第7話

 自宅から所沢にある大塚のアパートに転がり込んだ俺は、無駄に体力を消費し疲れていた。

 何が面白いのか、やたらテンションが高い子猿のような可欣を黙らせ、かつ寝かしつけるのは簡単な作業ではなかった。

 生命力という点では、数多の修羅場をくぐり抜け、血の海のなかを泳いで生き延びてきた俺は、人後に落ちないつもりだった。

 他の半端者の追随を許さない、はずだったのだが――


 狭い室内で跳び跳ね、とにかくはしゃぐ可欣を相手にするには、気が触れた覚醒剤中毒者シャブ中を拘束して、仕留める以上に難しいようにも思えた。

 俺には母親に寝かしつけられた記憶なんてもんはないが、世の「善良」な母親とやらは、ここまで面倒くせぇ事を毎日してなるのかと思うと、金にもならないことによくもまぁ付き合えるなと馬鹿馬鹿しくなる。

 先程まで台風のように暴れまわっていた可欣は、こちらの苦労など知らずに電池が切れたように静かに寝息をたてていた。


 あまりに気持ち良さそうに寝ているもんだから、そのツラを見ているうちに、柄にもなくアルコールもなしに睡魔のいざないに落ちてしまった。




「起きてください!起きてくださいってば!」

「……ああ?んだよ……うるせぇな」

「いいから、起きて今すぐ出発する準備をしてください!」


 起き抜けに頭が痛くないことにまず驚いたが、 無理矢理大塚に起こされた俺は、とにかくテンパってる目の前の男を殴って黙らせた。


「黙れ」

「あいてっ」


 どうして朝っぱらから焦っているのかを問いただすと、俺が寝ている間に大塚の周辺で何者かが居場所を探ってると、知人や親戚から数件苦情の電話が舞い込んだらしい。

 そのどれもが、相手は名前も告げずに高圧的だったという。しかも有無を言わせずに、居場所を吐かなければとことんをすると脅されたため、屈した奴らはつい教えてしまったとのこと。


 時計を見なくても、外の明るさでそれなりの時間になっているのはわかった。

 オレンジ色の朝陽が、カーテンの僅かな隙間から差している。

 夏だから日の出も早いのだろうが、時計を見るとまだ五時台――俺としては記録的な起床時間だが、そんなことに驚いている余裕はないらしい。


「おい。お前の知り合いに電話があったのは何時頃の話だ」

「それが、夜中の四時位だと」

 頭のなかでシミュレーションをした。

 辻村さんのキレたときの気性の荒さと、恐らく部下に与えるだろうタイムリミット、それにここまでの移動時間諸々を考え、最悪のケースは一体なにかを想定する。


 人はつい都合よく希望的観測に基づいて計画を練りがちになってしまうが、それは時として足を引っ張る形になる。

 命が懸かっている場面では、その甘さが足どころか命を引っ張る。

 氷のように冷たい血で、寝起きの頭をクールに働かせる。余計な感情を捨て去り、今はただ最善の道を模索しろ――



「ふわぁ~。おなか減った」

 地獄と天国ほど落差のある、まるで緊張感のない朝食の催促が思考を止めた。

「おい大塚!なんか適当なもん食わせろ」

「すみません……今なんもないんすよ」

 クソが、どうせ半端者なら朝食くらい用意しとけよ。と、半ば八つ当たりのようなイチャモンをぶつけると、足元で寝ぼけ眼の可欣が見上げてきた。


「お腹減った」

「あーくそ、とっとと逃げるぞ!」


「オナカヘッタ」としか言わなくなったこの小さな怪物モンスターを黙らせるために、冷静でなくなった俺は急いでこの場を離れることにした。




「例の男は見つかったのか」

「いえ……ですがもう少しお時間をいただければ」

「だから……その時間がないから早急にあのガキを見つけ出せと言ってるんだろうが!」


 偽名で借りたウィークリーマンションの一室。

 冷房をフル稼働させた室内は、ワイシャツ一枚では寒いほどに冷えきっている。

 その室温とは対照的に、奥寺は顔を真っ赤にさせ、電話越しに使えない部下へ激励なしの叱咤をを浴びせ続けていた。

 睡眠不足と苛立ちから、持病の頭痛に頭を痛めていた。

 これで何連勤となるだろうか――公に仕えたときから滅私奉公は覚悟していたが、捜査一課から警備局公安課に配属されてからが真の意味での滅私奉公だということを、今回ほど思い知らされたのは初めてだった。


 ごく少数の人間とのパイプラインでしかない携帯電話を床に叩きつけ、本日二桁目の栄養ドリンクに手を伸ばす。

 鏡の中の自分は些か人相が悪いような気がしなくもない。いや、控えめに言って確かに悪いだろう。組織犯罪対策部マルボウの奴等とタメを張るくらいには。


 公安に配属されたやからは、次第に表情をなくしていく――所轄時代にまことしやかに流れていたその噂を聴いたことがあるが、あながち間違いでないことを、配属当時に比べ余計な肉が削げ落ちた己の顔を見て自嘲した。

