第3話

「歌舞伎町、トワイライト」


 タクシー運転手は、後部座席に乗り込んだ俺の姿を見るなり、ひきつった笑顔を向けてきた。

 玉のような汗が額から滲んでいる。隠しきれない焦りと恐怖が、毛穴という毛穴から吹き出しているようだ。


 同じ様な人間を産廃産業廃棄物の山の数ほど目にしてきた俺にはわかる。今すぐ俺をタクシーから下ろしてやりたいか、もしくは職務を放棄してまでもこの場から逃げ出したいと思ってるかの二択だ。

 それが弱者の正常なリアクションだし、あるべき姿だ。とくに俺の前ならなおさらな。


「オラ、どうした。さっさと車出せよ」

「は、はひ」


 はひ、だとよ。こういう弱っちいヤツは視界に映るだけでイライラする。

 何故自分がこんな目に、とか、神はいないのか、とかしょうもないことを考えてるに違いない。

 運転席を蹴りあげると、驚きのあまり天井に頭をぶつけやがった。面白いから、もう一度蹴ってやろう。


 タクシーは靖国通りを走行していた。本来の活動時間に差し掛かった頃、夜の街には慣れ親しんだネオンが灯り始め、新宿駅方面からは洪水のように人々が歌舞伎町へと流れ込む。

 人混みに紛れて、コソコソとキャッチに勤しむホストの連中が次第に増え始めていた。

 迷惑防止条例のせいで、直接声をかけて足を止めさせるようなキャッチ行為は違法とされた昨今、それでは仕事にならないと、今も若いホストがギャル風の女にすれ違い様に耳打ちしている。

 あれが今のやり方だ。なんとも健気に働いてるではないか。


 高級車とは比べ物にもならない薄いシートに背中を預け、柄にもなく物思いに耽る。まぶたを閉じてもネオンがやかましい。それでもタクシーは走る。

 思えば、この歌舞伎町もこの数年で大きく様変わりしてしまった。

 俺がなんのツテもなく歌舞伎町に訪れた一昔前、映りの悪いアナログテレビでコマ劇場前の殺傷事件が取りざたされていた二昔前は、それこそ暴力と金で支配されていた街だというのに、今ではヤクザよりも半グレが幅を利かせてやがる。

 それにお上の目を気にして溝鼠のようにこそこそと生きていかなきゃならない。まったく世も末だ。



 新宿区役所を通りすぎると、雰囲気は一変する。

 卒塔婆のように立ち並ぶ雑居ビルにひしめく外国人パブ、スナック、キャバクラ。その危うさ目当てに来る客ども。

 バックミラー越しに見る運転手の顔は、血を一滴も抜いちゃいないのに、真っ青を通り越してもははや真っ白だ。

 しばらく使い捨ての玩具をいたぶるように弄んでいると、ようやく目的地に到着した。

 さんざん赤信号で「止まるのが下手なんだよ」と蹴られ続けたせいか、指定場所につく頃には運転技術はそれなりに上達したようだ。


「さ、さんじぇんえん、あ、お客様……」

「お前も一緒に来るんだよ」

 腕を捕まれた男は、事態を飲み込めずにまばたきを繰返している。

「ひぇ?」

 少しは俺の機嫌が良くなったんだ。あまりイラつかせるなよ。

「ひぇ、じゃねぇんだよボケ」



 芸能界、政財界に多くの太客がいることで、クラブ『トワイライト』は歌舞伎町で有名だった。そして影のオーナーが辻村御幸ということも、裏の人間の間では有名な話。

 表も裏も有名にせしめたのは、ある事件がきっかけだ。


 今から十年前――それまで銀座、六本木に店を構えていたトワイライトが歌舞伎町に進出してきた際に、快く思わなかったライバル店から雇われた半グレどもが、徒党を組んで連日連夜嫌がらせ行為をしかけてきた。

 そのおかげでオープンしたばかりのトワイライトの売り上げは大打撃を受け、従業員は辞めるわ、他店に引っこ抜かれるわで大変だったらしい。

 恐らく、半グレ集団も反抗らしい反抗がないものだから、ほんの少し調子に乗っていたのだろう。最初の数日で手を引いておけば良かったものを、なんと辻村さんが来店してる時に襲撃を仕掛けたのだ。


