第15話

 翌日は、外の電線に留まったカラスの鳴き声で目が覚めた。上半身を起こそうとしたが、普段より体が重いことに違和感を感じる。

「ったく、なんなんだ……」

 目ヤニで塞がっていた瞼を開くと、寝てる間に乗せられた重石のように、ずっしりとのし掛かっていた正体が判明する。


「このガキ……」


 いつからそこにいたのか知らないが、気持ち良さそうに寝息をたてていやがる可欣が、俺を敷布団がわりにしてもれなくシャツに涎のシミまでつけてくれてスヤスヤ寝ていた。

 その場で叩き起こそうかと手を振り上げたが、さぞかし気持ち良さそうに眠る姿に毒気を抜かれ、行き場を失った手で可欣を本来の敷布団に下ろしてやった。

 なんともまぁ……反吐が出るほど甘い己の行動に、朝っぱらから二日酔いとも区別がつかない胸焼けを起こす。


 このガキを見てると、普段の無感情な俺ではいられなくなってしまうのは一体何故なのか――考えたところで答えが出ることはないが、俺が俺でいられなくなるような、そんな錯覚を感じてしまうほど俺はどうにかなっていた。


 長年昼夜逆転していた体内時計は、ここ数日の生活ですっかりリセットされていた。

 朝の日差しと共にゆっくりと活動を始める灰色の脳細胞達が、昨晩の出来事を頼んでもいないのに再生していく。

 まるで、過去を忘れるなとでもいうように事細かに。実に最悪な一日だった。

 自分でもとうに忘れていた記憶の奥底の扉を無理矢理こじ開けられ、あれこれ余計な過去をほじくり出された俺は酒に逃げたが、夢の中でも悪夢は続いた。

 酒の力を借りなくては、ただただ無力だったあの頃の自分に苛まれるようで耐えられなかったから。

 

 のろのろと立ちあがり、薄っぺらな生地のカーテンを開けると、目の前の電線に留まっていたカラスが驚いて曇天の彼方へ飛び立っていった。その姿を眺め、心に決める。



「何してるんですか?」



 てっきり俺だけ起きてるもんだと思ったら、二つの小さな煎餅布団を分け合っていた大塚が、目を擦りながら起床していた。

 開ききっていない目元は青黒くなっている。そういや昨日怒りに任せて殴ったんだったな。

 元はと言えば、コイツが自分の立場を忘れていたことが原因なんだが。


 そういや、なんでコイツとここまで共に過ごしていたのか。この軟弱な男は俺のタマを取りに来た辻村さんの捨て駒に過ぎなかったのに、今ではなんの躊躇もなく俺に来やすく話しかけるまで馴れ馴れしくなっている。

 処分するタイミングを失っていつまでも取り残された粗大ゴミのような奴だが、根が甘ちゃんのせいか可欣はすっかりなついているし、保育士なんて腑抜けた職業を夢見ていただけあって、ガキの扱いには一日之長があった。俺には理解できない面倒だって、これから見てやれるだろう。

 それに、これ以上一緒にいたら自分がどうにかなってしまいそうで、それがたまらなく不安だった。それだけは真っ平ごめんだ。


「おい。大塚」

「なんですか?」

「お前、そのガキを連れて何処かにトンズラしてろ」

「え?」


 俺の言葉が信じられないのだろうか、それとも起き抜けで上手く聞き取れなかったのか。

 大塚は間抜けな顔で黙って聞いていたが、しばらくすると険しい視線で俺を睨み付けてきやがった。


「また、逃げるんですか?」

「あ?何の話だよ」

「可欣ちゃんのこと、救ってやろうとか思わないんですか?こんな可哀想な子供と一緒に過ごして、どうにかしてやろうとは思わないんですか?」

「何寝惚けたこと言ってんだよ。俺は辻村さんがどうしてこのガキに拘るのか知りたかっただけだ。それを知った今、もうそいつに用はない。どうにかしたいんだったらお前が面倒みろ」



 これ以上可欣がついて回るようじゃ、はっきり言って足手まといにしかならない。大塚にガキのことは任せて、こそこそと逃げ回るような真似は止めにしようと考えていた。

 俺はもうこのガキに関わるべきじゃない。

 一人になって、死ぬか生きるかの舞台に戻りたいんだ――


「違いますよね。本当は誰かを守ることが怖いんじゃないですか?過去に大切な人を失ってしまったから、自ら進んで一人になろうとする。自分を罰し続けるように不幸への道を突き進む。あなたは優しいんです。そして、弱い」

