がまぐちのなかのかえる

ポピヨン村田

第1話

 蛙を殺した お前が殺した


 蛙は死んだ 潰れて死んだ


 お前を殺した 蛙が殺した

 

 蛙みたいに 潰れて死んだ


         ●


 カエダが一年間もの仮面浪人を経てようやく編入にこぎつけたその高校には、ひとつの奇妙な伝統があった。


 最寄りの駅から校門まで続く、ほぼ直線の1キロ程度の道のり。車の通りが少なく、まぶしい緑にあふれ、最中に交番すらある、限りない平和が約束されたのどかな土地。


 ――を、生徒達が一糸乱れぬ隊列を組んで行進する。


 軍靴の音が聞こえてきそうなほど規律正しい、足並みから表情に至るまで統一された彼らの行進は、地元の名物になっていた。


 いつからその伝統が生まれたのか不明だが、なんにせよ彼らは全国区の名門校の生徒である。文句を言うものはいない。


 ただただ、奇妙なのであった。


         ●


 何が彼らをあそこまで必死にさせるのであろう。当然の疑問をカエダも抱いたが、さしたる抵抗はなかった。


 念願叶って在籍することを許された高校だ。カエダは幼い頃からあの校門に吸い込まれていく生徒の一員となる夢を抱かされ、それが叶ったのだから、今更ささやかな疑問を呈することなどしない。


「……以上が朝の通学の説明です。何か質問は?」


 編入初日に生徒会室に呼び出されたカエダは、さっそく例の伝統に関する手ほどきを受けた。


 自分が行進を始める時間、前後左右の生徒の顔ぶれ、腕と脚の上げる高さ、どの時間にどのポイントを通過するかまで、細かく指定された。


 必死でメモを取ったカエダは、首を横にぶんぶんと振った。生徒会長に頭の悪い生徒という第一印象を持たれたくなかった。


 オロチ生徒会長は、絶対的な権力と恐怖を利用して名門校という名の食物連鎖の頂点に堂々と君臨する男である。


 誰もが彼の威光にひれ伏し、あやかりたがる。カエダは自分がオロチの居座るピラミッドの頂点に手をかけられるとは夢にも思っていなかったが――少しでもいいからそのおこぼれには預かりたかった。


「君の右側を割り当てられているタマムシくんは、君と同じクラスです。色々彼に習うといい。……ああ、それと」


 オロチは、険しい視線でカエダを射抜く。


 カエダは平静を装いながら、内心震えあがっていた。


 何もかも見透かすかのような鋭い瞳で睨まれると、ガマガエルのように脂汗がにじむ。


「あの行進はあくまで”非公式”なイベントです。よろしいですね?」


 オロチの言葉の意味を取りかねて、カエダはあいまいな返事をした。


         ●


「よお、おはようカエダくん」


 行進のデビューを飾る日の朝、カエダはオロチに紹介された生徒と顔合わせをした。


 タマムシは、フワフワと軽そうな毛髪と夏の日差しのような快活な笑顔が印象的な少年だった。


 初めての行進を控えて緊張で胃が痛くなっていたカエダは、頼りにしていた生徒が”この手”の少年であったことを知って口の中が苦くなる。


「……おはよう」


「なんだよ元気ねぇな。もしかしてビビってんの?」


(余計なお世話だ)と、カエダは心の中で毒づいた。


 欝々とするカエダの背を、タマムシはどん、と思いきり叩く。突然の暴力にカエダは思わずせき込んでしまった。


「だーいじょーぶ! 俺がいるから平気だって! 余計なこと考えずに足並みそろえて真っ直ぐ行進すれば”御蛙さま”は何もしないからさ」


「……オカエルサマ……?」


 早々と会話を切り上げたかったが、耳なれない単語が気になってつい聞き返してしまった。オロチはそんな言葉を口にしていただろうか?


