第5話

 複数ある自宅の一つ。池袋、落合にあるアパートに到着すると、スマホには滅多に連絡を寄越さないヤツからの着信履歴が残されていた。

 そいつを探偵だと言う者もいれば、はたまた情報屋だとか、世界を股にかけるハッカーとも、とにかく職業不詳、年齢不詳、性別不明、その存在は裏の業界では有名だった。



 通称――血吸蝙蝠チスイコウモリ

 名前はダサいがヤツに咬まれたら最後。その対象は組織、個人関わらず、気づかぬうちに目当ての情報をごっそり抜かれちまう。

 南米辺りに生息してる吸血性の蝙蝠が名前の由来らしいが、ヤツはそんな可愛らしいもんじゃない。


 依頼料には多額の金銭を要求する癖に、仕事シノギの内容によっては、気が乗らないとドタキャンする変人っぷりだし、金を惜しむ依頼主には報復だって辞さない。

 正体を実際に拝んだ人間がいないぶん、半ば都市伝説になりつつあるが、俺にとっては面子メンツを潰された憎たらしい存在でしかない。


 以前、井筒会と長らく敵対していた半グレ共のリーダーを処分した際に、地下深くに潜ったヤツらの情報を得るために蝙蝠と手を組んだことがあった。

 それがきっかけで、ガードが堅い標的の場合は、その都度バカ高い依頼料を振り込んでは仕事を手伝ってもらっていた。


 そんなある日、井筒会の覚醒剤の売買を取り仕切っていた事務所とその倉庫に、本来あってしかるべきはずの事前の情報もなく、組織犯罪対策課ソタイの連中が雪崩れ込んできたのだ。

 そのガサ入れが、事前にこちらの計画を全て把握していたかのような動きだった。

 フィリピンマフィアとの取引直後ということもあり、大量の証拠という証拠を押さえられた筒井会は億単位の大打撃を受けたことは、今でも禁忌タブーの話題となっている。


 どこから情報が漏れたのか、当時の組関係者は血眼になって探したものの、全国に張り巡らされた情報網からは犯人を特定するには至らず、真相は闇のなかへと消えていった。

 最大の過ちは、基本的に金しか信用していない蝙蝠のことを井筒会はすっかり飼い慣らしたと思いこんでいたことだ。

 金が最優先されるなら、より多額の金銭を積んだ外部の組織に寝返ったヤツの選択自体は予想できたというのに。

 単純な話で、まったく笑えねぇ。


 当時、半グレと井筒会の抗争が無駄に長引いたのも、ヤツが二重諜報ダブルスパイの真似事をして情報を混乱させたことが原因だ。

 真実と嘘をブレンドした情報を両者に渡すことで、無駄に犠牲を出し続けた血で血を洗う抗争は、出来るだけ被害を大きくして、両者からふんだくれるだけ金を巻き上げようと企んだ血吸蝙蝠の仕業だった。

 いったいあの一件で、どれだけの敵を作ったことか。その肝はどれだけ図太いんだと驚かされたことはよく覚えている。

 最終的に金額の吊り上げに同意した井筒会に乗っかっただけだというのだから、組の面子メンツもあったもんじゃない。


 とにかく、俺がムカついてるのは組の面子が潰されたからではなく、俺もヤツのシノギの道具の一つとして認識されていたことだ。

 俺の意思で動くならいざ知らず、知らぬ間に操られていたなんて、考えるだけで虫酸が走る。

 結局働き蜂のように働かされ、ヤツは甘いを吸っただけ――組がどうこう以前に、その方が十分に腹立たしい。


 その事件以降、ヤツとは一切連絡が通じていなかった。

 金を払えばどんな情報だって手にいれてやるさ――そう豪語していたくらいのヤツだからこそ、札束を積まれて簡単に敵対組織に寝返ったのだろうが、取っ捕まえちまえば小ズル賢く飛んで逃げるその羽を毟り取ってやるつもりだった。


 まぁ、俺も人の命を金に変えてるわけだから、他人のシノギに口を出す資格も本当はない。

 ただ、見事に尻尾すら掴ませなかったヤツが、どうして今頃俺に関わろうとしたのか、正直忘れかけていた怒りの炎が今更ながら再燃する。

 その怒りを表に出さなかったのは、僅かに興味が勝ったから。それだけだ。

 


「もっしー。元気にしてたぁ?劉ちゃん」

 電話に出るときは、必ずボイスチェンジャーを使ってカムフラージュしていたはずのヤツだが、今回は素の声であったことに驚いた。

 予想よりもだいぶ高音の声が、まるでモスキート音のように鼓膜を震わせる。蝙蝠じゃなく、蚊のように鬱陶しい声。


「よお。久しぶりだな。こちとらお前さんに会いたくて会いたくてしょうがねぇんだよ。それにしても、まさか血吸蝙蝠の正体が女だったとはなぁ……ベッドの中じゃどんな声で哭いてくれるんだ?」