 淡々と語るが、話す内容は意図も容易く俺の体を深々と突き刺した。

「おい……昨日殴られたことをもう忘れたのか。それともここで死んどくか。あ?」

 普段なら誰もが後ずさる脅し文句さえ、まるで迫力がないことは自分でも理解してしまった。

「やれるもんならやれば良いじゃないですか。いつものように引き金を引いて、そして、いつものように自分の弱さに苦しめば良いんです」

「さっきから聞いてりゃよ……弱い弱いって言ってるが俺のどこが弱いんだよ。俺はこれまでずっと一人で生き抜いてきた。誰かとつるまなきゃ生きていけねえ奴と比べんじゃねぇ。テメェらみたいな温室育ちが口を出すな。いいか、俺を否定するやつは何処の誰だろうが絶対許さねぇ」


 怒りに任せてフルスイングした拳は、避ける動作もしなかった顔面に直撃する。勢いを殺しもしなかった躯は、そのまま部屋の襖を押し倒しながら倒れていった。

 痛い――

 普通に考えれば、容赦なく殴られたこと大塚の方が苦痛に顔を歪ませるはずだったーーなのに起き上がった奴は少しも表情を変えやしない。それどころか、俺の方が痛かった。これまで人を殴りすぎて潰れた拳がではない。胃でもない。もう少し上ーーこれはなんだろうか。


「どうしたんですか?殺せばいいじゃないですか。ただ力任せに殴るだけなんてあなたらしくない」

「……ダチの家でれる訳ねぇだろ」


「朝から五月蝿いぞお前ら!身を隠してること忘れんじゃねぇぞ」

「元はと言えばよ、テメェがコイツに口を滑らせて俺の過去を話すからこんな面倒な事になったんだろうが」


 俺がむしゃくしゃしてるのも、大塚の目元に青痣が出来ているのも、元を辿れば俺の過去をつまびらかに開示しやがった我が明朋の文芷の口の軽さが原因だというのに、すっかりその事実を忘れている張本人はさっさと一階に降りていった。



 一階の万陳楼で朝食を取っている間、備え付けのテレビから流れるニュースが耳を通過していく。ただ、そのなかに微かに興味を引く事件が混じっていた。


 <昨日、新宿歌舞伎町の違法風俗店店内で、複数の中国国籍と思われる男性が心肺停止の状態で発見されました。警察からの発表ですと、被害者は世界各国に拠点を持つ犯罪組織の一員であることがーー>


「けっ、朝から胸焼けするようなニュースだな」

「おい、勝手に替えるなよ」

 文芷は忌々しげにチャンネルを変えたが、それはこの店の安物の牛脂ラードのせいではなかろうか。

 ヘラヘラ笑っているスタイルだけは良さそうなアナウンサーから、再び元のチャンネルに戻したが、既にスイーツ特集へと切り替わっていた。

 それはともかく、自分が歌舞伎町を離れてる間に随分と物騒おもしろそうな事件が起きてるものだと久しぶりに血が騒いだ。

 途中で切り替えられてしまったが、恐らく葬られたのは福建の連中であることは間違いないだろう。おおかた堂島の兄貴のシノギをどうするかで、内輪揉めをしたにすぎない。


 ぼんやり聞き流していると、内ポケットに収めてあった携帯が震動した。

 電話の主を見ると血が冷めていく。スイッチが切り替わる音がした。

「どうした」

「モーニングコールには遅かったかしら?」

 相手は血吸蝙蝠チスイコウモリだった。何かわかったら連絡をしろと伝えていたが、音沙汰が無かったことへの不信感が募っていた頃だったので問いただしてやる。

「連絡を寄越さなかったのはどうしてだ。まさかお前が本気で調べて手間取るとも思えないんだがな」

「いやぁ~それがね。ちょっと思ったよりも劉ちゃんが面倒な事態に巻き込まれてるみたいでね。この私がネットの世界を東方西走してたわけなんだけど――」

「無償で」とやたら強調するのが腹立たしいが、黙って話に耳を傾けていると、とんでもない事態が奴の口から告げられた。


「……は?なんだって?」

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