 途端、心根の明るさが表情ににじみ出ているかのようだったタマムシの顔に、みるみる影が落ちていく。


「あーそうか、生徒会長はそこまで言わないか……」


 カエダは何か非常にまずいことに触れてしまったらしく、タマムシはきまり悪そうに頭をぼりぼりとかいた。


「……ま、そのうちわかるって! ……わからない方が幸せかもしれないけど……」


 腹の中に緊張と、自分とそりが合わなそうな生徒に対する重荷と、得体のしれない気味の悪さが混ざったまま、カエダの行進の時間がやってきた。


         ●


 初めての行進の前日の夜、カエダはらんらんに目がさえて眠れなかった。


 行進の列を乱したらどうしよう。あの行進の意味はわからないが、あの一体感には必ず意味がある。


 もし、あの機械のようにシステマチックな行進の汚点が自分になったらと考えた瞬間……。せっかく訪れかけていた眠気が吹き飛んだ。


         ●


 しかしいざ行進が始まってみると、自然と身体が動いた。


 完璧に規律が取れた集団というのは恐ろしいもので、周りの足踏みの音が、腕を振るスピードが、無意識に自分自身へと同期されていく。


 おまけにこの行進は集団心理のみで形成されているわけではなく、生徒会の役員が隊列のあちこちに配置され、さりげなく乱れた部分を調整していた。


 オロチはこの場にはいない。


 生徒会長のような『頂点』の生徒達は、彼らのみで集まって、もっと朝早くに登校行進をするのだと訊いた。いかにも自分には関係なさそうな話題なので、カエダは聞き流していたが。


 今日のところはカエダの編入初日にオロチの傍に控えていた小柄な生徒――確かヒルマという名だったが――この行進の指揮を執っているようだった。


 オロチと目が合っただけで身がすくんでしまうカエダは、精いっぱいまじめな表情を作りながら、心底をほっとしていた。


 これならなんとかやっていける。よかった、脱落したらどうしようかと思った。


 当座の心配事が解消されて、上がりきっていた心拍数が徐々に平坦になっていくのを感じる。


 だから油断していて、“それ”が目の前で起きたとき心臓が口から飛び出しそうになった。


「あっ」


 カエダの右斜め前を行進する生徒――詰襟の形から、おそらく一学年先輩だろう――が、道路の何かに蹴つまずいて、カエダの視界から消えた。


 行進がぴたりと止まり、カエダもつられて足を止めた。


 転んだ先輩は、道路に四つん這いになったまま動かない。


 他の生徒達は、誰一人としてその先輩を助けようとしない。しかも、一人くらいはその姿を哀れむのではなく、腹を立てて舌打ちの一つでもしそうな生徒がいてもおかしくないと思うが、それすらない。


 その様子を、他の生徒達は誰も見ようとしない。


 カエダは混乱した。


 何かが起こっている。尋常ではなく異常な、何かだ。


 そして自分は、その異常に対して何もできない。だって、何が起きているのかすらわからないのだから。


 やがてその先輩は、ワナワナと震えだした。


「あっ……オレ……あぅっ、あっ」


 先輩は頭を抱えた。やがて、恐る恐ると言った様子で後ろを振り返る。


 カエダが見たその顔は、驚くほどに真っ青だった。


 先輩は絶叫した。絶叫しながら機敏な動きで立ち上がり、他の生徒を突き飛ばして走り出した。


 カエダは目を閉じる。しかし幸運にも、先輩の暴走からは免れたようだった。


「うわっ!」


「ふ……ふざけ……ああ!!」


「嘘だ……! なぁ嘘だろ……!!」


 先輩の姿がどこかへと消え去ったあと、突き飛ばされた何人かの生徒は、姿勢を崩していた。


 皆一様に、あの先輩のように真っ青な顔をしている。誰もが、まるでこの世の終わりのような表情をしていた。


 怪我をしているようにも見えないが、それにしてもひどい怯えようである。


 一体、一体何が起こっている……?


