第69話 高級宿『翡翠亭』 前編

 二階のベッドはしばらくの間、お預けになった。床に直接、マットをおいて布団を敷くしかない。

 最初は心配したけど、お客様の大半が冒険者だから誰も気にしなかった。進撃隊の人達が言ってたように、野営でいろいろなところで寝ている人達だ。暖かい布団があるだけでもありがたいのかもしれない。

 だけど、そればかりに甘えてもいられないという事で今回は勉強だ。宿屋としての向上を目指して、今は王都内の高級宿『翡翠亭』にチェックインした。


「アリエッタ様、本日はお客様としてお越しいただきありがとうございます」

「こんにちは、オーナー。ディダクタル商会の件で伺った時に、素敵な宿だなと思ったんです。ゆっくりとくつろがせていただきます」

「これも縁ですね。心行くまでお楽しみ下さい」


 宿泊料金の段階で、一般家庭の人が聞いたらひっくり返るほど高い。

 私の宿とはコンセプトからして違うんだけどこっちもサウナやテラスだとか、参考すべき部分がある。

 他にも学ぶべきところがあるなら、どんどん吸収したかった。


「アリエッタ様、宿のほうは大丈夫なんですか?」

「定期的に転移で戻って確認するよ。だからフィムも、忙しくなってきたら少しだけ転移だからね」

「うー……お仕事が頭にちらつくのです!」


 私の宿はこういう人気の宿と違って、お客様の数にバラつきがある。

 以前よりも知名度が上がったとはいえ、一日いっぱい誰もこないなんて事も珍しくない。立地が立地だけに当然だった。


「まずこの部屋! 広くて解放感がある!」

「お屋敷のリビングみたいですね」

「そう! 私の宿の部屋みたいにベッドとテーブルを置くだけで終わるような狭さとは違う!」

「この布団の素材は何をぶっ殺して作ったのです!?」

「知らない!」


 フィムの基準がそこになりつつある。獣人の発想なのかフィムがこうなのか。

 部屋はくつろげるリビングと寝室に分かれていた。壁紙、絨毯、すべてのデザインや質に隙がない。しかも注目すべきはなんと。


「部屋にお風呂が備え付けられている!」

「しかも温泉です。露天風呂なので王都を一望できますね」

「その発想はなかった! なさすぎた!」

「どうして狭い風呂と広い風呂もあるのです?」


 フィムにはわからない。お客様によっては広いお風呂で皆と入るよりも、一人で浸かりたい人もいる。ましてやこの絶景つきだ。

 部屋の中に冷蔵庫まで備え付けられていて、中には飲み物がある。高級なお酒やドリンクがずらりと入っていた。


「今から大浴場に行くわけだけど、なんか怖くなってきた」

「競っているわけじゃありませんよ。楽しみましょう」

「そうなんだけどさ……」


 ミルカのほうが落ち着いてる。宿の亭主が慌ててどうするのって感じだ。平常心を持って大浴場に向かおう。だけど、そこで目を奪われた。


「浴槽が多い……」

「見てください、アリエッタ様。あそこ、自然の中にある滝のようです」

「自然の風景を人工物なりに昇華させた芸術がここにある」

「だいぶするのです!」


 純粋に楽しんでいるのはフィムだけかな。ダイブはさすがに止めた。

 その浴槽も白い湯や黒い湯、それぞれ効能が違うみたい。それと電気風呂ってなに。処刑用かな。


「あちらに日替わり風呂なんてのもあります。薬草を溶かして、体にいい影響を与えるようです」

「だ、ダメ……格が、違う」

「ア、アリエッタ様! うちの宿のほうが素敵なんですよ!」

「薬草なら飲んだほうが早いのです」


 フィムの暴走を転移で止めつつ、次はサウナだ。これ自体は私の想像通りで暑い。暑すぎる。


「ねぇ、ミルカ。これってさ、何がいいわけ?」

「汗を流す事に意味があるようですよ」

「転移層で弾きたい」

「暑いのですー!」


 フィムが秒で出ていった。子どもにはわからないらしい。私も子どもか。

 でもお客様が希望するなら考えたい。これなら私の宿にも、と思ったのも束の間だった。

 サウナから出ると隣にまたサウナがある。


「なんでサウナが二つあるの。え、ミストサウナ?」

「蒸気で汗を流すみたいですね」


「ちべてぇぇぇのです!」


 水風呂に飛び込んだフィムがあまりの冷たさに飛び出してきたところで転移させた。

 ミストサウナ内に入ると、確かに少し白く曇っている。


「なにこれ、全然暑く……いや」

「ジワリと汗が出てますね」


「あら、見た顔があると思ったら」


 こちらこそ見覚えがある顔だった。ミドガルズ本隊メギド隊の副隊長補佐アミーリアさんだ。

 美しいスタイルを余すところなく晒してサウナに入ってきた。


「王都まで転移でこれちゃうなんて羨ましいわ」

「えぇ、これは特権だと思います」

「ふふっ、謙遜しないのね」

「実際、便利すぎますからね」


 さすがにお風呂やサウナ内では水着じゃないか。私の宿の時もそうだった。

 泊まりに来た理由を話すと、アミーリアさんは含んだように笑う。


「それで、この宿を参考にしようとしてるのね。いいと思う。だけど、驚くのはこれからよ」

「え、お風呂だけで驚いてますよ。湯の温度も高温と低温で分けてましたし、特に水風呂手前のお風呂なんてのが絶妙でしたね」

「お風呂もいいんだけど食事よ。ここはビュッフェだから」


 ビュッフェ。事前の情報だと、いろいろな料理を自分で取り分けて食べるスタイルだ。

 これも驚いたけど、きっと見たらまた驚くんだろうな。

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