陶酔
救急車がゆっくりと走っていた。
警告灯もサイレンも作動していない。病傷者を運んでいる訳ではないのだろう。行く当てもなくふらふらと彷徨っている様子だった。
救急車の運転手はきょろきょろと辺りを見渡していた。わき見運転で何度も周囲の車にぶつかりそうになるが、気にするそぶりを見せない。
よく見れば、助手席の救急隊員も首を盛んに左右へ振って辺りを窺っている。
頭に載ったヘルメットがあご紐に引っ張られて、顔より一拍遅れて左右へ揺れていた。
後部スペースの窓にも何対かの眼球が張り付いて、左右上下へ無遠慮に周囲を走査していた。
ある瞬間、運転手が激しく頭を掻きむしり、野太い叫び声を上げ始めた。車外まで聞こえる声に驚いて通行人が救急車を見る。
助手席や後部スペースの隊員も禁断症状に侵されたような苦悶の表情を浮かべていた。
突如、救急車が歩道へ向かって急発進をした。
白い車体の先端が通行人の一人を捉える。体が宙に舞い、生っぽい音を立てて石畳へと墜落した。
途端、隊員たちは満面の笑みを浮かべて救急車から飛び出した。手際よく墜落者をストレッチャーに載せ、勢いよく車内へ放り込んだ。
運転手は誇らしげにエンジンを空ぶかすと、隊員が一人残らず乗り込んだのを確認して、警告灯とサイレン、そして充足感に満ちた声で周囲の車をどけて、もと来た方向へ猛烈に走り去っていった。
きっと彼らは、英雄になるのだろう。
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