第23話

 闇の中を息を切らしながら走っていた。

足元はヘドロのように酷くぬかるんでいる。明かりは何一つ見当たらない完全の常闇だ。何かを掴んでいたことに気がつく。

そこだけ淡く光っていた。


 なんだ――

 眼を凝らす。


 それは、強く握ってしまえば容易く砕けてしまいそうなほど、小さなガキの手だった。らしくない繊細な力加減で握ってる俺の手も、同様に淡く光っている。

 どうしてこの手を握ったまま駆けていたのか、さっぱりわからない。わからないが、その手から伝わる温もりだけは体が覚えていた。


 俺はこの温かさを知っている――


『離してしまえよ』

 ひたすら駆けていると、姿を現さない誰かが囁いた。

『お前に誰かを救うなんて真似出来ねぇよ』

 救う?俺は誰かを救おうとしてたのか?この俺がか?そんな馬鹿な。


 それまで走り続けていた脚が、突然重くなった。立ち止まった脚はズブズブとぬかるみに沈んでいく。

 見下ろすと俺の足を誰かが掴んでいた。

それは今までに俺が殺してきた連中だ。名も知らぬ亡者達が、俺を光が届かないぬかるみの底へと引きずり込もうとしている。

 

どいつもこいつも洞穴のような真っ暗な眼窩で俺を睨み、怨嗟の嘆きを撒き散らしながら俺の脚を掴んで離そうとしない。

 いくら振りほどこうとしても亡者の数は増してくばかりで、そのうち前にも後ろにも進めなくなる。

 すると、それまで掴んでいたガキの手が誰かに引き剥がされるように、俺の手からすり抜けていった。


 後を追おうにも身動きがとれない。

 ゆっくりと沈んでいく体をただ見つめるしかできなかった。


『これまで散々人を殺してきたんだ。今更自分だけが救われようなんて思うなよ』

 埋もれていく下半身はもはや感覚がなかった。

 ここで立ち止まるしかないか――

 手のひらを見つめると、まだほのかに熱が残っていることに気がつく。感触もまだ残っていた。


 俺は、俺は――






「なんだ、この番号は……」

「どうしたの?」


 それまで歌舞伎町の慌ただしい映像が流れていたスマホの画面に、見知らぬ番号が写し出されていた。意を決して電話に出ると、息切れをさせた女が出た。


「誰だ」

「あなたが奥寺さん?」

予想を裏切り、俺の名を呼ぶ声は女のものだった。名前を知られてるところから、どうやら間違い電話の線は消えた。

「どうしてこの番号を知っている」

この際女がどこの誰かはどうでもいい。だが、とうして俺の番号をしっているのかを問いただす。

「そういうのいいから、ちゃっちゃと用件だけ伝えるわよ」

「おい、人の話を聞け」

 こちらの話などお構いなしに女は話し続ける。驚いたのは電話の向こうから発砲音が聴こえたことだ。

「明日の午前二時、横浜港本牧ふ頭B突堤を出港予定の台湾行きの貨物船の中に、みんなが血眼になってお探しの可欣ちゃんを乗船させる予定よ」

「……は?どういうことだ」

 その聞き捨てならない情報をさらっと話す女に、始めて興味が湧いた。


「そもそもお前は一体何者だ。何処でそんな情報を知り得たんだ。その情報の信憑性は?突然電話を掛けてきた素性も知らぬ相手を信用しろと――」

「私は血吸蝙蝠。あなたも公安の端くれなら名前くらい知ってるでしょ?」

尋ねられたから答えたという気安さで、招待を明かした女に開いた口が塞がらなかった。その忌み名は知っている。過去に何度も煮え湯を飲まされ続けてきた因縁の相手だからだ。

