第13話

「えっと……ここは山下公園とは違うんですか?」

「はっ、見てみろよ。ここの何処にそんな洒落た景色がある」


 中華街の一角、の朱色に染まった会芳亭のベンチで、俺は糞真面目を絵に書いたような女――秋本奈穂子と向かい合っていた。

「公園に連れてってやる」確かにそう伝えはしたが、だからといって山下公園とは誰も告げた覚えはない。まぁ、今も昔も中華街の中に公園が存在すること自体あまり知られていないから、余所者が誤解するのも無理はないかもしれないが。


 きっと彼女のお花畑のような頭の中には、湾外から運ばれてくる潮風、カモメが羽を休める異国情緒漂う港、湿った海風を満喫できるベンチから望むベイブリッジ――そんな牧歌的な公園でも想像していたに違いない。

 公園は公園でも、それはの山下公園のほうであって、残念ながらこちらの山下町公園はそんな洒落た公園ではない。


 この街を見下ろす丘の上、山手にそびえるお嬢様学校に通う彼女に、目の前に広がる光景は少々刺激が強いだろうか――さながらスラム街のような光景に彼女はキョロキョロと忙しなく首を動かしていた。

 山下町公園は、今でこそ地元自治体によって管理が行き届いてると文芷が語っていたが、俺がガキの頃なんざ中華街のなかで最も治安が悪い場所として悪名高かった。

 日本人のチンピラ程度なら震えて逃げ出すような中国人の不良ゴロツキが、夜な夜な集まっては乱痴気騒ぎを起こすのだから、地元の人間ですら普段は寄り付かない禁足地になるのも無理はない。


 何度も使い古され、酸化しきった食用油の臭いが微かな風に乗り一帯に漂う。風の流れで街中のゴミが吸い込まれるようにこの公園に辿り着き、片隅では僅かばかりの残飯を拾い集めるホームレスや、シンナーやトルエンでラリってる金の無い廃人がポツリポツリと見受けられた。

 社会の底辺の底辺の掃き溜め。何もない俺にはおあつらえ向きの場所に違いなかった。

 散らばるゴミを漁っているのは、なにもホームレスだけでない。不吉な烏の群れに、地を這う溝鼠。今もチョロチョロと視界の隅を駆けていく姿に、彼女は小さな声で悲鳴をあげて驚いた。



「お前、俺に助けてもらったってのに、この街に何の用で来たんだよ」

 万陳楼の客が忘れていった煙草を口に運ぶ。正面から伝わる咎めるような視線が気に入らず、わざと彼女の顔めがけて吐き出してやると咳き込みながら答えた。

「あの日のお礼を直接伝えたくて……。貴方を何日も探していたんです。その度に『もう一度貴方に会えますように』って、何度も何度も神様にお祈りしていたんですけど、やっと通じたみたいで嬉しいです」

 そんな、耳が腐り落ちそうになる陳腐な台詞を、なんのてらいもなく吐きだす人間がいることを俺は初めて知った。

 そんなことの為に、わざわざやって来るとは――この女は救いがたい馬鹿なのではなかろうか。


「あのなぁ……そもそもお前が必死にお祈りしいたのは関帝廟であって、あそこに祀られているの商売の神様として神格化された関羽帝だ。商いの神にいくら人探しをお祈りしたところで、そんな願いが通じるわけないだろ。それ以前に、お前は存在しない神を本気で信じてるのか」

「私の実家は代々キリスト教徒クリスチャンなんですけど、たまに実感するんです。やっぱり神様が与えてくれる奇跡って存在するんだなって」

 そう答える彼女の目は、穏やかで、そのくせ強い信念のような光が宿っているように感じた。

「だって、こうしてまた貴方に逢えたんですから。私達の出会いは偶然ではなく、必然だったんです」

 今でこそキャバ嬢のセールストークなんぞいくらでも聴いてきたが、まるで本心を隠そうともしない彼女の言葉はこそばゆく、つい視線をそらしてしまった。どんな荒くれ者にも視線を逸らすことがなかった俺がだ。