 下卑た挨拶で先制攻撃パンチをお見舞いするが、内心は血吸蝙蝠は男に間違いないと思っていたので、良い意味で期待を裏切られたことに感謝する。

 いもしない神様とやらに。

 どんな相手でも、会話の主導権は握られるのは我慢ならない。スピーカー越しに放つ言葉は、呪詛でもかけるように相手の体を蝕む毒を孕んでいる。

 それがヤクザの特技の一つでもあるのだ。


「あら。とんだご挨拶じゃない。私は暴力的な男は嫌いなの」

「なら、そう言えなくなるように仕込んでやろうか」

 頭のなかでは、顔も体も知らないオンナを責め立てる自分が浮かび上がる。

「おあいにく様。私、レズビアンなの」

 マジかよ。一瞬にして萎えた。

 そういや昔、愚図クズるレズ相手にヤったことがあるが、あれは不毛だった。下も不毛だったが。


「ねえ、本題に入っていいかしら。これでもスケジュールが立て込んでるのよね」

「俺だってそれが目的だよ。だからこうして我慢して会話してるんじゃねぇか」

「ああいえばこういう。ねぇ。あなた、幼子を匿ってるでしょ」

「幼子?なんのことだよ」

「そういう小芝居いいから、私がちょっと調べれば、そのくらいのこと把握できるのは知ってるでしょ」


 どうやら、電話がかかってくる前から主導権は握られていたようだ。今回の勝負も俺の負け。のようだ。

「それがどうした。お前になんの関係がある」

 視線を落とすと、薄い布団の上でガキがスヤスヤ寝てやがる。緊張感ゼロ。

 まだ寝足りなかったのか、大きく開けられた口からは、気持ち悪いほどよく延びる涎が、今にも敷布団に達しようとしていた。

 おい。そこで俺は寝るんだぞ。

「もう食べられないよぉ……」

 足蹴にすると、むにゃむにゃ寝言を言って寝返りを打つ。あーあ……汚ねぇな。


「まぁ一方的に情報を握られるのって気持ち悪いわよね。私なら絶対無理だわ。それに気付いてるだけ劉ちゃんはバカな国民よりだいぶマシだけど……って話が反れたわね。どうして身の危険も省みずに狼のような劉ちゃんに電話をかけたかというと、その一緒にいる子、可欣クゥシンちゃんだっけ。その子かなりのみたいよ」

「……どういうことだ」

 初めて蝙蝠の話に興味を持った。

「私の趣味でね。全国各地の暴力団や政治団体、民間企業、宗教団体、はたまた海外マフィアの機密情報を抜き取るのが日課なんだけど」

 コイツ、俺より頭イカれてんじゃねえか。命がいくつあっても足りないだろ。


「ハッキリ言って、ハッキングの腕なら国内で一番だと自負してるし、その自信もある。そんな私が、ある日フラっと、散歩がてらに公安のデータベースに侵入したときに、その可欣って女の子の名前と顔写真を発見したわけ」

 フラっと行けるものなのか、公安の懐ってのは。

「このガキが公安にマークされてたっていうのか。残念ながらこのガキはまだ五歳程度で、特殊な訓練を受けた暗殺者アサシンでもなければ自爆テロを促すような指導者キチガイでもないぞ」

「茶化さないで。公安に氏名と顔写真を押さえられてる時点で、ただの子供じゃないのはわかるでしょ。でも、私がもっと不可解なのは、それからどれだけ潜ってもそれ以上の情報が出てこないわけ。いい?でさえも具体的な情報が得られないということは、即ち相当ヤバイ爆弾を抱えてるってわけよ」


「コイツがねぇ」

 さっきから垂らしてる涎の量が気がかりでしょうがない。血吸蝙蝠の言うことは半分程度に聴いていたが、どれだけ語られても俺にはただのガキにしか見えなかった。

 まだかたられてるほうが現実味がある。

 だとしたら許さないが。


「そういやコイツ、家族が殺されても全然悲しまなかったな。むしろ家族を殺し回った俺のことをヒーロー扱いしやがった」

「劉ちゃんがヒーロー?それならこの世界はディストピアで決まりね。そうそう。夢も希望もないこの世界で生き残ってきたアナタならわかると思うけど、そこに長居してたら危ないわよ」

