第14話

蛇頭ジャトウ

 公安に身をやつしていれば、中国福建省を拠点とする、国際的な密入国斡旋ブローカーの蛇頭を知らぬ者はいない。

 全盛期の勢いを失ったとはいえ、天安門事件以降の90年代に日本への密入国ビジネスを奴等が牛耳っていたのはあまりにも有名な話だ。

 2002年に日中間で行われた連携作戦の後、日本への密入国者数は確かに激減した。あくまで数字上での話に過ぎないが。


 いつの時代も、黄金の国日本ジパングへいざ向かん、と夢見て密入国という最も愚かな手段を選ぶ中国人は多い。それに加え、近年は東南アジアからの密入国者も増えている有り様だ。

 蛇頭は決して弱体化などしていない。更に食指を海外に伸ばしていただけなのだ。


 劣悪な船内の環境に耐え、無事監視の網を掻い潜り日本に降り立った彼らを待ち受けているのは、容赦のない現実せかいである。

 不法入国を犯した彼らは、まともな職どころか住居すら確保できない。結果的にほぼ全ての中国人が、その後の生活の全てを蛇頭に頼らざるを得なくなる。

 男は蛇頭の息のかかった工事現場などに二束三文で駆り出され、稼ぐ術がない彼らは断る事も出来ずに、僅かな日銭を稼ぐ為に過酷な肉体労働を強いらる。そしてそう遠くない将来に体を壊す。

 その日当からも蛇頭へ支払われる金額が天引きされるのだから、どれだけ稼ごうが金など貯まるわけが無いのだ。


 だが、男はまだいい。不幸な人生だが、とも言えるから。

 これが女ともなると悲惨極まる。日本語も話せない。特殊技能も持っていない。男と同じ条件でも彼女たちを待ち受けているのは――手っ取り早く稼ぐための風俗への一本道だ。それも一旦堕ちれば一生這い上がることの出来ない坂道ときている。

 残念ながら彼女等を受け入れる違法風俗店は日本各地に点在し、この歌舞伎町にも蛇頭が運営、もしくは関与している店が把握しているだけで十店舗も存在する。

 この「ヘヴン」もそのうちの一つであり、奴等のシノギの一つでもあるわけだが――


 地下に降りたった俺は、仕事柄鍛えられた嗅覚で辺りに漂う違和感をつぶさに感じ取っていた。

 昼間だというのに蛍光灯も灯されていない通路は、まるで夜をまるごと詰め込んだような粘度の暗さをもって俺を出迎える。灯りを点けなければ何も見えやしない。

 手探りで探り当てた照明のスイッチを執拗に押したが、ただの一度も天井の明かりが灯されることはなかった。電球が切れてるのか、はたまた最初ハナから電球ごと外している倹約気質なのか知らないが、一階から僅かに落ちてくる光源だけが辛うじて足元を照らすのは、早くも老眼が始まった俺にとっては辛いものがある。

 スマートフォンのライトを機動させ正面にかざすと、奥に向かうほどより一層闇は濃く、深くなっていくのが窺えた。

 まるで、これ以上先に進むな――そう俺に警告をしているようだ。


「おーい。誰かいないのか」


 一歩一歩前に進みながら、ひたすら闇に呑まれていく問い掛けを繰り返す。

 これまで修羅場と呼べる状況はいくらでも潜り抜けてきたし、捜査一課に配属されていた頃とは比較出来ないほど危機的な状況を掻い潜ってきた。自然と危機察知能力も磨かれてきたと自負していたが、

「これは……」

 床に飛び散っていたを目にした瞬間、頭蓋の中で強烈なアラーム音が鳴り響く。思いきり顔をしかめ舌打ちをしてしまった。

 どうやら先程感じた違和感はハズレではなかったようで、足取りがより一層重くなる。

「こりゃ面倒なことになってそうだな……」

 必要以上に明るいライトが照らす先、白い床に付着した大小の赤黒いシミが転々と続いていた。


 しゃがんでシミに触れてみると、かなりの時間が経過しているようで表面は完全に乾いていた。汚れを落とすように指先でなぞると、ペンキのようにひび割れた。

 汚れた指先に鼻を近づけると、微かに独特な臭いがする。そのシミは紛れもなく血であった。

 その血痕が俺を案内する道標かのように、通路の奥まで伸びている。

 これ以上先に進むな――頭蓋内でけたたましく鳴り響くのは、やはり俺を留めようとする緊急アラーム生存本能の音。

 もちろん実際に鳴り響いてる訳じゃないが、不測の事態に陥ったときはいつだってこの止められやしない騒音が、頭の中でガンガン鳴り続けるもんだ。


 ――アラーム?そんなのは気のせいだろ。

 同僚には鼻で嗤われることもあった。確かに医学的な根拠なんてものは存在しないし、他人にこの現象を上手く説明することはできない。

 どうしてこのタイミングで、という大事な場面で二の足を踏むことも多々あったし、公安の恥だと切り捨てる輩もいた。


 ――そう感じるのはお前が臆病だからだ。

 そうのたまう同僚もいた。臆病?臆病で結構。臆病を嗤って消えていった奴をごまんと見てきた俺からすれば、馬鹿にする奴は自分が危機に陥るということを始めから想定していないだけに過ぎない。

 そして、往々にしてそういう奴らから身を滅ぼしていくのが世の常だった。


「息を殺してる……ってわけじゃねぇよな。しかし気配が掴めないとなるとさすがに……。全員出払っている可能性は、いや、そんなはずあるまい」


 当たり前のように浮かぶ可能性を自ら否定した。何故なら、昨夜この店舗に足を踏み入れた蛇頭のボスである林紹威の姿は、によって確認済みだったし、一歩も外に姿を現していないことも確認済みだった。

