第12話
「英俊!お前はまた喧嘩してきたのか!」
「痛てっ」
なかなか落ちない皿の油の滑りに悪戦苦闘していると、背後から一喝と共に拳が振り下ろされた。シンクには未だ手付かずの食器が山のように溜まっていたが、食器洗いもそこそこに振り返ると、信楽焼の狸のような男が立っていた。
初めて出会った頃よりも、白髪の割合がいくらか目立つ年齢に差し掛かっていた陳皓宇、その人である。
「何すんだよ!」
「一体何度喧嘩をすれば気がすむんだ!この
狸親父こと陳皓宇が経営する中華料理店――万陳楼に世話になるようになって、早七年が経とうとしていた。
その間の三度の飯は、欠かさずこの店で世話になっていたのだが、もちろんガキだった俺にその間の食費を支払う能力などあるわけがない。
そこでオッサンは俺にある提案を持ちかけた。
「
本心は知らないが、その数年後に本人から聞いた話だと、とどのつまり金のかからない労働力を確保したかったわけだ。
結果的に、これまでの空腹に喘いでいた生活が嘘のように一変した。好きな時に飯にありつけるという、人間がごく当たり前に享受する権利をやっと手に入れることが出来たのだ(脂っこく糞不味い中華料理ばかりだったが)。
それまでは同世代のガキより貧弱だった鶏ガラのような体は、これまでの人生の遅れを取り戻すように、もしくは水を得た海藻のように、日に日に太く大きくしなやかに育ち、十五の誕生日を迎える頃にはそこいらの大人には負けない体躯へと成長していた。
成長度合いと比例するように、それまで自分でも気づかなかった生来の腕っ節の強さも露となっていく。侠客気取りで肩で風を切って街を練り歩き、気に入らない奴が入れば適当に難癖をつけては喧嘩に明け暮れ、いっぱしの不良に成長していた。
南京町の狂犬――誰が名付けたのか、当時の横浜界隈ではちょっとは名の知れた存在になり、傷害容疑で少年院をサウナ感覚で入るような、自他ともに認める熊孩子になったのは、きっとこの体に流れる糞みたいな血がそうさせたに違いない。
「オッサン。加賀町警察署の刑事だって俺にビビるってのに、いい加減俺が怖くないのかよ」
「馬鹿言うな。ガキ一人にビビって中華街の店主が勤まるかってんだ」
別にヤクザ稼業でもあるまいし――そう思わなくもなかったが、この店の客層はきらびやかな表通りの一流中華料理店とは天と地ほどの差があったことは事実だった。
まず日本人の観光客は立ち寄らない立地、それに来るものを拒むように胸焼けする煙が垂れ流されているダクト、それらを乗り越えて暖簾を潜ったとしても、待っているのは笑顔が素敵な看板娘どころか、眉間に皺を寄せた狸親父ときたもんだ。
そんな万陳楼に訪れる客といえば、長年オッサンと付き合いのある華人で、しかもどいつもこいつも人相が悪いと相場は決まっている。
そんな奴らが、夜になると日頃の鬱憤を晴らすように酒の勢いに任せて暴れるもんだから、俺は自然と仲裁という乱闘に巻き込まれる羽目になる。そのおかげで自制が利かなくなった酔客どもを相手にしても、余裕で多人数を制圧できるほど格闘術にも自信がついていた。
それが日々の喧嘩に活かされていたのは言わずもがな。
大半の人間は俺に力で敵わないと知るや否や、媚びへつらうか、波が引いていくように離れていった。
その中でいつまでも変わらない態度で接するオッサンは、数少ない警戒心を解ける人間の一人だった。だからといって俺の生活態度が変わるわけでもないし改心するわけでもなかったが、俺の中でオッサンは特別な存在になっていたことは間違いない。
万が一他の連中が同じように殴ってきたりしたら、そいつには倍返しでは済まさない。きっちりと報復するしそうしてきた。おかげで常に生傷が絶えない生活だったが、そう悪くは感じていなかった。
口にはしていなかったものの、その当時は万陳楼が俺の第二の実家であり、そして陳皓宇が俺の実の親父となっていた。
酒とギャンブルに人生を費やし、病院にも行けずに寝たきりになった糞親父のことも、客がまともにつかなくなってその日の生活費を稼ぐのに一苦労する惨めなお袋のことも、頭の中では既に亡き者にしていた。
何処でくたばろうが、さして興味はない。その程度の存在。情など湧いてくるものか。
そんな愚かな両親とはさっさと縁を切って、金を貯めたら何処かの安アパートでも借りて独り暮らしを初めよう。そして調理免許を取得してもいいかもしれない――そんな未来地図を密かに思い描いていたことは、オッサンにも秘密にしていた。