 当時十人いた幹部の中の一人だった辻村さんは、営業中に鉄パイプやら金属バットを手に怒鳴りこんできたガキどもを、吸い殻が溜まっていたクリスタルの灰皿一つで血の池に沈めたのだ。

 まぁ深紅のベルベットの絨毯だったから目立ちはしなかったようだが。

 表情一つ変えずに五人ほどを瀕死まで追い込み、後にガキどもの両親、親族、はては恋人まで、手を使って金になるものを毟りとったという逸話が、このクラブ『トワイライト』をある種の伝説にまで持ち上げていた。

 襲撃してきたヤツらは、その日に行方不明らしい。証拠もなにも残っちゃいない。


 恐怖を感じない俺でも、辻村さんがこれまで犯してきた所業の数々には耳を疑ってしまう。その凄惨さは、常人なら容易く吐いちまう内容のオンパレードだ。


 そんな人間が、たった今、バカラのシャンデリアが妖しく照らす店内の奥、選ばれし者しか立ち入れない個室で待ち構えている。

 外からは見えない仕様になっているその部屋は、トワイライト唯一のVIP席。成功者の証。

 両脇に頬から首元まで赤らめたホステスを侍らせて待っていた。

 銀縁眼鏡、グレーのストライプスーツ、白髪が五割のオールバックに撫で付けられたヘアスタイル。一見すると兜町にでも勤めている金融の人間にも見えるが、この人こそ次期井筒会組長と噂される辻村御幸、本人だった。

 まだ五十代という異例のスピードで出世した男の顔は、色黒でシワも少ない。三十代後半でも通じるような溌剌はつらつさと、年齢相応の静けさがボックス席を支配している。

 そこで、個室の中の微かな匂いに気がついた。



「お疲れ様です。遅くなってしまい申し訳ありません。ところで辻村さん」

 深々と頭を下げてお詫びをしながらも伺う。

「なんだ」

「ヤるなら俺も混ぜてくださいよ」


 広角を吊り上げる辻村さんは、無尽蔵の体力スタミナを誇ることでも有名だ。恐らく俺が到着するまでに何度かホステス相手にヤッてたんだろう。

 聴いた話だと、百メートルを十秒で駆け抜けるとか――それは流石に与太話だろうが。


「なら新人でも味見してみろ」

「押忍。喜んで」


 上から差し出されたモンは、最後までたいらげなければならない。

 ソファから突き飛ばされ、勢い余って俺の胸に飛び込んできたホステスは、まるで命乞いをするような顔で見上げてくる。

 やめろよ。そんな顔されちまったら、我慢できないだろうが。




 ベルトを締め直すと、用済みの二人は退場させられた。


「先ずは乾杯だ。いや、献杯か」

「押忍。献杯」

 しばらく無言で飲み続け、脱力感で一杯の体にアルコールが染み込み始めた頃、辻村さんは口を開き始めた。

「堂島はよ。同じ次期に部屋住みで一緒になった同期なんだよ。『辻』『堂』って略されて呼ばれてな。いつの間にかセットで『辻堂』って呼ばれるようになった頃には、力じゃ敵無しだった」

 普段は、どちらかというと沈黙を好んでいたはずだが、その日はやけに饒舌だった。昔を懐かしむように。


「それが時を経て、俺は大きく出世し、堂島は出世街道から転げ落ちて三次団体の組長止まり。それでもアイツの事は買ってたんだ」

「ウス」

「それなのにアイツときたら、勝手に福建のゴロツキどもと人身売買なんてシノギしやがって、利ザヤは全て自分テメェの懐とくれば許すわけにもいかねぇよな」

「ウス」

「だから処分した。お荷物が減ってせいせいしたよ」


 歌舞伎町は、「歌舞伎町浄化作戦」とやらで、表向きは確かに風俗店が減って漂白されたように見えるが、地下に潜れば巧妙に巣穴を掘った海外マフィアの連中や半グレ集団が蠢いている。

