第8話

 山下公園すぐ近くの立体駐車場に車を止めた俺達は、それまで冷房が効いていた車内から再び灼熱の外界へ下りたった。

 うだるような暑さのなかに感じられるのは、海が近いせいか肌にまとわりつくような湿気と、僅かに鼻孔へと届く香辛料の香り。



 健康の為なら死ねると、誰かが言っていたことを思い出しながら腕時計を見ると、針はまだ七時にも達していなかった。

 我ながら健康的なことだと、他人事のように呆れてしまう。

 時間も時間な為、中華街も含めた港町全体に人気ひとけは少なかった。

 あと三時間ほども経てば太陽はさらに真上に昇り、暴力的な日差しと共に気温もぐんぐん上昇する。にも関わらず、神奈川県下、県外、はたまた国外から訪れる観光客どもが、この交差点を青信号とともにぞろぞろと交差点を渡っていく光景は、今も昔も変わらない。

 塞き止められた水路から勢いよく流れる水のように、この街の持つ引力に、まるで引き寄せられるとでもいうように朝陽門の下を潜っていくのだ。


 中華街で一番大きく、そして有名な門といえば東に位置する朝陽門だが、その他にも西の延平門、北の玄武門、南の朱雀門が存在し、それぞれ東西南北を向いている。

 風水と過去の偉人賢人にすがるのが大好きな華僑の年寄りが、いかにも好みそうな街の造りだ。

 朝陽門はその名が示す通り、朝日が中華街に差し込み、繁栄をもたらすという象徴だとされているが、俺は十五でこの街を出ていくまで、ついぞその恩恵を授かることはなかったが。



「眠い~もう動けない~」

 朝早くに起こされた反動が今ごろ訪れた可欣は、俺に万歳をする形で歩道で立ち止まる。


「おい。なんの真似だ」

 無言で両手を挙げて、降参ホールドアップのポーズか?

 その眼はまるで俺にナニかを乞うような意思を宿している。いったい俺に何をしろというのだ。


「劉さんアレですよ。万歳といえば『抱っこ』に決まってるじゃないですか」

「抱っこだぁ?ふざけたこと言ってんじゃねぇぞ」

「俺に怒らないでくださいよ。それよりも、子供はこうなると抱っこしない限りはテコでも動きませんよ。まさかこんな路上に置いてくわけにもいかないでしょうし」

 さも正論を言ってるだけという大塚の顔が、なんとも鬱陶しい。

「この俺にガキを抱っこしろってか。は、笑えない冗談だな」

「抱っこ!!」

「うっせぇ」


 耳元で手榴弾が炸裂したような声量で叫ぶ。おかげで鼓膜がイカれちまいそうだ。

 そんな叫ぶ元気があるならとっとと歩けよ――という俺の懇願など通じるわけもなく、抱っこ抱っことせがむ声が港町に響き渡る。

 成人男性二人――うち一人は殺し屋。早朝からガキに振り回される。

 端から見たら滑稽ここに極まれりに違いない。


 大塚の言う通り、テコでも動かないというのはまんざらホラでもなく、ほっといて歩き始めてもがんとしてその場から動こうとしない。


「あーわかったよ。オラッ、立て」


 筋モン相手なら自分から折れることなどあり得ない。どれだけ粋がった相手も最後は命乞いと弱々しい眼を向けてくるというのに、可欣はまったく物怖じしない。

 このガキが恐怖ににぶいのか、それとも俺が恐れるに値しないとでもいうのか。


 ガキに抱っこをせがまれて渋々従う殺し屋がいてたまるかよ――

 心のうちで反吐を吐きながら、駆け引きに勝った可欣の小さい体を抱き抱える。

 そういえば、このガキをちゃんと抱き抱えるのは始めてだった。これまで運ぶときは荷物のように抱えていたもんだから、その体重の軽さと両手にすっぽり収まるサイズ感に改めて驚かされる。