 混乱から抜けきれず、カエダは事態を傍観していることしかできなかった。


 そのうち、どこからか、ホイッスルの音が鳴り響いた。


 すると生徒達ははっとしたようにその場で足踏みを始める。


 そして細かく刻んだホイッスルの音に合わせるように、行進を再開した。


 カエダもつられて行進する。身体が勝手に、そのように動いていた。


 突き飛ばされた生徒達は、行進に置き去りにされている。最初からいなかったように、存在を無視されている。1列に進む蟻の群れが障害物を避けるかのように、その生徒達がいた場所を行進は規則的に避けていく。


 カエダも、気づいたらそのように動いていた。


         ●


「運が悪かったなぁ、カエダくん」


 朝のホームルームの中で、担任教師からクラスに向けてカエダの紹介が行われた。


 しかしクラスメイト達は沈鬱な表情をしており、新たな仲間を迎え入れる余裕などない様子だった。


 唯一、少しは勝手知ったるタマムシだけが明るくカエダを受け入れていた。それでもやや暗い面持ちをしていたが。


「登校初日に”御蛙さま”の祟りを見ちゃうなんてな」


「……あれは一体何だったの?」


 カエダは、この高校に入りさえすればどんなこともできると思っていた。


 ささやかな悪習には目をつむり、臭いものには蓋をし、とにかくこの高校の生徒でいられるように努力しようと覚悟を決めていた。


 しかし、あそこまでの異常事態は予測していなかった。


「その『オカエルサマ』って、一体なんなの?」


「聞いての通り、蛙の神様さ」


 タマムシはかいつまんで”御蛙さま”について語り始めた。


         ●


 この地域には、いつの頃からか土着の神の伝説がある。


 その神は蛙の姿をしているから”御蛙さま”と呼ばれていた。田んぼや水路が多い土地だったので、住人が自分たちの生活を支える守り神の化身ということにして蛙をそう呼び始めたのだ。


 ある日、この高校の前身たる私塾の塾生が、蛙を殺して自分のがま口に入れた。


 その塾生は成績不良に悩んでおり、私塾を追われる寸前だった。それが褒められた行いでないとわかっていながら、藁にも縋る思いで、”御蛙さま”をお守りとしてがま口に入れたのである。


 ”御蛙さま”を殺めたその日から、その塾生はツキにツキはじめた。


 低迷していた成績は持ちなおし、間もなく私塾で一番の成果を上げた。私塾を追われるどころか、東京の義塾に推薦されるほどまでにその塾生は”御蛙さま”の恩恵を受けたのだった。


 ”御蛙さま”を殺して財布に入れれば、ツキが巡ってくる。


 その噂はあっという間に私塾に広まり、塾生達は皆一斉に真似し始めた。そしてそれぞれの福を手に入れた。


 しかし同時に、悪い噂も広がり始めた。


 ある塾生は、馬に蹴られて重傷を負った。

 

 ある塾生は、父が愛人を作って逐電したことから家庭が崩壊した。


 ある塾生は、昨日までぴんぴんしていたのに、唐突に四肢が動かなくなり寝たきりとなった。


 その頃から、私塾の周りには蛙が増え始めた。


         ●


「昔からこの辺りには益獣なんていくらでもいた。兎は肉になるし、猫は鼠を食べる。その中で、何で蛙が他の動物と違って特別に崇められてきたかわかる?」


 タマムシが尋ね、カエダは首を横に振った。


「くだらねーダジャレさ。生きる上でどうしても手放さなきゃいけなかったもの――例えば年貢として捧げた金子、貧乏で泣く泣く吉原に売った娘、嵐でめちゃくちゃにされた刈り入れ寸前の稲――そーいうものが『カエル』ように、願をかけたってこと」


