(5)私、甘美なるひととき。



 道中で鹿島さんと中江さんと別れて、夕闇の中で街路灯の明かりが灯るサンモール一番町商店街の通りを歩いて商店の並びにあった本屋さんに入って行きました。今日は私の誕生日だから少しくらい自分にご褒美があってもいいよね。


 今日は私の大好きな作家、開穂秀索あけほしゅうさくの新作小説の発売日なのです。繰り返される味気無い日々の中で唯一の甘美かんびなるひととき。


 本屋の入り口に開穂先生の最新作『満ちていく憂い』のポスターが貼られているのを目にして、夕空に浮かぶオレンジ色の雲のようにふわふわとした浮き立つような軽い足取りで入り口側の陳列棚に向かいました。


 平積みにされたハードカバーの最新作の本を手に取ってレジに向かうと僅かながら列が出来ていて、並ぶ人々の手に『満ちていく憂い』の無数の額縁がえがかれた表紙がチラリと見えました。


「あなたも開穂先生の小説読むんですね」なんて、ルンルンと声をかけてみたくなりますが嫌な顔されたら悲しいので私はこの思いを胸の内にしまっておくことにしました。



 * * *



 帰宅して玄関の扉を開けると、リビングの扉の硝子部から部屋の明かりが漏れていることに気付きます。


「あれ? 電気消し忘れたのかな」


 耳を澄ますと本のページを捲るような音が微かに聞こえてくるので、恐る恐るリビングの扉に近づいてゆっくり開くと、使い古された化粧品や雑に干してヨレヨレになった服や下着、彼氏の私物が散乱していた部屋が綺麗に整頓されていて、ソファに九里香が座って本を読んでいました。


「九里香!」


「おかえりなさい。志保ちゃん」と、九里香がひらひらと手を振りました。


 九里香が手に持っている本をよく見ると開穂先生の小説『幻燈魚の導き』であることに気付きます。私の部屋の本棚から勝手に持ち出したようです。


「九里香、勝手に私の部屋に入らないでよ!」


「この本面白いね。もっと続き読みたいかも」


「あら、そう?」


 私の好きな作家の本に興味を持ってくれる人がいることに嬉しくなって、九里香が勝手に部屋に入ってきたことを許してしまいました。嗚呼、私はなんてこんなにもちょろいのだろう……。


「どうやってこの部屋に入ってきたの?」


「窓が開けっ放しだったから、そこから入ってきたんだよ」


「あっ!」


 言われてみれば、今日の朝にベランダに干していた洗濯物を取り込んだ後、窓を閉め忘れていました。


「私が入った後、鍵閉めてあげたからね。最近この辺に不審者が出て物騒だから気をつけて」と、九里香が自分の胸を親指の先でトントンと叩きました。


「うーん……ごめんなさい。あと部屋掃除してくれてありがとね」 


 自分の不甲斐なさに反省していると、お腹が「ぐうう」と鳴ってしまいました。


 キッチンに向かうと仙台駅前の雑貨店で買ったホットサンドメーカーを取り出します。冷蔵庫の中にある余り物でお手軽に作れるホットサンドが最近のお気に入り。細かく刻んだチーズとスーパーで買ったお惣菜を適当にパンに挟んでじっくりと焼いていきます。


 香ばしい香りに誘われて九里香がキッチンにやってきました。


「美味しそう。私も食べたいな」


「良いけど、本汚さないでよー」


「うん、やった」


 テーブルにランチョンマットを広げてその上に皿を並べていきます。インスタントのコーンスープと合わせて二人でホットサンドを食べました。


 こうして人と対面しながら食事をするのがなんだかとても久しぶりで胸の奥がポカポカしてきます。寂しい誕生日にならなくて良かったな……。


 九里香と何日も一緒に過ごしているのでテーブルの向かい側にいる天使様の存在に違和感を感じることがなくなっていました。けれども頭上に浮かぶ光輝く光輪と折り畳まれた大きな翼がどうしても気になってしまいます。


 天使様が実在するのならばもしかして……と、私は九里香に質問をしてみることにしました。


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