第2話

 暖かな季節が足早に過ぎ去り夏の足音が少しずつ近づき始めた頃、カエダは人生初めての春を謳歌していた。


 廊下に中間考査の成績が貼り出され、カエダはその前を優雅に歩く。その隣で友人のナナフシは、緊張して手と足が同時に出していた。


『第五十位:シノ マコト 』

『第三十七位:ヒメコガネ マサオミ』


 この辺りに自分の名前はなさそうだ。


『第十五位:ヒルマ ロクロウ』

『第八位:シジマ カイ』


 この辺りにも名前がない――しかし、焦ることはない。


『第四位:サンゼンセカイ ジュンイチ』

『第三位:シマブクロ タイガ』


 少しだけ手が震えた。――しかしそれは、高揚だ。


『第二位:イトウ セイヤ』


 カエダはぴたりと足を止めた。――その辺りに人だかりができていたので、少しだけ移動した。


『第一位:カエダ イタル』


 この高校は全国から頭脳を持って戦ってきた選りすぐりの少年達が集まり、さらにその集団で日夜しのぎを削っている。


 かつてのカエダは、人生を絞りつくされてようやくこの高校に片手をかけることができた。


 それが今や、この結果である。昨夜は、成績発表前日に快眠できた、生まれて初めての夜であった。


「す……すげー! カエダくん、本当にやったんだね!」


 明るい声でそう叫ぶナナフシの声を聞きつけ、その場にいたクラスメイト達が、カエダの元に集まってきた。


 これまで勉強漬けの日々で級友と親交を温める経験のなかったカエダにとって、その光景に涙腺が熱くなるものがあった。


 カエダはナナフシのことを見、ナナフシもカエダのことを見る。


 激しい緊張から解放されたこともあって、ナナフシの顔を見ると胸が暖かくなった。


 ナナフシは、今やクラスメイトの注目を集めるカエダの生まれて初めての友人だ。試験期間中も、ナナフシはテストに全力全霊をかけるカエダの様子をつぶさに見守ってくれた。


 視線がかち合い、カエダとナナフシはくすくすと笑い合う。


「偶然さ。あんまり褒めないでよ」


「謙遜すんなって」


「うんうん、その頭の良さをちょっと分けてほしいよ」


「タマムシがいたらどうなるかわからなかったけどな」


「おいヒメコガネ!」


 和やかな空気の中に走る一瞬の稲妻に気づかないカエダではなかった。カエダの人生は常に気軽に雷が落ちてきていたのだから。


「……そうだね……タマムシくんのこと、残念だったよ」


「カエダくん……」


 ナナフシがカエダの肩に優しく手を置く。


 カエダは片手で顔を覆って見せた。純粋に自分を心配してくれるクラスメイトの姿を、カエダは顔を伏せながら指の隙間から見ていた。


「カエダくんのせいじゃないから気にしないで」


「そうそう。だってあれは……」


「”御蛙さま”」


「呪いだよ、仕方なかったんだ」


「うん。わかってるけど……」


         ●


 あの行進の日から間もなくしてタマムシの訃報が発表された。クリニックをしている実家の薬品棚を破壊して、自身に麻酔を大量投与したこと死因らしい。


「真っ青な顔で亡くなっていましたが――綺麗にお化粧してもらいましたの」


 タマムシの両親は突然の息子の奇行にショックを受けると同時に、どこかで『そんな日』が来ることを覚悟していたらしく、涙こそ流しているが達観しているようにも見えた。


 (つくづく狂ってるな――)という感想を胸にしまい、カエダはタマムシの両親にお悔やみの言葉をかけた。


 クラスメイト達は、最早母校の生徒の葬儀に慣れきっており、誰もが驚くほど作法や順序を熟知していた。


法事の所作を知り尽くした同じ制服の集団。それはかなり異様――というより不気味な光景であった。


 タマムシがかつて言っていたとおり、“麻痺”しているのだろう。あるいは、自らをそのいような境遇に追い込んでストレスを感じないように防御しているのか。


         ●


 カエダはタマムシの葬儀で見た遺影を思い出す。


 はつらつとした、ちょっぴりやんちゃそうな若者の写真が供花に囲まれている光景は、今でも胸にこみあげるものがある。


「――っふ」


 カエダは口を押えた。周囲が緊張したのがわかる。


「大丈夫? カエダ君」


「ごめんごめん、嫌なこと思い出させたね。先生には言っておくから保健室に行ったら?」


「謝れよヒメコガネ!」


「……ちっ」


 カエダは彼らに背を向けた。


「……僕、行くね」


「カエダくん……」