「ああ……受験とか勝負ごとの時に食べるトン『カツ』とか、お祝いの日の『たい』の塩釜焼とか、そういうの?」


「そうそう」


 それは確かにくだらないが、昔の人の考えることだしそういうものではないか……と思い始めたカエダの脳裏に、あまりにも嫌な想像が浮かんだ。


「まさか、”御蛙さま”に福を授かった塾生は……」


 今度はカエダが尋ね、タマムシが首を縦に振った。


「最初に成績に悩んでいた塾生はな、ある日試験で不正がバレて、追われて逃げている途中で水路に落ちて死んだんだ」


 カエダは胸のあたりがかき乱されたかのようにそわそわしてきた。


「あがった水死体は体中が膨れて、顔が真っ青で、まるで――」


「蛙みたい?」


 話の先行きに耐えられなかったカエダは、思わずタマムシの言葉を遮ってしまった。


 しかしタマムシの不気味な昔物語は止まらない。


「そう。他にも蛙を殺して財布に入れた塾生は、次々と得た富を失って、挙句に何らかの理由で命を落とした」


 耳を塞ぎたかった。そこまで言われれば、カエダにもわかってしまった。


 彼らは、蛙を殺して望むものを手に入れた。しかし、この土地には蛙にまつわるくだらない信仰もある。


 蛙は、カエル。蛙を潰して殺せば、殺した人間の命は――。


「で、でもさ……」


 カエダは自分の想像が恐ろしくなって、慌てて話を元に戻した。


「そんなの、よくある迷信だろ。大体、あの行進と”御蛙さま”を殺して財布に入れた塾生とどんな関係が――」


「この話はこれで終わりじゃないんだよ」


 タマムシはふと後ろを振り返る。


 そこには、今朝の行進で先輩に突き飛ばされた生徒がいた。クラスメイトだったらしい。


 彼は自席に腰かけ、固く握りしめた拳を机に置いたまま、まんじりとも動かない。その背中は、到底気軽に声をかけられない暗い感情を負っていた。


「……気の毒にな、アイツ。”御蛙さま”に呪われちまったんだ」


「だから、それってどういう……」


「神様ってのはさ、人間の顔の区別が実はちゃんとついてないんだって」


 タマムシは細くため息をついた。


 そしてせわしない様子で髪を執拗に掻きむしる。


「自分の眷属を私利私欲のためにたくさん殺された”御蛙さま”はそれはもう怒って、あの私塾の後身であるこの高校の生徒を今でも呪っている」


 カエダはタマムシの言ったことを思い出した。


 私塾の塾生が、最初にがま口に蛙を入れるのを真似しはじめたころから、私塾の周りには蛙が増え始めた――。


「だから生徒達は自衛するしかなかった。”御蛙さま”に正体を見破られないように、他の人間と寸分違わない動きをすることで、”御蛙さま”の目から逃れた――もし、他の人間と違う動きをしたら、”御蛙さま”の目にとまっちまう」


 カエダは頭を抱えた。そして、タマムシのように掻きむしり始めた。


 地元で評判の奇妙な伝統に、そんなに理不尽で不気味な事実が潜んでいたなんて。


 カエダは、不幸にも行進の列から外されてしまった生徒を見やる。


「……あの人、死んじゃうの?」


「死んじゃうよ。もうどうにもならない」


「じゃ、じゃあ……!」


 カエダはタマムシの胸倉を掴んだ。


「どうして……いつ死ぬかもしれないってわかってて、どうしてあんなことを続けるんだ⁉」


 クラスメイト達は皆カエダの突然の暴力に誰も興味を示さなかった。


「……そんなのわかるでしょ、カエダくん」


 誰からも好かれやすそうな明るい輝きを宿すタマムシの瞳の奥に、一瞬だけ影が見えてカエダはひるんだ。


「この学校に入るの、すげー大変だったでしょ。チビの頃からずっと勉強してやっと入学できたんだよ? ね?」


 カエダの脳裏に、これまでの苦労の日々がよみがえった。


 人生の全てを賭けた高校受験。友達との公園での鬼ごっこも、漫画やゲームも全て捨てて、教科書とにらみ合った日々。親兄弟から、親戚から、多大な期待をされて望んだあの日。