「けっ、お嬢様って奴は理解できねぇな」

 吸っていた煙が不味く感じた。

「あの、名前を教えてもらえませんか?」

「……劉だ。劉英俊」


 本当は、彼女が二度とこんな街に訪れる気がなくなるようにするのが目的だった――あまりにも透き通っていたから。

 なのに、他愛もない会話を会話を重ねていくうちに、彼女が放つ輝きに無意識のうちに存在しない筈の心が囚われていた。

 初めて目にした光は、真夏の太陽よりも明るく、そして俺を否が応でも照らしてくれた。そこに確かに幸せとやらは存在した。

 彼女は決して神なんて大それた存在ではなかったが、この肥溜めのような世界でも変わらずに光輝き続ける。それが秋本奈穂子という女だった。

 どれだけ女を抱いてきても、ただ隣にいただけのアイツに敵う女は一人はとしていやしなかった。




「親父!聴いたか!?劉のヤロウにとうとうコレが出来たんだってよ」

 出前から帰ってきた汗だくの文芷が、厨房に入ってくるなり鬱陶しい顔で小指を立てた。

 その指を二度と使えないくらいに折ってやろうかと憤りもしたが、そこは奈穂子との約束を守るために深呼吸をして自重した。

 これも彼女と「容易に暴力は振るわない」と約束してしまったことが原因だったが、他にも覚えきれないくらいの約束をさせられ、しまいには聖書を手渡されそうになったがそれは流石に拒否をした。


 約束を守るというのはなかなか難しく、脊髄反射のようにこれまで手を出してきた暴力を我慢するというのは、本能に逆らうようで苦痛を伴う。

 おかげで俺の不良としての評判はガタ落ちだったし、調子に乗って絡んでくる輩が増えるわ増えるわ。そんな連中が御礼参りの列をなす日々を、自衛の目的で追っ払うことでストレスを発散させて乗りきっていた。


「はぁ?劉に彼女だって?いつものパターンじゃないのか」

 夜の営業に向け忙しく仕込みをしているオッサンは、息子の話す内容をまるで信じちゃいない。

 俺は文芷と一緒に頭のネジが緩い女ばかりと遊んでいたし、オッサンもそんな俺達の女性関係には半ば呆れていた。俺が一人の女と付き合ってるなんて噂は、これっぽっちも信憑性が無いのも頷ける。


 何処でその情報を仕入れたのか知らないが、我が友は面白おかしく講談士のように語りだすと、潤滑油を注した自転車用チェーンのように滑らかに語る語る。


「いやぁ~あの『南京町の狂犬』とも謳われた親友がねぇ。まさか神奈川県内きってのお嬢様学校の女子と付き合うとは……事実は小説より奇なりとはよく言ったものだな。なぁなぁ、どこまで

「うるせぇぞ。くっちゃべってねぇで手を動かせ、手を」

「ほほぉ……反論しないってことは噂は本当なんだな。しかしよ、それが本当なら、付き合いたてのカップルが公園で時間を潰すってのはどうなんだ?どうせなら赤レンガ倉庫とか」

「黙ってろ。いくらお前でもそれ以上口を挟んだらただじゃおかねぇぞ」


 腹が立つが文芷が指摘した通り、俺と奈穂子は付き合っていた。自分でもおかしくて笑ってしまうほど、糞真面目な奈穂子に惹かれていたことを今でもハッキリと覚えている。

 だが、付き合い始めると見えなかった事実が見えてくるもので、奈穂子の実家はとても裕福な反面、分刻みのスケジュールを娘に強いていたことを知った。

 牢獄に鎖で繋がれているような息苦しさが、不思議と俺にも伝わってくる。

 活花、茶道、ヴァイオリン、ピアノ、バレエ、英会話……挙げればきりがない。プライベートな時間などほぼ皆無な彼女が、唯一心休める憩いの場――学校の教師からも、両親の厳しい監視からも逃げることができたのが、この中華街だったのだ。