 ナナフシがカエダの袖を引いたが、首を横に振って拒否を示す。


 そしてすぐにその場を離れる。口元は押えたままだった。


 こんなところを、初めて出来た友達に見られるわけにはいかないと思った。


 ナナフシも、クラスのみんなも、カエダのことをすい星のごとく現れた天才児と信じているのだから。


 トイレに駆け込んで、誰もいないことを確認してから洗面台に手をつく。


 大きく深呼吸して鏡を覗き込むと――そこには、蛙のように大きい口で、にんまりとする自分の顔が映っていた。


 いけないいけない、こんなところを、見られてはいけない。特に、聖人のように人間のできているナナフシには。


         ●


 カエダは自宅のドアを元気よく開き、大きく深呼吸をする。


 今日も、実に爽やかな朝がやってきた。


 カエダはぱちん、と自分のがま口を開いた。


 小学校の頃に兄が捨てたものをゴミ箱から漁って、勝手におさがりにしたのだ。カエダは自分の財布を持っていない。


 奥の方に、油紙で包んだちいさなものを入れてある。


 タマムシの尻に潰れたビニール袋から取り出した蛙はとてもグロテスクだったし、あれからしばらく経ったので中身はひどいことになっているだろう。だから、その包みを開きはしなかった。


 その包みを開きはしないが――その包みを見るとつい口元が綻んでしまう。


 あまりにもうまくいきすぎて、笑いが止まらない。全く、神様の人間を見る目が適当で本当に助かった。


 蛙を潰したのはタマムシ、行進から外れて、”御蛙さま”に見つかってしまったのもタマムシ。


 そして、潰れた蛙をがま口に入れて、福を手に入れたのはカエダ。呪いの矛先はタマムシ。


 カエダはがま口を閉じて、鞄の底に大事にしまう。


 きっと、最初に蛙を潰した塾生もそうしたことだろう。


「イタル、今から学校?」


 玄関でがま口の所在を確認していたところ、母が話しかけてきたのでカエダはひどく驚いた。


 母は微笑んでいる――母が、次男にこんな表情を見せたのは、本当に初めてで、カエダは息を飲む。


「疲れてない? 昨日は遅くまで勉強していたものね」


 睡眠時間を極限まで削った勉強は幼い頃から続けてきた。なのであまりにも今更な母の言葉だったが、驚きすぎて母の異変について尋ねられなかった。


「あんまり無理するんじゃないわよ。車に気を付けてね。お友達と仲良くするのよ。いってらっしゃい」


 カエダは幼い頃、たまたまクラスメイトが自身の母親と手を繋いで歩いている姿を見かけたときのことを思い出した。


 彼の母は――当時のカエダにはわからなかったが、慈愛に満ちた目で息子を見下ろしていた。車が通る道を避けて歩かせ、決して手を離してはいけないと何度も言い聞かせていた。


 なんでそんなに子供のことを気に掛けるのだろうと当時は不思議だったが、どうやらそれがよくある母親の姿らしいと知ったのはずいぶん後になってからだった。


 憧れてやまなかった母親像が、自分には夢物語だと思っていた母親像がそこにある――。今、目の前に。


「い……」


 カエダは、あの高校に入って、あの高校で栄誉を手にして、そして、ようやく家族に人間として認めてもらえた。


「いってきます、母さん」


 泣き出しそうになりながら、カエダはドアを閉めるぎりぎりまで見送る母の姿を見る。


 穏やかに手を振る母の肩の向こうに、じっとこちらを見つめるずんぐりとした男の姿があった。


 カエダは、兄が、薄目で自分を見ていることに気づいた。


         ●


 兄は、幼い頃から当たり前に優秀で、当たり前にあの高校に入学し、当たり前に優秀な成績で卒業した。


 兄は両親からの愛情を一身に受けていた。何故なら次男には一切の愛情が与えられなかったからだ。


 あらゆる意味で両親の影響を色濃く受けていた兄は、当たり前のように弟を人権なき存在として扱った。街に住み着いている野良猫や庭の樹木の方がまだ丁重な扱いをしていた。


 ただし、最近になって名誉ある高校で学年一位を収めた次男を手の平返して優遇し始めた両親とは異なり、兄は以前にも増して冷淡な態度をとっていた。


 カエダは思う。きっと、そうなるだろうとは予想していた。


 兄はそういう人間なのだ。


         ●


 今朝も、行進は滞りなく進んでいた。


 直近で死亡者が何人か出たので、生徒会の護衛はより強固になっていた。隊列の再編成出たり、行進順序の見直しが行われたりした結果、少なくとも一か月以上は”御蛙さま”に呪われた生徒は発生していない。