「お前が……あの指名手配されてる血吸蝙蝠か。まさか女だとはな」

「どこかで聞いたことある台詞だけど、今追われてるから、あまり話してる余裕ないの。お願いだから私の願いを聴いてもらえないかしら」


 息切れが聴こえるのは、どうやら何者かに追われているのが原因のようだ。それもかなり切羽詰まっている状況と見た。

「俺に何をしろと」

「劉英俊という男が、横浜港の倉庫に囚われているから助けてほしいの。私は……逃げるので精一杯だから。あと可欣ちゃんのこともお願いわね!」

「おい。一体なんなんだ!……くそ、切れた」

 一方的に依頼を告げると、通話を切れてしまった。



 ノゾミに目を向けると、やはり不安そうな顔をしている。

「どう考えてもヤバい話じゃん」

「まぁな。普段なら信じるに値しないだろうが……」

 だが、もし女の話が本当だとしたなら、可欣と共に横浜港にいる劉英俊という男が、今回の一件に無関係とは到底思えなかった。

 不安げな顔で見上げてくるノゾミの頭を撫でて、自分の意思を告げる。


「大丈夫だ。これでも修羅場は潜り抜けてるほうだからな。何があってもお前の事は傷一つつけさせやしないから」

 すると、俺の言ったことが検討違いだったのか、目を見開いて怒りだした。

「何言ってるのよ。今さら傷なんて怖くもなんともないに決まってるじゃん。それよりも……話が本当なら今すぐ可欣ちゃんと、その劉英俊って人を助けてあげないと!」


 なんだ、そっちの心配か――少し残念だと感じたのは誰にも内緒にしておこう。

「そうだな。まずはその為にも横浜まで向かう足を見つけないと行けないんだが……」

 公共機関は脚がつきやすいので却下、検問が至るところに張り巡らされてるので車も難しい。

 徒歩なんて論外も論外――

 時計を確認すると、午後十一時になろうとしていた。自然と選択肢は狭まる。

 どうやって移動手段を手に入れるか悩んでいると、名案を思い付いたように「そうだ!」とノゾミは自らのアイデアを披露した。


「あのさ、パトカーなら検問も抜けられるんじゃない?」

「あのな、確かに緊急走行をしてるときは確かに検問も抜けられるけどよ、その車をどこから調達するんだ。まさか警察署の正面から貸してくれなんて頼める訳もないだろ」

「じゃあ例えばさ……」

 すると、言いづらそうに上目遣いで尋ねてくるノゾミに嫌な予感がした。

「おい……まさか」


 無言でうなずくと、薄暗い駐車場に停めてあった車の横にしゃがみ語りだした。

「昔ね、一時期付き合っていた彼氏が、よく車を盗難して生計を立ててたんだけど、私も片棒を担がされてたんだ」

「それって……」

 小さなバッグから取り出したのは、よく仕事で目にする小道具だった。見てて、と告げると鍵穴に狙いを定め、手にした工具を差し込もうとする。

「うん。ピッキングツール。これでよく私も盗難の手伝いをしてた。ただでさえ汚れてるのに、軽蔑するよね」

 力なく笑って解錠を試みようとするノゾミの手を、思いきり掴んで止めさせた。


「もうこんなことはするな……。お前の代わりに俺が警察署から

「ふふ。とんだ正義のヒーローだね」

 それから最寄りの警察書に忍び込み、人の目につかないようパトカーを拝借するのは骨が折れたが、こんなところでむざむざ捕まるつもりはなかった。

 俺は、俺が捨てた正義を今度こそ貫く――


「な、貴様!何してるんだ!」

 アクセルを踏み込み、ギョっとした顔の制服警官を置き去りにすると、いざ横浜港を目指し夜の街を駆け抜けていった。





「なによ。全然片付けに来ないじゃない」

 とっくに食べ終えた空のプラスチック容器を眺めながら悪態をつく。

 体が鈍らないようストレッチをしていると、普段なら定期的に訪れる配膳係(?)の男が訪れないことにほんの少し違和感を感じ、体を捻るついでに耳をそばだててみる。


 ――おかしい……。足音どころか笑い声すら聞こえないなんて。


 ここ数日、軟禁されている間にわかったことは、この建物のなかには十数人の若い衆が交代で寝泊まりをしているということだ。

 どうやら全員が辻村の駒のようで、決まった時間になると女性の声を伴ってこの建物に帰ってくることも多々あった。

 普段馬鹿騒ぎしている連中の下卑た笑い声すら聞こえない日なんて、これまでただの一日もなかったはずなんだけど。


「なんだか静かすぎるわね……どうしたのかしら」

 なんだか嫌な予感がする――

 外の様子を確認しようと、ゆっくりとドアに近付いてドアノブに手を掛けようとすると、私が回す前に扉が開いた。


「あ」

 ヤバい、終わった――

 もしこの部屋から抜け出そうとしていたのがバレてしまったら、私はどうなってしまうのか。

 一瞬の間に、脳裏にはまだ再会を果たしていないまな娘の姿と、幼い頃に別れた男性の顔が浮かぶ。


「こんにちは。あなたが秋本奈穂子さんであってるよね?」

「え、ええ……どなたかしら」

 目の前に現れたのは、想像していたような大柄でも仰々しいタトゥーが入ってるわけでも恐ろしい容貌をしてるわけでもなく、どこにでもいそうな、一見するとヤンチャな青年だった。


「悪いけどついてきてくれる?予定が押してるから巻いていこ~」

「あ、ちょっと」

 彼は私の手首を掴むと、有無も言わさず連れ出そうとする。私とそう変わらない手首の太さなのに、振り払おうとしてもびくともしない。

「ちょっと待ってって!勝手に出ていったら監視してる男た……ちに?」

「大丈夫だよ。《掃除》は済んでるから」

 名も知らぬ彼がそう告げる前に、目の前の光景に言葉をなくした。

 そこには私を恐怖に陥れた男達が、狭い通路に折り重なるように倒れていたから。

 全員が全員、首から血を吹き出して事切れていた。


「……これ、あなた一人でやったの?」

「ん?ああ、雑魚キャラがわらわら沸いてきて鬱陶しかったからね」

 エレベーターは作動していなかったようで、一階に降りるまで階段で降りるしかなかったけど、まるで出口まで案内するように幾人もの屈強な男が血溜りの中に倒れていた。


「酷い……なんなのこれ」

「救いだしに来たんだから、文句言わないでほしいんだけど」

 まるでポイ捨てされたゴミを踏むような感覚で亡骸を足蹴にしながら、彼は子供のように口を尖らせる。

「あんた何者なの?」

「何者かぁ……」

 掴み所がまるでない男性は、初めて私の問いに足を止めた。

「それは僕にもわからないなぁ」



 

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