「わかるでしょ? カエダくん」


 カエダは、あの命を懸けた行進を、するしかなかった。


         ●


 編入初日は、つつがなく、平穏に、しかしクラスメイトの死と隣り合わせであるままに終了した。


 夜になり、カエダは自室のベッドで横になり、天井を見上げる。


 昨日は眠れなかったから、今日はその分眠れると思ったが、余計に目が冴えた。


 文字通り、命を懸けて入った高校だった。子供時代をこの高校の入学に捧げたと言ってもいい。


 風呂上りで綺麗になったばかりの肌に、脂汗がうっすらにじむのがわかる。


 まさか、本当に命を懸けることになるとは思わなかった。


 あの真っ青な顔の先輩の、クラスメイトの顔が、海馬にこびりついてしまった。


 伝統と名誉ある高校の生徒である彼らは、日々あんな恐怖に耐えているというのか。


「む――」


 カエダはつい言葉に出してしまい、毛布を抱きしめる。


「無理――無理だよ――」


 逃げなくては。あいつらはおかしい。呪いの中にいながら、呪われた級友を横目にしながら、何事があったか理解しているのに何事もなかったかのように生活している。


 カエダは深呼吸して目を瞑り、そして大きく開く。


 両親にこのことを打ち明けようと覚悟を決めて――しかし、天井に、在りし日の自分が映った。


『お前はあの高校に入る以外の選択肢はないんだよ』


 父は、カエダが物心ついた頃から口癖のようにそう言い続けてきた。


『お父さんもおじいちゃんもおじさんも、みんなあの高校出身なのよ』


 あまりにも印象深い父の台詞を皮切りに、天井には数々の思い出が、カエダの人生の中にいた人々が、どんどんあふれ出してくる。


『お兄ちゃんは受かったわよ。次はあなたね』


『まぁ当然だな』


『お前が俺と同じ高校? あの成績で? 冗談だろ?』


『ダメねこの子。ほんっとダメ』


『お父さん、残念ですがご子息の成績でこのランクの高校は難しいです。もう少しご検討を……』


『先生、私の息子にあの高校以外の生徒はおりませんので』


 そして、カエダは、当然のように志望校に落ちた。


 それからの一年は、別の高校に通って過ごしていた。その間のカエダに人権らしいものはなく、友人もいなかったので、同い年の少年に遅れてやっとあの高校に入学するまで、カエダはこの世界に己の居場所を見失っていた。


 カエダはごろりと寝返りを打ち、今朝のタマムシの瞳の奥の黒々としたものを思い出す。


『この学校に入るの、すげー大変だったでしょ。チビの頃からずっと勉強してやっと入学できたんだよ? ね?』


 あの高校の生徒となることを志した頃から、カエダは鏡を見るたびに自分の瞳の色が濁っていくのを知っていた。


 タマムシの瞳の奥にもあの色があるのだ――そう理解したとき、カエダは初めてタマムシという人間を少しだけ身近に感じた。


「ごめんね、タマムシくん」


         ●

 

