第2話

「遅かったじゃねぇかリュウ。昨日はついカッとなって殴っちまってスマねぇな」

押忍オス。自分は大丈夫っす」

 奥歯六本も失って平気なもんか。


 わざわざイタリアから取り寄せたというご自慢のソファに腰掛けると、堂島さんは決まって内ポケットからタバコを取り出す。俺はすかさず火を点ける。

 その一連の流れは、嫌ってなるほど繰り返されてきた。少しでも遅れたら、授業料は愛のこぶしだ。


 ライターをかざすと、タバコの先が震えていた。視線を兄貴の顔に気取られないようずらすと、その眼は虚ろ。

 どうやらも相当キマっているらしい。その証拠に、テーブルの上には使い捨てられた注射器ポンプが無造作に置かれていた。

 使用する頻度が、だいぶ短くなっているようだ。


 一昔前のように組事務所を持つことが難しい現在、外面そとづらは建築会社を装い、なるべく派手な装飾も控えてはいた。

 一見するとヤクザの組事務所というより、特殊詐欺の簡素なアジトにしか見えない。

 武骨なスチールデスクと、その上に置かれた電話機だけが寒々しいオフィスの一室を飾る。

 そうは言っても、ここでする仕事といえば若い衆が電話番をするくらいで、自分で言っててなんだが、まんまオレオレ詐欺のアジトと変わりな

 い。


 目の前には、使用済みの注射器ポンプと瞳孔が開きっぱなしの兄貴。

 こんな場面にガサ入れでもされたら、ひとたまりもないな――

 そう思う反面、そうなればニューナンブM60を手にした警察サツ相手に派手にたちまわれる――


「どうしたぁ」

「あ、押忍……なんでもないっす」

 暴力は麻薬だ。それもどんなドラッグよりも強力な。考えるだけで頭が痺れて手足が疼く。こればかりはどうしようもない。これが俺の性分なんだ。

「それでよぉ。今日は朝っぱらから来てもらったのには訳があるんだ」

「押忍」


 兄貴の頭上の時計の針は、まだ朝っぱらの十時を指していた。

 夜の八時くらいからが活動時間で、十二時を過ぎてやっと本調子の俺らヤクザからしてみれば、午前の十時なんざサラリーマンの終電間際の時間帯くらいじゃないのか?知らんが。

 電話番の若造もいなければ、関係者の出入りもない。つまり、誰一人事務所に来ていないということか。

 兄貴はいつもそうだ。こうして人払いを済ませてから、俺に色々と無茶難題を押し付けてくる。

 視点の定まらぬ黒目を歪ませながら、優しく、丁寧に――



 俺は混血ハーフだ。糞ったれのなかの糞ったれの親父フーチンが日本人で、売女バイタと広辞苑で引けば名前が出てきそうなお袋ムーチンが中国人だった。

 だったというのは、どっちもとっくの昔に死んだからだ。俺が幼いガキの頃に。

 在住権欲しさに結婚した母親と、ギャンブルの軍資金欲しさに結婚した父親――利害関係が一致しただけで婚姻関係を結んだ二人は、一つ屋根の下で暮らしていただけであって、男との間から糞のように生まれたのが俺、リュウ 英俊エイシュンだ。




 横浜、今や観光地として誰もが一度は訪れる猥雑な街――中華街で育ち、絵に描いたような極貧の幼少期を送り、十代の半分以上の年数は少年院で過ごしていた。

 そんな自他ともに認める悪を拾ってくれたのが、現在の兄貴分、井筒会傘下の堂島組組長――堂島春樹さんだった。

 人に感謝することなどなかった俺でも、実の両親ジャレンより面倒を見てくれた兄貴には恩に近いものを感じていたし、本当の父親のように思っていた唯一の人間と言ってもいい。


 その兄貴は、去年から売り物の覚醒剤シャブに手を出すようになった。多少ならそれもいいだろう。上納金さえ納めていれば問題はない。

 尻に火がついたのは、普段の仕事シノギに支障をきたすようになってしまってからだ。

 俺が事ある毎に殴られるようになったのも、物事を冷静に判断する思考力を失ってしまったからであって、四六時中妄想の世界に入り浸るようになった兄貴の処遇を上層部は問題視していた。