 そっちに偽造ナンバーのワゴン車が向かってる、と告げられた。

 ただ、その忠告は少しばかり遅かったようだぜ。


 部屋の外から、聞き慣れた直列四気筒のディーゼルエンジン音が聴こえる。

 僅かにカーテンを開いて階下を眺めると、黒のハイエースが停まっていた。

「その情報、お前にしては鮮度が悪かったな。何かあれば連絡を寄越せ。わかったな」

「は?ちょっと、話はまだ」

 ――今はお前と話してる場合じゃねえんだよ。

 手元で震えるスマホには、辻村の名が表示されていた。



「もしもし。お疲れ様です」

 一呼吸置いてから、棘だらけの声が届く。

「仕事が終わったんなら連絡くらい入れろ。今は自宅か?」

「すんません。朝早かったもんで二度寝してました」

「そうかそうか。それより指示通りワン一家は全員消したんだよな。まさか、生き残りがいるとか言わねぇよな」


 どうしたものか――これは確実に可欣が生きてるのはバレてると思ったほうがいい。

 だが、どうして公安がマークしているガキを、辻村さんはわざわざ消そうとしているのか。

 なんにせよ情報ピースが足りなさすぎる。


「おい。聞いてるのか」

「あ、すんません。ところで辻村さん」

「なんだ」


 俺が最初ハナから疑ってかかってるからか、嗅覚が電話口の向こう側から漂ってくるピリピリした空気を、微かに嗅ぎ取った。

 タバコの煙を乱暴に吐いているのが聴こえる。貧乏ゆすりをしている衣擦れの音まで聴覚は拾う。

 普段らしからぬ辻村さんの落ち着きの無さに、血吸蝙蝠が話していた内容が、徐々に現実味を帯びていく。

 停車しているハイエースの窓ガラスに目を向けるが、全て違法な遮光率のスモークが施されているようで、車内を確認することができない。


 ――まったく、面倒なことになっちまった。

 用心の為に誰にも知られてないはずのアパートに来たってのに、こんだけ団体さんが早く到着するってことは、最初から泳がされていたとしか思えない。


「辻村さんらしくないですねぇ……何か焦ってませんか。あの可欣ってガキが、そんなに重要なんですかね」

「劉。お前、知ってるのか」


 何を――とは言わねぇ。言ったところで答えが返ってくることもなし。軽い嫌がらせ程度のジャブに、電話の向こうで額に青筋を浮かべている絵が用意に浮かぶ。


「俺を怒らせるなよ。劉」


 並みのチンピラなら土下座してしまうような冷たい声は、例えるなら蛇の舌だ。ちろちろと、首筋に鋭利な刃物が添えられているような、そんな薄気味悪さを感じる。

 思わず手を当てると、真夏だというのに脂汗をかいていた。本能が囁く――あと一歩踏み込めば、僅かに刺激するだけで地獄へ直通の蓋が開くと。


「十秒やる」

 死刑宣告に近い言葉が聞こえた。

「俺は優秀な駒を失いたくない」

 スライドドアが勢いよく開かれる音が聞え、ハイエースからお揃いの作業着を着た男達が、計六人降りてきた。全員マスクと帽子をかぶっているので誰が誰だかわからないが、下っ端の構成員か、準構成員あたりだろう。

 妙に腰の辺りが膨らんでるのが気がかりだが――

 まさか住宅街でブっ放すことはないだろうな。


「劉。お前ならわかってくれるだろう」

 六人のうち、五人がこの部屋めがけて小走りでやってきている。その気配を隠そうともしないのは、俺に追われる恐怖を与えるためだろうか。

 一人はこの窓を見張っている。脱出経路を塞ぐためだろう。腰の膨らみに手を当ててはいるが、視線はずっと泳ぎっぱなしだし体に力が入りすぎている。

 競馬で言う入れ込むってやつだな。

 アイツは下っ端の中でもさらに下っ端とみた。


 幾つもの修羅場を潜り抜けてきた俺の脳は、勉強にはまるで役に立たないが、どんな状況でも打開策を見つけようと、死ぬその時まで電気信号を送り続ける。


 ――もし、玄関から武装した組員が侵入してきたとしたら、真っ向からぶつかるか?それは蛮勇もいいところだ。いくら銃の名手でも、こんな狭い部屋で打ち合いをすれば、二人殺す間に三人に殺される。

 ――じゃあ一人を盾にして時間を稼ぐか。

 いや、そえなれば、どうせ人質ごと撃ち抜くように指示されてるだろう。辻村さんはそういう男だ。

 ――それなら、ここは逃げるしかないか。

 仮に全員がハンドガン以上の火力を備えた武器を武装していたとしたら、それは逃げる他選択肢はない。

 俺一人ならまだいい。一階に飛び降りれば相手はたった一人。それも下っ端の下っ端。

 咄嗟の出来事に不馴れな相手なら、逃げ切るのはそう難しくない。が、今の俺にはこのお荷物ガキがいる。

 ガキとはいえ、人一人を抱えて二階から飛び降り、かつ武器を手にした相手を追っ手に追い付かれずにやり過ごすことは可能だろうか。


 どうする――どうしたらいい――どれが一番面白い。


「なあ劉。悪いことは言わねえ。ガキがいるのはわかってるんだ。今すぐ消すのなら勝手な真似をしたことは見逃してやる」


 そのガキをあやすような物言いは、量りかねていた天秤を傾かせるのに、ちょうどいい具合に俺を苛つかせた。

 見逃してやるだと?

 上からモノ言ってんじゃねえよ。


「捕まって嬲り殺しにされるくらいなら、俺は抗いますよ。徹底的に」


「……それが答えだな」


 未だ夢の中の可欣を抱き抱えた俺は、靴だけ履き替えて地上に飛び降りた。


「おわ!?おでかけするの?」

 衝撃で目覚めた可欣は目を輝かせている。疑うことを知らない目で。

「ああ。捕まったらおしまいの鬼ごっこだ」

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