「ごめんね、タマムシくん」


「何が……? あ、うわっ!」


 翌朝、朝のホームルームが終わると同時に、カエダはタマムシに声をかけた。


 どこかへと行こうとしていた彼は、カエダに呼び止められたために自席に腰を掛けようとした。しかし、すぐに慌てて立ち上がった。


「うわっ、なんだこれ!」


 タマムシの椅子には、真新しいビニール袋があった。中にはやわらかいものが入っている。


「気持ちわる! さっきはこんなのなかったのに!」


「大丈夫……? それ、後で僕のゴミと一緒に捨てておくよ」


 タマムシはひきつった顔でビニール袋をつまみ、「頼むわ」と短く言って、ささっとカエダにそれをよこして手をひっこめた。


「それで、どうしたん?」


「あ、いや……」


 カエダは口ごもった。


 特別、何を言うか決めていたわけではないのだ。ただ、タマムシに話しかけたかっただけだった。


「……昨日、突き飛ばされた子。今日学校来なかったね……」


 言わんとしたことを察したのか、タマムシは沈痛な面持ちをしてカエダの肩に手を置いた。


「……ああ……もう、あいつのことは忘れたほうがいいよ。いい奴だったけど、しかたねーよ」


 タマムシはぽんぽんとカエダの肩を優しく叩いた。


「……昨日の今日だからそんな顔にもなるよな。……でも、ま……そのうち麻痺してくっからさ……」


 カエダはきゅっとビニール袋を握りしめる。


「こういう学校だから友達作るのこえーかもしんねーけど……オレたちは仲良くやろうぜ」


 カエダは、タマムシの引き結んだ唇から色々察した。


 彼は、こんな風に、一体何人の友人を理不尽な呪いで亡くしてきたのだろうか。


 顔を合わせたばかりの頃は、正直苦手なタイプだな、と思っていた少年だった。


 カエダは、タマムシがとてもかわいそうになった。


         ●


 地元名物の学生行進は、下校時にも行われる。


 一定のリズムで刻まれる足音はとても小気味よいが、登校時ほど音は大きくない。


 部活動がある集団、委員会活動がある集団、生徒会長が選び抜いた人選のみを抽出している生徒会特別編成隊列と、生徒の生活スタイルやステータスごとに行進のグループもきっちり分けられているからだ。


 放課後学校に用がない生徒は、最初の集団下校のグループに強制的に入れられる。カエダはこのグループに割り当てられていた。


 タマムシは帰宅部だ。それを知ったとき、カエダは心底ほっとした。


「君が隣だと安心するよ」


「だろ? リラックスしなよ」


 カエダはタマムシと軽いトークを交わして、校門を出発した。


 直前は過呼吸になりそうなほど緊張するが、歩き出しまえば実にスムーズに行進を進められる。


 生徒会役員の先導も実に滑らかだ。――しかし、カエダは緊張を燃料に全力で集中した。


 地元住人が朗らかな顔で見守るこの変わり種の伝統に、自分の命と、命と同じくらい大事な高校生活がかかっているのだ。一部の隙もあってはいけない。


 カエダはそっと、横目でタマムシを見た。


 全体像ははっきり見えないが、カエダと一部も違わない行進をしているようだ。しかし、緊張の香りは常に濃厚に漂っていた。


 たぶん優しい家族や友人に恵まれて、この世のあらゆる幸福を享受してきたであろうタマムシという少年に、ここまでの重圧を持たせる”御蛙さま”の呪い。


彼は何回、この修羅場にも等しい伝統をくぐり抜けてきたのか。


カエダは自分のことを、他の同年代の少年に比べてひどい境遇を生きてきた人間だと信じていた。


 だから自分以外の少年が、追い立てられるような恐怖や誰にも救い上げてもらえない悲壮感の中にいることを、とても想像できなかったのだ。


特に、タマムシのような系統の少年には。


 だから、カエダは、タマムシがとてもかわいそうになった。


「あっ……」


 タマムシの、ひどく気の抜けた声が、軍靴にかき消された。


 それでもその場にいた全員が、タマムシの魂の奥からひねり出たその声を聞いたことだろう。


 カエダはそう確信して、タマムシを見下ろした。


「……」


 地面に両手を突き、しばらく静止していたタマムシ。


 まるで何年も経ったかのような数秒が流れたのち、タマムシは呆気にとられた顔でカエダを見上げた。


 怪我はしてなさそうだな、とカエダは思った。


 転んだ拍子にどこも傷にはならかったらしいが、顔はみるみる青くなっている。


 タマムシのようなタイプは運動神経に恵まれていると思っていたので、ちょっと転ばしたところで平気だろうとカエダは踏んでいた。


「えっ……嘘……っ……なんで……」


 帰宅グループの全員が、無機物かのように無言で静止していた。


 全員が無表情であったが――タマムシの顔色が伝染した者、中にはあからさまにホッとしている者もいた。


 ホイッスルが鳴り響く。生徒達は速やかに整列し、再び下校の行進へと戻っていく。


 タマムシが倒れている場所を、まるで障害物が置かれているかのように、無機質に避けていく。


 カエダは無言で生徒達の行進の波に身を任せた。


 一定のリズムを刻む軍靴の音と共に、行進はどんどん進んでいく。決して振り返ることなく。


 背後に、タマムシの視線を感じながら。


 カエダはちょっとだけ後ろを振り返りたくなったが、すぐにその考えを捨てた。


 何故なら、隙があってはいけないのだから。

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