 猥雑な街に紛れ、身を隠し、同じ時間を過ごしていくうちに、俺は次第に募っていく形容しがたい感情に翻弄されるようになっていた。

 秋本奈穂子は、俺の糞みたいな人生に舞い降りてきた天使そのものだった。




「劉。本気で愛した女は命懸けで守ってやれよ」


 いつかオッサンが酔っぱらいながら告げた言葉は、結局守ることができやしなかった。

 ある日突然、奈穂子は俺の前から姿を消してしまったから――




 ある夜、出前から戻ってくると、オッサンが営業中にも関わらず「話がある」と俺を店の外へと引っ張り出した。

 注文した料理はどうするんだ、と背後からコップが飛んでくるのも気にせずに。

 その有無を言わさない力に渋々後をついていくと、人気のない路地裏でオッサンは開口一番とんでもないことを口にした。


「劉。お前が付き合ってる彼女だが……今すぐ別れろ」

「は?なに言ってんだよ。もしかして仕事が理由か?確かに日中の仕事の時間は減ってるかもしれないけどよ、それだって夜の営業で帳尻合わせてるんだからいいじゃねぇか」

「違う。お前が恋愛にかまけて仕事にうつつを抜かしてると言ってるんじゃない。先日両親が姿を消したのはお前も知ってるだろ」

「あ、ああ。もちろん知ってるけど……それがなんだよ。どうせ夜逃げだろ?」

 風の便りで、俺の住んでいたポロアパートの一室がもぬけの空になっていたことは聴いていた。だが、それがどうしたというのだ。どこで野垂れ死んでいようが構わないというのに。


「違う。夜逃げならとっとと好きなところに行っちまえばいいさ。だがな、そうじゃねぇんだ。常連の客が現場を見ちまったって俺に教えてくれたんだよ」

「なんだよ」

「劉の両親が何者かに拐われたってな」

「拐われた……?」

「ああ。実はな――」


 どうやら正常な思考能力がなくなっていた親父は、ギャンブルに賭ける金が無くなる度に愚かにも数社の闇金から借り入れしていたらしい。

 それも目玉が飛び出すような暴利で。もちろん返済能力なんてあるわけがないにも関わらず。


「ちょっと待ってくれよ。一体オッサンは何を言いたいんだ?それが奈穂子と別れろって話にどう結びついてくるんだよ」

 勤務時間中には吸うことがない煙草を取り出すと、暗闇のなかにオレンジの灯りを灯し深々と吸い始める。

 まるで覚悟を決める儀式のように。

「いいか、落ち着いて聞いてくれ。その連中ってのが、どうやら神奈川を拠点にしている井筒会系列の構成員らしい。井筒会っていや劉も名前くらい知ってるだろ。ニュースを騒がしている日本でも有数のヤクザだ」

「だから……そのヤクザがどうしたって言うんだよ。オッサンでもこれ以上訳わかんねぇこと言うんだったら、いい加減許さねぇぞ!」

 怒声が夜の街にこだました。何事かと近所の窓から次々と様子を窺う野次馬が、顔を覗かせこちらを注視している。

 オッサンは声のトーンをいくらか落し、話を再開する。


「……ここから先が話の本題だ。万が一にも大事なお前に被害が及ぶことを恐れた俺は、人脈を最大限駆使して調べたんだ。そしたらその結果、お前の両親を拐うように命令を下した人物に当たりをつけたんだが……」

 その先を言い淀むと、憐れむように俺を見つめてきた。

「そいつは辻村御幸といって――秋本奈穂子の父親なんだ」

「は?奈穂子の、父親?」

「お前の彼女は、奴の妾から生れた一人娘なんだよ」




 その後、奈穂子本人に話を聞こうと何度も連絡を取ろうとしたが、結局一度も彼女に繋がることはなかった。

 奈穂子の実家も知らない俺は、彼女の通う学校にも足を運んだが姿を確認することは出来ず、オッサンの調べでどうやら海外に留学したと聞かされ、そこで初めて俺は希望を失った事実を知る。

 オッサンの話が事実かどうかも当時は知る術を持っていなかったことが悔やまれるが、それから程なくして万陳楼を飛び出した俺は、長い時間をかけて懐に潜り込んで暗殺者として信頼を得るまでに至り、辻村御幸本人の口から当時の話を引き出すことができた。


 ――愚かな両親はモノは全て抜き取られて東京湾にでも沈められたらしい。正確な場所は知らないというが、しかしその情報は必要ではない。

 俺が知りたかったもう一つの情報――妾との間に出来た一人娘が、ある日を境に憔悴しきってしまい、心を病んだ、という事実。

 そして、その日は俺の両親が拐われた日でもあった。




 奈穂子が今何処で何をしているのかわからない。それ以上の話は辻村から引き出すことは不可能だったし、深入りすれば怪しまれ、不興を買う恐れもあった。

 気付けば奈穂子との約束など何一つも守れず、命令されるがままに標的を殺すだけの人生を送っている。

 人の命を啜りながら生き長らえている俺の姿など、とてもじゃないが奈穂子に見せられたもんじゃない。


 もし生きていれば、今頃は結婚でもして子供の一人いたりするのだろうか――俺が掴めなかった未来は、もう訪れることはない。

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