 それまで均衡を保っていた歌舞伎町という街を我が物顔で支配しているのはヤツらだ。

 その反面、ヤクザの規模は年々縮小していき、ピークでは二百件を越える組事務所が、今では数える程度にしか存在しない。ようはパワーバランスが崩れてるわけだ。内側と外側の。

 辻村さんは、ただでさえ気に食わない外様の連中に尻尾を振って協力していた堂島の兄貴が許せなかったのだろう。

 近いうちにこの街は治外法権のような土地になるだろうな、といつか辻村さんはボヤいていた。



「兄貴は死すべくして死んだ。それだけっす。それより話ってのは何ですか」

「これを見ろ」

 スーツの内ポケットから一枚の写真を取り出すと、生々しい跡で濡れたテーブルの上に放り投げた。

「これが、なにか」


 そこには、ただの家族が肩を並べて写ってるだけで、特になにもおかしな点は見受けられなかった。

 強いて言えば、俺がガキの頃に一枚も撮ることがなかった家族写真だなぁと、どうでもいい感想を持つ程度の平凡な写真だということ。

 その時――首筋を冷たいナイフで撫でられたような感覚に襲われた。正面を向くと、薄暗い照明が辻村さんの顔に濃い影を落としていた。

 奈落よりも深い、深い、真っ黒なうろのような二つの眼で見据えてくる。

 思わず手に力が入る。咄嗟に掴んだパンツにシワが寄るが、そんなことに気を割く余裕はなかった。

 ――もし、今、飛び道具でも出されたら反応できるだろうか。刃物でも出されたら避けきることはできるだろうか。


「そう力むな。ただ、劉、お前にはいつも通り仕事をこなしてきて欲しいだけだ」

 まだ暴れる心臓を鎖で何重にも抑え込み、弱気を悟られないように静かな顔で受け答えする。

 どんな時でも、ヤクザは舐められたらおしまいだ。それが身内であっても。

「理由はなんですか」

「知らなくていい」

 そう言われると知りたくなるんだな。命懸けでも。

「これ、中華料理の店っすね」

 写真に写る五人は、父親に母親、それと小学生くらいの男女のガキが二人と、さらにちっこいが女のガキが一人――赤い暖簾がかかった店の前で笑顔で写っている。

 顔の作りからして中国人のようにも日本人のようにも韓国人にも見えるので、人種までは判別できないが。


「これ、素人カタギすか?」

 質問に沈黙で返す。煙草を口に咥えるが、敢えて火はつけてやらない。ギリギリの攻防戦が続く。

「いつものように頼むぞ」

 別れ際に肩を掴まれ、耳元で囁かれた。

「お前は、俺を裏切るなよ」

 後は好きに飲んどけ――そう言い残して辻村さんは去っていった。

 残された写真の裏には住所と店名、それと標的ターゲットの名前も添えて。


「あ、忘れてた」

 ウチの系列の街金から、借りるだけ借りてトンズラしてた男を突き出すのをすっかり忘れていた。既に店内に辻村さんの姿はない。

 恐らく予定はぎっしり詰まってるはずだから、連絡を入れるのもはばかられる。


 ボックス席から出ると、きらびやかなクラブとは不釣り合いな見窄みすぼらしい制服に身を包んだ男が、顔を土気色にして立ち竦んでいた。

 必死に空気になりきろうと、息を止めて直立不動の姿勢で。お遊戯会の真似事でもしてるのかと吹き出しそうになった。

 ――お、そうだ。

 そこで、閃いた。

 ただ突き出すのは簡単だが、使える駒はいくらあっても困らない。壊れてしまえば捨ててしまえばいいだけ。

 脳内でガラクタの演算装置が働き、微動だにしない男をその日は五体満足で返してやった。

 まさか生きて帰れると思ってなかった男にしてみれば、九死に一生を得たとでもいうべきか。

 まぁ、これから俺が飽きるまでコキ使われることを考えれば、どっこいどっこいだがな。


 それよりも――


 俺の目線は写真の中の家族に向く。

 俺の嗅覚は何も捉えない。

 ただ、生臭い残り香だけが鼻孔をくすぐる。


 まぁ、考えてもしょうがない。

 俺はただ果たすべきことを果たすだけだ。



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