嵐の前 Ⅱ

 ルイは無事だろうか?自分にはどのような処分が下るのだろうか?依代から離れた霊はどうなるのだろう?夜間という環境も相まって、セヴォンは必要以上に思い詰めていた。誰もいないロビーに腰を下ろし、落ち着きを取り戻そうとした。ところで、どのような事情でセヴォンの滞在が伸びたのか等という問題はザックには関係がなかった。彼は無邪気にも「まだ一緒にいられる」と喜び、失意の底に座しているセヴォンに再び白衣を持ってきた。はじめに見た時は喜ばしかったザックの笑顔も、今回ばかりは疎ましかった。そういうところだよ、と嫌味を吐きそうになった。だが──どうせ持つなら何かをしていた方が気が紛れると思い直し、白衣を受け摂る事にした。


 サミュエルからの新たな指示を待つ間、セヴォンはなるべく『雲隠』関連の雑務を選んでこなしていた。ザックの負担を減らしたかったとか、OBとして職員に恩を返したかったとかではない。なるだけ脳に刺激の多いグロテスクな雑務を選び、自身が置かれている状況以外の事で頭を満たそうとしたのである。個室の端に煌めくは、未使用の拷問器具。項垂れていた収容患者はセヴォンの入室に気が付くと笑みを浮かべ、まるで友人であるかのようにペラペラと話しはじめた。


「ああ、天使先生……まだ研修終わってなかったんだ。なんて言うか、すっかり天使らしくなりましたね。無感情に人間のこと死なせようとしてるのとか、本当にそっくりじゃない。……あーでも、あの子たちは先生が全身真っ白だから天使って言ったんですよね?なら、変えないと!何がいいかな?一緒に考えましょ!って、なんですかそれ?顎外すやつ?痛そうだなあ。隣のにしてよ」


 自身が目覚めた時のザックもこのような気持ちだったのだろうか──セヴォンは目の前の青年が話す全ての事を無視し、尋問を進めた。


 ◇


 青年は奇をてらった譫言うわごと──聖コールリッジに関する意味不明な妄言ばかりを繰り返した。「この施設にはコールリッジ様がおられる」「僕は、氏と氏の稚児に会いに来ただけだ」「お前らにこの熱を引き裂く権利はない」と。青年の少ない所持品の中に木彫りの像も確認されていた事から、職員間での青年に対する評価は【狂信者】に落ち着いた。


 セヴォンが以上の事をザックに伝えると、ザックは「その青年はコールリッジの事を何と説明していたのか」と勢いよく聞き返した。セヴォンの返答を聞いたザックは肩を落とし、「そんな人ですら、本当の話を知らないなんて……」と悲観に暮れはじめた。その落胆は、聞き逃すには含蓄のありすぎるものだった。


「……本当の話って?嘘の話もあるの?」


 もしも──もしも、奇譚に記されているコールリッジの逸話がだと証明できたのなら。それは、捏造した話を真実として記載した『女神奇譚』自体の信憑性を大きく揺るがす事に繋がる。そうして、かの奇譚は間違っていた?本当は女神なんていないんじゃないか?という意識を大衆に抱かせる事ができたのなら──それは、と言える。セヴォンは目の前の少年が語ろうとしている【本当の話】とやらに、眩い活路を見出していた。


 その晩、ザックが熱心に語った【本当の話】をセヴォンは今でも覚えている。

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