 そして建築基準法に違反しているこの建物は、図面を確認した限り出入口が一つしか存在しないこともしっかりと確認している。

 つまり、抜け穴でもない限りは今もこの地下にいなければおかしいのだ。



「林!いるなら返事しろ!」



 地下に一歩足を踏み入れるまでは、相応の覚悟を決めていた、はずだった。

 最悪、刃物でも振りかざした輩がワラワラと出迎えてくれる事態も想定していたのだが、結果としてはゴキブリ一匹すら這い出てこない。窒息してしまいそうな静寂が重くのし掛かる。

 未だ鳴り響くアラーム音のせいで、平常心を維持するのに多大な苦労を強いられた。

 受付のボクサー犬を戦闘不能にさせたことといい、無断で彼らの領域である地下に侵入してきたことといい、俺がやっていることは彼らへの挨拶でもあり挑発でもあったのだが、それらの行為はまるで空振りに終わったようだ。


 桜の代紋が目を光らせる東京直下で、白昼堂々と違法風俗店の営業を行っている蛇頭への嫌がらせは、点火すれば即爆発するような福建マフィアの常識に照らし合わせると東京湾の魚の餌にされてもおかしくない所業とも言える。

 これからの林との交渉の難しさを考えると、ともすれば立場を悪くするだけの安直すぎる行動に見えなくもない。だが、短絡的に見えて実は必要な手段でもあった。


 第一に、奴等は話術による説得をよしとしない。

 それならいっそ多額の金を積んでビジネスライクにいく方がマシだ。無論そのような金は存在しないので脚下。

 金で蛇頭を飼い慣らそうとした奴の末路は言わずもがな。虎の尾を踏んで、いや、大蛇の逆鱗に触れて無事な奴は存在しない。


 第二に、奴等はなにより暴力を好む集団であるということ。

 長々とテーブルを挟んで交渉した結果、「気に入らない」の一言で消された奴等は数えればキリがない。

 懐深くに潜り込みたければ、己の暴力を見せつけるのがベストだ。力こそが最大の武器売りとしている連中には、手っ取り早く暴力に長けたところを見せるのが信頼を得るのに一番の近道である。


 そういった人間を好む性質があるのは、なにも福建マフィアに限る話ではないが、ヤクザだろうが警察だろうが、奴等にとって力があるものこそ正義であり、利用価値があると認められる。

 上手く取り入ることができれば、今も何処かで俺の一挙手一投足を監視してるだろう朝比奈さんを出し抜くことも可能な話かもしれない。

 何を隠してるか知らないが、公安の伝説と謳われる男の鼻を明かすことが出来れば、さぞ気分がいいだろう――半ばそれが目的になりつつあったことは否定はしない。ここまでするのも阿呆らしいが、これもまた男の意地ということにしておこう。


「ハイリターンを得るためには、ハイリスクを負わなければならない……か。結局いつもとやることは変わらないな」

 自らの命を賭けベットして、俺は俺のやり方で今回の指令の真意を探り当てててやる。


 とうとう通路の突き当たり、閉じられた扉にぶつかった。そこで血痕は跡絶えている。どうやら血を流した奴は扉の向こう側にいるらしい。

「誰か知らないが、この血を流した者はこの部屋の中に姿を隠した。そういうことか」

 俺が訪れる前にこの地下で何が起きたのか知る術はないが、出迎えがなければこちらから突入するしかない。そう腹を括りドアノブをゆっくりと回すと――


 弱々しく光る白熱電球の下、誰かと争ったような室内の乱雑さと対照的に、そこには争ったであろう人間の息遣いが感じられなかった。

「うっ」

 息遣いなど感じるわけもない。鼻腔に届いた臭いで察した。何故ならそこにいた連中は息などしていなかったのだから。

 決して明るくない室内の惨状は、これまで数えきれないほどのを見てきた俺ですら、思わず怯むほどの現場だった。

「う……なんだこれは。いったいここで何が起きたんだ」

 それほど視界に飛び込んできた室内の状況は凄惨を極めていた。胃からせり上がってくるモノを吐き出さないよう堪えながら、害者ガイシャを見渡す。


 ――まるで、人間の業を越えた鬼畜の所業だ。


 およそ十二畳ほどだろうか――そこまで広いとも言えない一室には、スチールデスクやソファ、それに本棚やパソコンなどが数台置かれていたが、それらを含め床も壁も天井も、等しく赤一色に染まっていた。

 前衛的とも言える赤のキャンバスの中に、十名のモノが、あちらこちらで横たわっている。

 ある者はソファに力なくもたれながら、ある者は冷たい床に俯せに倒れながら、ある者は光を失った瞳を天井に向けながら、全員が全員共通して、身体中を鋭利な刃物で引き裂かれて絶命していた。

 気管に達する裂傷を喉に負った者や、内蔵が溢れ落ちるほど腹部を深く抉られた者、それに両目を抉られた者も。一体この一室で何が起きたのか検討すらつかない。


「こいつが一番酷えな……」

 死屍累々のなか、その男は全身をなます切りにされたうえ、両目を抉りだされていた。他の四人よりも損壊が激しく、もはや原型を留めてすらいない。スーパーに陳列されているドリップ滴るミンチ肉のようだ。

 辛うじて残っていた上半身の表皮に、見覚えのあるトライバル模様のタトゥーが覗いていた。

 そいつこそ、福建マフィア「蛇頭」のボスである林紹威に間違いない。


「一体誰が……」


 永遠に帰ってくることのない問いは、血の海に沈んでいく。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る