 こんなにもガキって軽いのかよ――

 例えるなら、まだ辛うじて人間性が残っていた鼻沸鬼はなたれ小僧のときに、隣のジジイに譲ってもらった兎だ。

 自分より遥かに小さい存在の癖に、信じられないほどに暖かい。いや、季節柄むしろ熱い。俺にはない、血が通っている証拠。

 なにが気に入ったのか、俺の懐でキャッキャと騒いで暴れるので、つい落としそうになってしまっう。

 そういえば、あの兎はどうしたのか――抱っこをしながら記憶を掘り返すと、あの数日後に食卓に上がっていたことを思い出した。



 まだ人通りもまばらな中華街大通りから、市場通りへと入っていくと、通路を挟んで両側を雑多な店が軒を連ねている。

 どこもシャッターが閉まっている店が殆どで、店構えは十年前から変わりはないように思える。

 さして干渉に浸ることもなく突き進み、途中、名も無き小路に足を踏み入れると、より猥雑な匂いが強くなった。

 革靴の底から感じる湿り気さえ、ここが日本であり、異国でもあることを告げる。


 あちこちから聴こえてくるのは、開店前の調理に勤しむ菜刀ツァイダオが野菜を刻む音。気配を感じ見上げると、二階で人目も気にはばからずに下着を干す女。野良猫とカラスがゴミ箱の領有権を巡って争う横で、覚醒剤シャブの使いすぎか、人間をやめたような顔の人間が倒れているゴミ捨て場。


 中華街には大小様々な通りが無数に張り巡らされているが、そのなかでも名前がつけられている通りはあくまで観光客向けのにすぎない。

 表の顔しか知らない奴らが、この名もなき裏通りの光景を目にしたら、まさかここが平和な日本だとは思いもせずに拒否反応アレルギーを起こすだろう。

 東京の一等地と比べるべくもなく汚らわしいが、ここの住人にとっては当たり前の日常にすぎない。


 足元に散らばる残飯を避けつつ進んでいくと、五割、いや、九割ほどの確率で潰れていると予想していた中華料理屋が、まだ健在であることを知った。

 清掃という概念をどこかに置き忘れたのか、タールのような汚れがびっしりとこびりついている排気口ダクトからは、朝から嗅ぐには胸焼けするような、安い脂肪ラードが焼けるような煙が吐き出されていた。