 まだ自嘲できるくらいには表情が残っていたことに安堵すべきか、それとも、公安として余計な感情が残っていると嘆くべきだろうか。


 警視庁警備局警備企画課に属する、通称「ゼロ」通称というのはあくまでコードネームであって正式名称は存在しないからだ。

 俺達作業班は、その直属の部隊というわけだが、そもそも今回のからの指令は不可解そのものであった。

 監視対象への単純な監視作業なら、それこそ三百六十五日休日なしで、今日も日本の何処かでおこなわれている。


 ただし、今回一方的に告げられた内容は、写真のデータと共に送られてきた「とある子供の回収」という一文のみ。

 そんな抽象的な指令は初めての事だったので、まるで真意が掴めずにいたが、警察、さらに公安という組織は圧倒的な縦社会であるがゆえに、指令を断ることなど言語道断だった。

 公安部はその業務の秘匿性ゆえ、下手をすれば自分が日本の暗部に追われる立場になる。

 それを始めに徹底的に教え込まれた俺は、意思のない従順な犬になりきるところから始め、今では立派に己を殺して国を守っていた――その為なら、どんな手段でも選ばない。それが俺の公安の覚悟とも言える。


 栄養ドリンクを飲み干すのを待ち構えていたように、床の上に転がっている携帯電話が振動で小刻みに震えた。

 拾い上げて通話ボタンを押すと、機械音声のような抑揚のない声が流れる。


「奥寺。定期報告の時間だが、調子はどうだ」


 どうせ全てお見通しだろ――

 ゼロの中でも異質と言われている朝比奈は、俺の直属の上司に当たる。

 公安の闇、とも揶揄される朝比奈の素性を知るものは、知っている限り存在しない。フィクションのような男だが、一つ言えることは、この国の闇にどっぷり浸かっている魔物ということだ。


 自分の権限で知ることが出来た朝比奈が関わった事件だけでも、一般人の間で広まりでもしたら、さぞパニックに陥るだろう事件ばかりだった

 その絡んだ事件の殆どが、仮想敵国とされる諸外国との水面下での衝突、排除に関する任務ばかり。

 国民がぬくぬくと暮らすアスファルトの下で、血で血を洗う見えない戦争を繰り広げてきたわけだが、その朝比奈がどうして「子供の回収」という訳のわからない作戦の陣頭指揮を取るのか、そのギャップに戸惑うばかりの俺は尋ねてみた。


「順調かと問われれば、朝比奈さんが望む結果には至ってないです。それよりも一つ聞いてもいいですか」

「なんだ、過去の実績に期待してお前を抜擢したのたがな。まぁいい……何かわかれば逐次報告しろ。それで聞きたいこととはなんだ。手短に話せ」

「何故今回の案件に首を突っ込んだんですか」

「……はぁ。お前も公安の端くれならいい加減理解しろ。俺達に『個』はない。ということは感情なんてものも存在しない。ただ与えられた任務を達成すればいいんだよ。話がそれだけならさっさと任務に戻れ」


 やはり口を割ることはないか――


「ああ、そうだ。一つ言っておく」

「なんですか?」

「その栄養ドリンクはたいして効かないぞ」

 そう言い残すと通話は切れた。

 俺が余計なことを知ろうとしたからか、まるでお前の一挙手一投足は把握してるぞと言わんばかりの安い脅しだ。

 安いが、それが一番効果的な脅しとなるのは間違いではない。


 さて、使えない部下をこれ以上増やしても時間の無駄になるだろう。

 面倒だが自分で動いたほうが早いと見切りをつけ、久しぶりに単独捜査に徹することにした。

 捜査一課の頃の足で稼ぐ手法が、結局は自分の性に合っている。

 頬とは反比例に、すこし前にせり出してきた腹部を叩きながら、根城にしていたマンションの一室から一気に灼熱の外界へと足を踏み出す。



「これからどうしますか?」

 エンジンキーを回した大塚は、律儀にバックミラーの位置を確認しながら尋ねてきた。

「そうだな……こちらの居場所がバレてるなら、北上するのは愚策だろう。横浜の中華街まで車を走らせろ」

「なんで中華街なんですか?」

「中華街は俺の生まれ育った街なんだよ。歌舞伎よりも勝手を知ってるからな」

 幼少期の頃に肥溜めのような毎日を過ごし、中学卒業後に飛び出すように去っていったあの街に、生きてる間に再び戻ることになろうとは、夢にも思わなかった。


「ちゅうかがいってなに?おいしいの?」

 朝食用に菓子パンを買ってやったってのに、まだ可欣の頭のなかは食べ物の事でいっばいのようだった。

「可欣ちゃん。中華街ってのはね、美味しい料理のお店がたくさんあるところだよ」

「おーごはん!早く行きたい!」

 大塚の一言でスイッチが入った食欲は、収まりそうもない。


 下道で時間をかけながら車を走らせ、窓の外にレインボーブリッジが見え始めると、中華街を擁する横浜はすぐそこまで近づいてい

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