第11話

 人間が覚えている一番古い記憶。

 それがどのくらい前かは個人差があるだろうが、だいたい小学生か、古くても幼稚園かそこいらだろう。

 俺は違う。思い出したくもないが、頭の奥底に忌々しく残っている最初の記憶は、裸電球がぶら下がる何もない和室。それも四畳半程度の和室の光景だ。

 今思えば、あれは当時両親が暮らしていたポロアパートなのかもしれない。その一室に敷かれた煎餅蒲団の上で力むお袋ムーチンの股ぐらから、同郷のヤブ医者だろう男に無理矢理この世に引っ張り出された瞬間の記憶だ。

 無論、そこに親父フーチンの姿はない。どうせ負けるギャンブルにでも出掛けていたに違いない。


 いつだったか、誰かが言っていた。「人は、再びこの糞ッタレな世に生まれ堕ちてしまったことを嘆くから、あれほどやかましく泣き叫ぶのだ」と。


 他人に同調することがほとんどない俺だが、その言葉は言い得て妙だと思った。

 なんせ初めて目にしたお袋の表情は、己の息子にたいして一欠片の関心も寄せない、まるで厄介な仕事を終えた後の気だるそうな風俗嬢の顔だったからだ。

 だったもなにも、お袋は下層の下層の風俗嬢に違いはないのだが。


 生まれたばかりの、サルともヒトとも区別がつかないような存在だった俺に、その顔が意味することなど理解できるはずもなかった。が、本能的に察したんだろう。

 ――ああ、俺はこの世に生まれて来るべきではなかったんだ、と。

 そして、絶望した俺は小さい喉が張り裂けんばかりに泣き叫んだ。

「どうして俺を生んだんだ!」と。





「英俊。出去大约两个小时二時間は外に出てな

「はい……母さんマーマ


 世間一般的に小学校に入学するであろう年代の頃、「入学するであろう――」というのは、両親の中にという単語が備わっておらず、小学校に通わせてもらえてなかったからだ。

 恐らく正規の産婦人科に通院したことは一度もないのだろう。生まれてから一度もまともに検診も受けたことがない。そもそも母子手帳すら発行されてないはずだ。今となっては知る由もないが。


 愛情も、肉親の情も、生憎どこを探しても見つからず、いつだってソウルドアウト売り切れだったあの頃は、母親が主に自宅に招き入れるが訪れる度、都合二時間ほど一人で時間を潰さなくてはならなかった。

 もちろんガキに行く当てなどない。四季を通じて、街の装いがどれだけ変化しようとも、俺の視線は常にアスファルトの道路に向いていた。そこに写るのは、虫やら鼠やら、生物の死骸ばかり。

 行き先も決めずに中華街をさ迷い歩き、ろくに風呂にも入っていない俺を避けるように歩く身形のいい観光客を見上げては、己の垢で汚れた掌を見つめては、自らの境遇を呪っていた。


 ――どうして、どうして俺だけ、こんなに不幸なのか。



 母が自宅に招き入れる客は、俺を見ると一瞬ギョっとして視線を泳がせ、次の瞬間にそれぞれ違った視線を無遠慮に浴びせてきた。

 物珍しい珍獣を見るような男、「なんだよ、コブつきかよ」と邪魔者を見るような男、薄っぺらい同情心と憐憫の眼差しを投げ掛けてくる男、さらには性癖を隠そうともしないで、お袋そっちのけで俺を見つめてくる男――様々な屑が訪れていた。

 どいつもこいつも好き勝手俺を見下していた。その腹を牛刀でカッ捌いてやれば、どうせ同じような獣欲が溢れ出てくるに違いないくせに。

 こんなボロアパートくんだりまでやってきて、二束三文の価値もないようなお袋を抱いては欲を吐き出す猿共なのだから、さぞや汚い中身を披露してくれることだろう。

 今なら引金一つ引けば済む話だが、当時はそうはかない。

 そんな勝手極まる視線から、これから始まる恐ろしい宴から逃れるように、齢六歳程度の俺は中華街に逃げ込むしかなかった。


 今思い返すと、学校にも通わず、ろくに読み書きも出来なかった当時の俺は、ヒトというよりも確実にケモノ寄りの生活を送っていた気がする。

 大塚のようにこむずかしい言葉を使うとすれば、アレは「生存本能」に忠実に従っていた結果と言ってもいいだろう。

 腹が空けば近所の店の暖簾のれんを潜る。混雑している時間帯は駄目だ。比較的客が空いている時間を狙っていくのが重要である。客がいなけりゃ尚良い。

 そして注文が入っていない店主を確認すると、ひたすらじっと見つめる。餌を前に涎を垂らす野良犬のような浅ましい真似はしない。澱んだ目で、ただじっと視線を外さないことが秘訣だ。

 この時、汚れた衣服を着ていくことを忘れてはいけない。どのみち綺麗な服なんて一着もないから気にする必要もないのだが――

 すると、俺の身形みなりを一瞥した店主は、九割がたそっと適当な飯を差し出す。客の残した残飯を出されることもあった。だが、そんな些末な違いはどうで良かった。店主の感情などどうでも良い。仮定なんて関係ない。ただ、飯にありつく――その結果が全てだった。