 カエダも、今やすっかりその奇妙な伝統に慣れていた。目の前がナナフシなので、その背中を眺めていると程よい安心感もある。


 こんなものをやり遂げることは、これまでの人生の上り坂に比べたら絶対にたやすい。


 それに命が懸かっていると言われたって、『使いよう』によっては悪いものではないのだ。


 カエダは左隣をちらりと見る。


 そこにいるのは、カエダと同じクラスのヒメコガネだった。カエダのクラスで、カエダの次に成績優秀な生徒だ。


 かつてはタマムシをライバル視していたらしい。そのタマムシがいなくなってせいせいしているところにカエダが現れたので面白くないらしく、カエダへの当たりはなんとなく強かった。


 カエダは知っている。


 兄は、高校時代このヒメコガネと同程度の成績だった。


 全国区の高校で学年上位の成績を取ることは、何者にも代えがたい誉れであった。両親にとって、兄は言うことのない自慢の息子であったことだろう。


 そして、ヒメコガネと同様、学力を己のプライドの置き所としている生徒は少なくない。


 だから、カエダは常々思っていた。


 このヒメコガネは、突然めきめきと成績の上がった弟の存在に自身のアイデンティティを奪われた兄に、よく似ているなと。


「ヒメコガネくん」


 カエダは、”御蛙さま”に聞こえないように、ちいさな声で名前を呼んだ。


 カエダはヒメコガネがとてもかわいそうになった。


         ●


 あの高校の生徒の例にもれず、カエダもすっかり葬儀に慣れた異様な少年の仲間入りをしてしまった。


 しかし今日は母校の生徒の葬儀ではない。


 遺族の席に座るカエダは、がま口の中にひとつ増えた包みのことをぼんやりと思っていた。


 (即効性がすごいな)、とも。


 カネダはそのとき、先週通夜を出したばかりのヒメコガネに対して初めて感謝の念を抱いていた。


 母はハンカチがぐしゃぐしゃになるほど泣いている。父は、ずっと肩を震わせていた。


 ずっとのほほんとした顔をしているのもなんなので、カエダは時折神妙な面持ちになってみせた。


 こんな自分の姿を見て兄は地獄でどんな顔をするだろうと想像を巡らしているうちに、通夜は終わりを迎えた。


「お前、来週はクラスの友達の葬儀なんだって?」


 寝ずの番ですることもなく時間を潰している間、父が話しかけてきた。


 頑強な父であったが、さすがに期待をかけていた長男の死が応えたらしい。蛙のような真っ青な顔をしている。


「お前の学校は父さんの母校だから、父さんにも経験がある……辛いよな。でも、必ず行けよ」


 父は生粋のエリートで、だから自分の家系の人間は自分と同じくらい優秀で丈夫だという前提で他人と接する。


 だから、少し前のカエダは人間扱いされていなかった。こうやって父自ら言葉をかけに来るのが、今のカエダには奇跡にすら感じる。


「僕は大丈夫ですよ、父さん」


 カエダははっきりとそう言った。そう言えるだけの自信に裏打ちされていた。


 父は、やつれた顔で満足そうにうなずいた。


「さすが父さんの息子だ」


 眠気が吹き飛びそうなほどにカエダの心は感動で打ち震えていた。


 この言葉の為なら何でもできるとすら思った。


         ●


 生徒会長に進言したのだ。


 最近、彼の情緒が心配だから隣で見守らせてほしいと。


 おかげで行進の再編成のとき、ヒメコガネがカエダの隣に配置された。


 オロチ生徒会長は冷たい人間だと思っていたが、結構話せるとカエダは思った。


「カエダ君。さっきの小テストどうだった?」


 ある日の休み時間、ナナフシがカエダの机にやってきた。


「まぁまぁかな」


「さすが! カエダくんには本当に天才だねぇ」


 オレは全然、とナナフシははにかむ。


「なんだよ情けないなぁ。今度僕が勉強みてあげようか?」


「ホント? 助かるう」


 ナナフシは心底嬉しそうにカエダに微笑みかけた。


 誰が見ても好感の高そうな笑顔だった。タマムシとタイプは異なるが、彼も幸福なレールの上を何の疑いもなく歩んできたことがすぐに見て取れた。


 実際、ナナフシは本人が知ってか知らずかいつも人に囲まれている。学校中に人間関係があるらしい。


 初めての友人ということもあるが、仲良くなって損はないな、と思いカエダはナナフシを受け入れている。


 ナナフシの成績ならライバルにもならなさそうなので、『その手』の安心感もあった。


「あの小テスト、成績にハネるらしいけどカエダくんなら安心だね」


「え……そうなの?」


「うん。あ、内緒だよ? こっそり友達に教えてもらったんだからね」


 カエダの耳にそんな話は届かなかった。おそらく、ナナフシの人脈だから入ってくる情報なのだろう。


 一瞬心が乱れたが、カエダは小さく頭を振って気を取り直した。


 心配することはない。いつもあの小テストは余裕でこなしている。