 いっそ破門にするか――そんな声も上がるなか、決定的になったのは、組で禁じられていたシノギに手を出していたことが発覚したからだ。

 俺としても、兄貴には覚醒剤シャブから手を引いてほしかったのだが、結局聞き入れてはもらえなかった。

 昔は惚れ惚れするような「悪」そのものだったってのに、今じゃそこいらの薬物中毒者ジャンキーとなんら変わりはしない。

 それよりもタチが悪いかもしれない。



「実はよ、近頃俺のことをコソコソ嗅ぎ回ってる奴等がいるんだよ……。きっと井筒会の組長である俺を怖れて、大竹のヤツらがスパイでも潜り込ませてるんだ。そうに違いねぇ。劉、お前にはそいつを見つけ次第処分してほしい。いや……俺の前に連れてこい。存分に可愛がってからでも遅くはないだろうよ」


 ヒッヒッと、よだれを垂らして嗤う兄貴は、大きな勘違いをしている。

 一つ、日本の二大勢力である井筒会と大竹組の組長だとしたら誰もが恐れるが、残念ながら兄貴はその三次団体の一組長に過ぎない。枝葉も枝葉。末端のボス猿だ。

 二つ、スパイとやらは存在しない。そんなまどろっこしいことはしない。証拠さえ掴めば即消すのがヤクザだ。

 三つ、そんで処分されるのは――アンタだよ。


 腰のホルダーからベレッタM92を最小限の動きで引き抜く。


兄貴ダーグァ、すみません」


「あへっ?」


 渇いた発砲音に続いて、半開きの口から間抜けな声が漏れでる。一瞬、淡い魂が見えた気がした。

 手元からは硝煙の匂いが漂い、視線の先にはご自慢のソファと背後の壁に、灰色と黄色が混じったような脳味噌と脳漿をぶちまけた兄貴が目を見開いて息絶えている。


 サプレッサーは、音が消えると勘違いしている素人カタギが多いが、実際はそんなことはない。

 高圧のガスが弾丸と共に発射される際に発する、甲高い発射音を押さえる事が目的で取り付けるが、それでも完璧な消音には至らない。

 実際はわかるやつが聴けばすぐにわかってしまう。だからこそ人払いしてもらう必要があったのだが、兄貴が人払いをしてくれていたのは、ギョウコウというやつだった。

 もし他に誰かいれば、同じようにしなくちゃならないからな。

 余計な手間はかけたくない。


 引き金を引くのはそう難しいことじゃない。生きてりゃ、どうせいつかは死ぬんだ。それがたまたま今日なだけだと思えば、死にゆく相手に銃口を向けるのは簡単そのもの。

 そんで、いつも引き金を引くときは恐怖におののく哀れな犠牲者のツラを拝んでから、お別れをすると決めていた。

 リョウシンの呵責だって?そんなもんはいつだって存在してなかったソウルドアウトさ。そんな俺をちょうどいい暗殺者アサシンとして使いたがる連中も、またリョウシンなんて持ち合わせちゃいないだろう。

 世の中なんてリョウシンを持たない者が勝つようになってんだから、そこのところは理解しておいた方がいい。

 俺はそれを五歳で知った。


 ただの肉塊と成り果てた兄貴のスプラッタ写真を撮り、ラインで送信する。十代の頃からお世話になったことを思えば、少しは悲しみに暮れるかと期待したが、結局恩に近い感情はあっても恩を感じたことはない。

 残念ながら兄貴の死をもってさえも感情の波は揺れ動くことはなかった。

「凪」だ。ベタ凪。


 すると、メッセージと写真を送った瞬間に既読がつく。

 まるで男の返信を待ち構えているティーンの女子供じゃあるまいし、どれだけ待ち焦がれてんだよ。


 俺の想いが通じてしまったのかどうかはさておき、相手から通話がかかってきた。

 今回の依頼主でもあり、雇い主でもあり、俺の両親を沈めたヤツ。どこにとは言わないし、知る必要もない。


「辻村さん。お疲れ様っす」

「おお、よくやったな。写真は確認したぞ」

 わかってるよ。すぐに既読がついたんだからな。

「これからこっちに来ないか。食事でもどうだ」

「押忍。ご一緒させていただきます」


 本家、それも直参の若頭、辻村御幸から一構成員への直通の電話など、普通に考えれば有り得ないことだ。


 もし、断ったら――そんな妄想に耽る。牙を剥かれたら、それはそれで愉快だろうなと、片隅で期待する俺がいた。



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