 でないと瞬く間に衰弱して、この世に生まれてきた意味も知らないまま死んでしまうから。


 お礼の言葉すら知らない俺は、差し出された飯をかきこんで食べる。店主もそんな俺を邪険に出来ず、ただ眺めていた。

 ここまで誰に教えられたわけでもない。生きる為に本能が成したわざ

 普通の人間なら、人らしい教養を身につけるはずが、俺はいかに人を欺いて、己の糊口を凌ぐかに全神経を張り巡らしていた。

 独学で覚えていった言葉も、「なにも食べていない」「家を追い出された」「お金ない」

 いかに人の心をくすぐるかに特化していた。

 お陰で、文芷に巡り会うまで、まともに漢字を書く必要も、覚える気もなかった。


 しかし、ガキの考えは大抵甘いもので、小学一年生程度のガキが連日中華街の店を無銭飲食でハシゴしていれば、彼ら華人独自のネットワークに引っ掛かることなど頭にも思い浮かばなかった。

 中華街で店舗を構える経営者の間では、疫病神として俺の顔は知れ渡っていたのだ。

 そして、とうとうとアノ店で予期せぬ問題が起きてしまった。



「なぁ坊主。名前は何て言うんだ」

 その日は、まともな食事にありつくことができた。目の前の刀削麺ダオシャオミエンを空っぽの胃袋に流し込んでいると、普段は距離を置くことが常の店主から声をかけられた。信楽焼の狸のような親父だった。

 とっさの質問に、頸を横に振って答える。ちょうど口一杯に麺を頬張っていたので答えられないと判断したのか、店主は俺の口が空っぽになるまで黙って俺の返答を待っていた。

 蛇口から勢いよく流れる水道水が、アルミのシンクに勢いよく叩きつけられている。沸騰した寸胴鍋の中の白湯パイタンが、カウンター越しでも熱気が伝わるほどグツグツと煮えたぎっていた。

 言葉には出さずとも、まるで早く答えろと店主が俺を急かしているように思えた。


「……劉」

 始めて他人に自分の名を語った。店主、後に陳皓宇ハオユーと名乗る男は、平らげて空になった器を目にすると、もう一杯無言で麺を足してくれた。替え玉ったやつだ。

「劉か、下の名前はなんだ」

「……英俊」

「劉英俊よ。お前の親父は何の仕事をしている。お前の母親はお前に何をしてやってる」

「……わからない。しらない」


 狸の親父は、誰も口を出してこなかった家庭環境について、無神経にもズカズカと踏み込んできた。

 自然と口から出ていた返答は、都合が悪くなったときに使うお決まりの言葉フレーズ

 中華街に百件以上の中華料理店が軒を連ねていたが、中には子供とはいえ俺の事を必要以上に不振がる店主も存在し、時には対峙しなくてはならない場面も少なからずあった。

 そんなときは、探りを入れようとする店主にたいして、「わからない。しらない」の一点張りを通し、隙をみてトンズラしていたのだが……。


 そんな生活を続けているうちに、とうとう店に一歩足を踏み入れた瞬間、バケツ一杯の冷水を浴びせられることもままあった。

 疫病神として追い出されていたようだ。冷えきった冷水が刃物のように肌を刺す。夏ならまだいい。火照った体が冷やされるから気持ちいいくらいだ。これが十二月を過ぎると、場合によっては命に関わる。濡れた衣服が肌にまとわりつき、体温を急速に奪っていく。

 そしてあいにくその頃は、十二月も半ば。

 運悪く、月の最低気温の記録を更新するほどの寒波が襲来していた。餓えと寒さによるダブルパンチ、多重債務のようにのし掛かる不条理に、さすがの俺も参ってしまいそうな時期だった。

 そうして少しずつ出禁になっていく店が増えていくなかで、とうとう触れられたくない心の奥底に侵入してくる人間と遭遇してしまった。


「知らないわけないだろ。現にこうしてお前はタダ飯を喰らいにウチにやってきたわけじゃないか。いいか、よく聞け劉英俊よ。今のままだとお前が立ち入れる店は早々に無くなる。これは自治会で決められたことだ」


「自治会」というものが何を示す言葉なのか当時は理解できなかったが、およそ狸の親父が伝えたいことは理解できた。

 とうとう、飯の当てが無くなってしまったのだ。落胆というより、むしろここまで無慈悲で辛い世の中から、さっさとオサラバしてしまいたいという気持ちが勝っていたと思う。

 二杯目の刀削麺が、まだ熱い湯気を立ち上らせていた。

 この世で最後のな飯になるかもしれない――そう思うと自然に箸の進むスピードがゆっくりとなる。呑み込んでいた麺を味わうように咀嚼して、嚥下する。初めて食道の形を認識した気がした。

 味わって食べてみると、たいして旨くはないことにも気づく。


「劉英俊。何時だっていい。これから毎日俺んとこに飯を食べに来い」

「……どうして?」

「ガキが腹を空かしてる姿を見るのは忍びない。たらふく飯を食ってこそ幸せってもんだろ」


 そう話すと、気味の悪い笑顔で呵々大笑した。贅肉たっぷりの腹を揺らして。


 狸の親父が言ってる意味はわからなかったが、その日から俺の食卓は一件の店になった

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