「……わかった。内緒にしておくよ」


「カエダくんならそう言ってくれると思ったよ」


 ナナフシはカエダの肩をぽんと叩く。


 カエダは、在りし日のタマムシのことを思い出した。


         ●


 その夜、カエダは唸り声を上げながら手元のプリントをぐしゃぐしゃに丸め、勢いをつけてゴミ箱に放り投げた。


 カエダの自室の隣は兄の部屋だった。だからどれだけ騒いでも文句を言う人間はいない。


 カエダは頭を抱えて机に突っ伏す。


 いつの頃からだろう。至極簡単なはずだった小テストで、しょうもないミスを繰り返している。


 それくらいであれば次回から気を付ければいい話だが、徐々に問題そのものを解けなくなっている。


 どれだけ勉強時間を積み重ねてもまるで情報を詰め込み切れなかった、かつてのお粗末な頭に戻ってしまったようだった。


「くそっ! ふざけんな‼」


 カエダは、ふたつの包みが入ったがま口を壁に叩きつけた。


「お前の力はどうしたんだよ! 」


 軽い音だけを立てて床に落ちたがま口からは返事はなかった。


 どうしても落ち着かず、足元からは震えがのぼってきた。カエダは親指を噛む。


 明日は期末試験だ。明日までに仕上げなければいけない。


 なんで学年一位なんてあからさまな福を手に入れてしまったのだろう。一度頂点を取ってしまったら、あとはもう頂点を守りきるか、転げ落ちていく以外選択肢がないではないか。なんて融通が利かない神様なんだ!


 カエダは震えがひどくなっていく足を叩きながら、落ちたがま口を拾い上げた。


「お願いです……お願いです”御蛙さま”……。あのときみたいに、あのときみたいに僕を人間にしてください……」


 心から懇願した。カエダには神しか頼るものがない。


「このままじゃ……通知表の数字が……兄さんよりも良い成績を取らなきゃ、父さんと母さんがなんて言うか……」


 両親にはもうカエダしか残されていない。少し前まで息子を人間扱いしてこなかったことを、まるで存在しなかった期間のように都合よく忘却している両親が、期待以下の数字が並んだ通知表を見たらどんな反応をするだろう。


 カエダはそれを想像するだけで胃がそっくり返りそうだった。


 人間でいたい。父に、母に、存在を認められる、普通の子供でありたい。


 カエダはがま口を机に置き、教科書にかじりついた。


 頭に入れたばかりの教科書の文字が、一瞬で外へと滑りだしていく感覚があった。それはかつての、『自分』という名の蛙にも劣る存在を追体験しているようで、焦りのみが募っていく。


 それでも勉強しなければいけなかった。


 もう、カエダは昔には戻れないのだ。


          ●


 カエダは、在りし日のタマムシのことを思い出した。


 タマムシは出来た人間だとは思うが、呪いを肩代わりしてもらうことに躊躇はなかった。だって、嫌いなタイプだったから。


 ヒメコガネについては熟考の余地などないくらいに死んだ方がいいと思った。


 けれど――カエダは胸の奥がぴりりと痛むのを感じながら、目の前にあるナナフシのちいさな背中を見つめていた。


 今朝も行進は進む。期末考査の初日だったので、隊列全体に若干の疲労の色が見て取れた。


 そういう気配を読み取れるようになったくらいには、カエダは憧れの高校の生徒でいることには慣れていた。


 “御蛙さま”のおかげで編入前より勉強量が減って空き時間ができたカエダを、自分の全てを捧げていたものが消えうせてぽかんとしていたカエダを、この高校の色に染め上げてくれたのは間違いなく級友達のおかげだった。


 彼らとの日々は幸福だった。友人という存在は本当に心を充足させてくれるのだと、カエダは高校生になって初めて知った。


 特に、ナナフシの存在はありがたかった。


 ナナフシの傍にいると、気分が安らぐ。ナナフシと過ごすと、モノクロだった毎日が色鮮やかに染まりだすように感じた。


 ナナフシは小柄だ。その上細くて、少女のようにも見えた。


 カエダは悲しくなった。


 ナナフシはまるで、カエダに福を与えるべく生まれたような抜群の体型、抜群の位置取りをしていた。


 カエダは一瞬だけ目をつむった。


 ナナフがとてもかわいそうになった。


          ●


『第一位:カエダ イタル』


 クラスメイトが――否、学校全体にどんよりとした色が見える中を突っ切り、カエダは廊下に張り出された自分の名前を見上げて深く頷いた。


 隣にナナフシはいない。


 もう二度と、ナナフシがカエダの成果を喜んでくれることはない。


 罪悪感は、一晩眠って夢の中に置いてきた。


 がま口の中には三つ目の包みが入っている。手痛い犠牲だと思ったが、結果を見れば安いものだと思った。

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