「あの……ここに何か用があるんですか?」

「俺の唯一と言っていい友人がいる。事情を話せば色々面倒を見てくれるはずだ」


 古き良きを通り越して、もはや不快にすら感じさせる木製の引き戸は立て付けが悪く、力一杯引いてやっと開く始末だった。

 その店内には黄ばんだコックコートを着こんだ男が、天井近くに置かれたテレビをつけっぱなしにしながら新聞を眺めていた。

 手にしているのは日本の大手新聞社のものではなく、中国共産党中央委員会が発行している機関紙だ。あれは人民日報だったか――

 そういえば一家揃って共和党員だったことを、今さら思い出す。


「よぉ。久しぶりだな、陳文芷ブンシ

「あ?なんだテメェ」


 劉の呼び掛けに男は三白眼で返す。

 この十年で筋肉質でしまっていたはずの体にはすっかり脂肪が蓄えられていたが、その剣呑な眼差しは二人でをしていた頃となんら変わりはないように思えた。


「ちょっと劉さん……めちゃくちゃ警戒されてるじゃないですか」

「ああ、コイツは昔からこんな奴だから気にするな」

「うちはまだ開店前だぞ。うだうだ言ってねぇで一昨日来やがれ」


 男はそう言うと、新聞を置いて代わりに菜刀を手にし、その錆びた切っ先を向けてくる。

 キョトンとした可欣は、俺の裾を掴んで「おなかが減った」と、場違いな意思表示を示している。


「おいおい。好朋友ハオポンヨウの顔も忘れたのかよ。文芷 」

「……お前、英俊かよ!マジか!お前生きてたのかよ!」

「馬鹿が。俺がそう簡単に死ぬわけねぇだろう」

「それもそうだな。で、十年ぶりに訪れたわけはなんだよ。その後ろの二人も関係してるのか?」

「ああ……そのことだが――」



「おい劉よ。十年ぶりの再会はもちろん嬉しいんだがよ。何故こんな厄介事を持ち込んだ」

 俺の話を聞き終えると、途端に眉間にシワを寄せる。

「まぁそうカリカリすんなよ。そう長居はするつもりはねぇからよ」

「はぁ……お前は昔っからそうだよな。お前には恐怖というものがない。あの時だって、」

「あーあーわかったわかった。話は後で聞いてやるから」

 すると、二人の会話に割って入る声が二階に通じる階段から聴こえてきた。


「あんた朝っぱらから誰よ……ってお客じゃないわよね?」

 寝ぼけ眼で降りてきたのは、化粧っ気もないのっぺりとした顔の女だった。薄い布と言った方がいい透けた寝間着を着ている。

「ああ。コイツは親友の劉だ。で、コイツは俺の妻の茜だよ」

「どうも」

 表情を変えずに会釈をする。クラブに出すには些か愛想が足りないが、化粧を施せばそこそこ見映えしそうな体か。


「なんだ、お前みたいな男でも結婚出来たのか」

「当たり前だ。いくつになると思ってんだ。それにガキだって腹ん中にいる」

「マジかよ。あの闘牛って言われてたお前にガキか……世の中わからねぇもんだな」

「そういうお前こそ、いい女はいないのかよ」

「無理だな。一回抱けば飽きるから」


 そんな下卑た会話を中断させるように可欣の声が響く。

「ごはん食べたい!」

「おっと、元気な女の子だな。念のため確認しとくが、お前のガキじゃねえよな?」

「んなわけあるか!」

 可欣が俺のガキと言われて、鳥肌がたった。

 たぶん一週間も一緒にいたら、俺はストレスで胃が穴だらけになるだろう。

「そっちの兄ちゃんも湿気た顔してるな。まだ開店前だが精がつく料理を食べさせてやるよ」





「オヤジ。既に大塚の自宅はもぬけの殻です」

「……わかった。他に考えられる潜伏先はどうなってる」

「はい。劉の数少ない交遊関係、主に女ですが、そいつらが匿ってやしないか部下に調べさせてますが……現状めぼしい成果は出てません」

「クソ……手間取らせやがって」

「それとオヤジ。もう一つ報告があるんですが」

 この期に及んでまだ何かあるのかと、額に青筋を浮かべながら冷静に尋ねる。

 そうだ。俺はいつでもそうして危機を乗り越えてきたじゃないか。


「なんだ。話してみろ」

「はい……確実な証拠があるわけではないんですが、どうやら組内部にがいたみたいです」

「Sだぁ?そんな奴が入り込む余地なんて……今『いた』と言ったか。過去形ということはそいつは捕まったのか」

「Sだった男は――堂島組組長、堂島春樹です」

「堂島がか!?クソ……アイツ恩を仇で返すような真似しやがって」

「ですが、警察にナニを売ったかまでは調べがついてません」

「いや、それはこちらで調べる。ちなみに……その件は誰かに話したか?」

「え?いや、まだオヤジにしか話してないです」

「わかった。それなら一度事務所に顔出せ」


 通話を切り、一人掛けのソファに腰を下ろす。

 実は、堂島がSの真似事をしていたのは把握していた。そもそもあのボンクラにSのような慎重に慎重を重ねて、さらに慎重を期すような役割が勤まるはずもないのだが、どうしたことか幸運の女神ビッチはあの阿呆に微笑みやがった。

 どこで仕入れたか知らんが、俺のシノギに気づいた堂島は愚かにも強請ってきた。

 そこら辺のチンピラ相手ならいざ知らず、この井筒会本家若頭、辻村御幸を強請るとは、覚醒剤シャブでブッ飛んだ人間の犯す罪深さは計り知れない。


 結局福建相手のシノギは全て堂島に被ってもらって真相は闇のなかに消えたからいいものの、長年培ってきた嗅覚が嫌な臭いを嗅ぎ取っていた。


 この件に、もし公安の連中が噛んでると仮定したら――

 冷房を最低まで効かせた室内で、背筋からまとわりつくような汗が流れ落ちた。

 想定は常に最悪を想定していなければならない。

 やはり、あらゆる可能性を鑑みて早急にあのガキを始末する必要があると判断した辻村は、とある番号へ電話を掛けた。

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