あの日――初めて万陳楼の敷居を跨いだ日に、学校にすら通っていない俺の境遇を知ったお人好しのオッサンは、瞬間湯沸し器のように真ん丸な顔を真っ赤にさせると、次の瞬間に店から飛び出していった。
その無駄な贅肉がついた体でどうしてそんなに早く走れるのか、不思議なくらいの速度で夜の町を疾走し、その勢いのまま他人の家に土足で乗り込む。
いつものようにギャンブルに負け、しこたま酒を飲んで酩酊していた親父の胸ぐらに掴みかかると、脳味噌がグチャグチャになるのではと少し期待したほど力強く揺さぶって一喝した。
「
「な、なにすん、やめ、ひ、ひゃあ、」
意識が朦朧とするなか、自らの身に何が起こっているのか把握出来ていない親父は、ただただオッサンの木の幹のような腕に振り回されるだけで、情けない声をあげるばかり。
お袋は仕事で外出していたが、外で立ちんぼしていたところをオッサンに発見されると、同じようにグチャグチャに揺さぶられた。
オッサンは直情型で、良くも悪くも動き出したら止まることを知らない。見ていて気分が晴れる程の暴れっぷりは今でも鮮明に覚えている。
「ナニすんのよ!」
実に不快極まる金切り声を夜の路上に響かせると、お袋は勝手な自己弁護を始めた。
「ふざけんなよ!こっちが被害者ってもんさ。あの男……金払いが良かったからつい相手してやったら、たった一回でそいつが出来ちまったんだ。男は姿を眩ますし、馬鹿正直にそいつを産んじまってからワタシの人生ドン底。こちとら商売上がったりなんだ!文句あるのかよ!」
決して遅くない時間帯。そこそこ通行人も歩いているなか、耳栓をしたくなるような聞くに堪えない暴言を唾を飛ばしながら叫ぶ姿は、人というよりも昔話に登場する
それからオッサンは、俺を地元の中学に通わせようと奔走したようだが、やっとのことで入学しても、普段の素行の悪さが影響してあっという間に退学処分となってしまった。
努力が無に帰したことは、ほんの少しだけ申し訳なく思う。
「親父、今日は許してやってよ。なんせ絡まれていた女の子を暴漢から助けたんだからさ」
客が平らげた食器を両手に携えた文芷が、フロアから厨房に戻ってくると、余計な助け船を寄越してきやがった。
ちなみに文芷は俺と馬鹿ばかりしていたわりには上手く立ち回っていたようで、当時俺だけ退学になった中学にもちゃんと通っていた。
まだ洗い終えていないシンクの中に、運んできた皿を何の躊躇いもなく投入する。おかげで汚い洗剤の泡が顔めがけて跳ねてきた。
「英俊。本当なのか?」
「違えよ。ただ絡んでたヤローがムカついただけだ。ちょうどいい憂さ晴らしの相手さ」
その言葉に嘘偽りはない。あれは山手のお嬢様学校の生徒だったが、女一人にチンピラ四人が寄ってたかって強引に迫っていたもんだから、ちょうどムシャクシャしていた俺は手当たり次第にのしたんだっけ。
ただ、その相手があまりに手応えが無さすぎて、余計にストレスが溜まってしまったのは大誤算だったが。
「いやいや、珍しく格好良かったぜ。まるで日曜の朝のヒーローだったぞ」
「ヒーローか!そりゃいい。不良よりよっぽど健康的じゃねぇか」
オッサンも追従して人の事をからかうからタチが悪い。
「で、その女の子とはどうしたんだ?」
オッサンが目尻を下げて尋ねてくる。他人のプライベートに首を突っ込みたがる性というものは、いつの時代もそうは変わらないらしい。
「は?別になんもねぇよ」
「嘘つくなよ。あの子お前に惚れ――」
文芷の口からその先は言わせなかった。シンクからフリスビーよろしく投げた皿は、調子に乗った男の顔面に強かに強打したので直ぐには立ち直れないだろう。
そのせいで、更にもう一発頭上に拳が落ちてきてしまった。
それから数日後、一人で
後ろ姿だったが、横浜元町らしいセーラー服に身を包み、いかにも校則を守ってますといわんばかりの、なんともつまらない膝下十センチのロングスカート――
その後ろ姿は、あのチンピラどもに絡まれていた女に間違いなかった。ナントカ女学院だったか、あんな目に遭ったというのに、身綺麗なお嬢様がわざわざ丘の上からこの汚い下界に再び降りてくるとは、一体何の用があるんだ――
少し興味が湧いた俺は、獲物を狙う狼のように自然と女の背後に近づいていた。
「よぉ。こんなところで何してんだよ」
「あ、あなたは……」
俺の声に一瞬体を震わせ、一拍を置いて振り向いた女は、俺を見るなり声を詰まらせた。まるで、憧れのヒーローを見つめるような視線が鬱陶しい。
これが秋本奈穂子との再会だった
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