未知。仄暗い人生に潤いを与えるもの。
終業の鐘が鳴り、ほとんどの生徒が黙って学園を去っていく。少年は人の流れに逆らって、一人逆方向──校長室へと足を運んでいた。
『あーあ、またやっちまった!本当にごめんなぁ』
「別に。いつもの事だろ」
人は普通、強霊感のような特異的な力を持つか、或いは取り憑かれでもしなければ霊とコンタクトが取れない。この広い世界でルイが視える人間は恐らくこの少年だけだ。故に授業中に度々ルイと議論に興じる少年の姿は実に奇怪で、何かしらの医療機関の受診を勧められることもしばしばだった。議論も何も、ルイが話しかけなければ済む話なのだが──
『そっかそっか~!お前は本当に寛大だなあ。いやあ、マジで助かるよ。俺、死んだ割にはまだまだ喋り足りねーからさあ──ああ、そうだ!一つ賭けをしようぜ。次にあの角から飛び出してくる奴は何年生だ、とか、鶏が先か卵が先かとか……』
──常にこの調子なので、それはあり得ない話だろう。
◆
「入りなさい。えーっと……」
「セヴォン・ベッツェです」
「ああ、はいはい。どうぞ〜」
気の抜ける返事を寄越され、少年──セヴォン・ベッツェは小さくため息を吐いた。その風貌は高貴なものなのに、どうしてこの人はこうも締らないのだろう。『校長』と言うくらいだから敬意を払うべきなのは重々承知だが……まぁ、これはこれで良いのかもしれない。取り敢えず座るように促され、近くのソファに腰を下ろした。温かいコーヒーが心身に沁みる。
校長室は最も身近な異世界だ。
見た事もない謎の菓子受けに、やけに強い芳香剤とコーヒーと何かの香り。国中を見下ろせる大きな窓、奥の硝子戸から覗く綺麗なティーカップ──彼らは無機物だから何も話さないが、眺めているだけで自然と浮ついた気分になる。
──ちょっと人殺したいの。手伝って。
浮ついた気分、終了。
セヴォンは思わず咽かけたのを何とか耐えてコーヒーを飲み込んだ。
「……」口を拭う。「……はい?」
「そんなに驚く事かな。別に誰でも思い付くと思うけど。『あの教師いつかぶっ殺してやるからな』とか考えた事ない?」
「ありませんし、意味が分かりません。急に何を言い出すんですか?ちょっと人を……?」
「ああ、ごめんごめん。そうだね、アレはヒトじゃない──女神だよ、女神。どうしても殺したいの。力を貸して」
「女神様を……?」ますます意味が分からない。「私達がこうして平穏に暮らせているのは主の御陰でしょう?どうして……」
「──分かるよ。何か新しい事を始める時って怖いものだよね。でも、君はそれが好き。私、知ってるよ」
「それは、その……何の事だか。それより、どうしてそんな事を……?」
「分かった、分かった。言い方を変えるよ──本を作って。写本じゃないやつ。皆が夢中になるような凄いベストセラー。皆が君の本に夢中になって『水曜日のお祈り』を忘れたら弱体化するだろうし……うん。今回はその方向性で殺そう。ジャンルは旅行記が良いかな。世界中の未知を巡って日記書くだけで良い──ほら、これならどう?やってみたいでしょ?」
未知。
未知とはセヴォンの仄暗い人生に潤いを与える物であり、恐怖の対象でもあった。一度知れば知る前には戻れない──そのスリルが堪らなく好きだった。目の前の男が言うには、その世界中という場所は未知で溢れかえっているらしい。そんな事を知らされてしまっては向かうしかないだろう。セヴォンは喜んで旅行記執筆の依頼を受けようとした。だが──
──女神だよ、女神。どうしても殺したいの。
頭の中で例の一言が木霊する。意味が分からない。なぜ?どうやって?何の目的で?──誰もが抱く当然の疑問に校長は答えない。女神。絶世の美女。夜空に光るお星さま。お城で暮らす綺麗な人。全ての創造主。……貶めるとか、批判するとかならまだしも、命を奪うだなんて思考が極端すぎる。
(こういうの、何処に通報すれば良いんだろうな……)
セヴォンが通う学園にはスクールカウンセラーなんて居なかったし、進路やら何やらを相談しに行く個室もなかった。あるのは豪奢な聖人の五連祭壇画と奇譚を書き写す為の静かな部屋、女神が好きな白い花のレプリカくらいだった。
教師とのトラブルは親に打ち明けるのが定石だろうが、残念ながらセヴォンの親は今、目の前にいる男その人だった。正確には血を分けていないただの養父だが、血を分けた方の顔は見たくもない。他の相談相手と言えばルイくらいだが、彼は自分にしか視えない幽霊だ。困った。実に困った──
「この国から出られる」
校長の一声。
セヴォンは思わず目を見開いた。
──見開いてしまった。
─────
わたしにとって、世界というものはひとつの秘密であり、なんとしてもそれをこの眼で見極めたいと思っていたのです。──ヴィクター・フランケンシュタイン(メアリー・シェリー著『フランケンシュタイン』より)
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