


 九里香が読み終わった『幻燈魚の導き』のページをもう一回開いて、いくつもの場面を私に見せながらちゃんと読んだ上で感想を語ってくれるので嬉しくなってしまいます。本の感想を語り合うのはいつ以来でしょうか……。


「あっくんとの……会話」


 私は手に持っていた『機械仕掛けの神』を閉じるとズンと暗い気持ちになり項垂れてしまいます。


「あっくん? もしかして……彼氏さんのこと……?」と九里香が訊ねてきます。


 彼も一度、私が持っている小説に興味を持ってくれた人ではありました。けれども、興味はすぐに失せてしまい、私が小説を読んでいる姿を疎ましく思うようになったのです。


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