第7話 空の上、君は。

彼女の病室に行くと生前の彼女がいた時と同じ光景があった。

ただそこに彼女はいない。

主を失ったベッドが用無しの状態で置かれていた。

いつの間にか周りの機器は全て片付けられていた。

僕は彼女がかつて寝ていたベッドにそっと触れた。

そのシーツには彼女の香りが僅かに残っている気がした。

すると病室に看護師が入ってきて、シーツや枕カバーを外し始めた。

看護師は僕とは一度も目を合わさず、シーツを抱えて出て行ってしまった。

看護師が出ていく時にシーツとカバーの間から一枚の白い封筒が落ちた。

僕が急いで拾うとそれは、手紙だった。

封筒を開いてみると三枚の紙が折り重なっていた。

二枚が僕宛。一枚が家族宛であった。

それは彼女が僕と家族に残してくれた最後の「物」だった。

僕はベッドに腰掛けてその手紙の文字を目で追い始めた。


『河原君へ。

まずはありがとう、だね。私と仲良くしてくれてありがとう。

実はね、ブルームーンを見に行く前から体調が良くなくて、見に行くの辞めようかなって思ってたんだけど、君がブルームーンを私のために見せてくれるって思うと行かないって選択肢はなかったの。

私は悟ってたのかも。自分の余命を。

伝えたかったことは全部ブルームーンの時に伝えるかもだけど、ここでも伝えます。


君と出会ったのは今年初めての雪が降った日だったね。

君が素足の私を心配してくれて、声をかけてくれてすごく嬉しかった。

キャンプの時も、君は私を最優先にしてくれた。

いつだって君は私のことを気遣ってくれた。

君の優しさが本当に嬉しかった。

ブルームーンに誘ってくれた時もそう。

君は私の気持ちを少しでも晴れやかなものにしようって思ってくれたんだよね。

嬉しかった。ありがとう。


私は、君のことを想って日常生活の中でいくつもの選択をしていった。ちょっとだけがんばってみようかな、少しだけわがまま言ってみようかな、君が言ってくれたこと信じてみようかな、がんばり過ぎなくてもいいかな、自分を信じてみようかな。そうやって織りなすいくつもの小さな選択が最後には私の人生を作ることになった。君が与えてくれる選択肢が私の未来と可能性を広げ続けたんだよ。

苦しいこと、すごく沢山あった。死ぬのも本当を言えばすごく怖かった。

それでも私が生きていられたのは君がいてくれたから。君が側で支えてくれたから。

君と知り合えてすごく幸せだった。

君と過ごす毎日は私の人生をより楽しいものにしてくれた。

私の世界が広がった。

君から色々与えてもらって、教えてもらって。


私ね、君が嫌い。

なにも選択できないし、優柔不断だし。

面倒くさがりだし、可愛げもない。

だけど、嫌いだけど、それと同じくらい好き。

分かってくれるかな……?

多分これからも私が空の上で君を本当の意味で好きになることはない。

でも、やっぱり好き。

この気持ちがずっと心の中を蝕んでいて……。

自分でもどういう意味なのかよく分からなくなる時がある。

「好き」っていう言葉は必ずしも「愛」があるわけじゃない。

「大好き」だって同じ。その裏に隠れているのは逆の意味かもしれない。

こんなこと言うと人間不信になっちゃいそうだけど。

こんなこと言ったけど私の「好き」は本物だからね?

君が好きで嫌い。

君の優しさも、手の温もりも、性格も。

好きだけどその全てを好きでいられなくなる時がある。

君を好きでいていいのか自信がなくなる時がある。

君の優しさに自分の気持ちを殺したくなる時がある。

でも一つだけ確かなこと。

君と出会えてよかった。

君と話せてよかった。

君とキャンプに行けてよかった。

君とブルームーンを見に行けてよかった。

例えブルームーンが見えなくても。

いつだって私は君を信じてる。

だから君は自分のことを信じて前向きに生きてほしい。

君は君らしい人生を送ってね。

私は君の味方だし、例え、前に進むことが怖くなっても後ろ向きな言葉でも自分ってネガティブだな、って思っても今ここに存在してるだけで君は大切な人だよ。

今後ろを向いていても向いてるだけ。後ろに進んでないから大丈夫。

後ろに進んでいてもちょっと来た道を戻るだけ。

それから道を変えても良いんだよ。大丈夫。

休憩しても、その場で立ち止まっていても君が前に進みたい、って思っているなら、大丈夫。

今はそう思わなくても、休憩してるんだから焦らなくても良いよ。

十分に体力と気力を溜めて君のタイミングで行けばいい。

誰かと競争しなくても自分がベストだと思えたらそれで良いよ。

だって自分の人生だもの。

君は凄いよ。偉いよ。

もし、後ろに進んじゃったら私を思い出して。

君は何にでもなれる。

君はなんだってできる。

君は他人の人生を幸せにできる。

君の未来は無限の可能性が待ってるんだよ。

本当に本当に今までありがとう。

君が私の支えになってくれた。

短い時間だったけど私は君のお陰で強く生きることができた。

私は今でも思う。

あの時の手術を乗り越えていたらどんな未来が待っていたんだろう。

もし、この世界でまだ生きていたらどんな幸せを見つけられただろう。

私は、こうやって自分で自分に問いかけ、考えることで強く生きた。

だから、君も強く生きられる。誰よりも強く、真っ直ぐに。


君の人生は私が保証するよ。

君は大丈夫。何があっても。

私がいつも一緒だから——。』


僕は最後まで読んで今まで我慢していた涙を溢した。

僕はベッドの上で泣き崩れた。

彼女を失うのが怖かった。

彼女がいつかいなくなる現実から目を背けていた。

大切な人がいなくなることがこんなにもかなしいことだなんて思わなかった。


他人の僕に出来ることはどんな時も彼女のそばに居ることだけだった。

でも、それが彼女の支えになっていた。

彼女の気持ちが胸に染みた。

「好き」

僕はその言葉を読んだ瞬間、全身が硬直したように思った。

分かっていたのかもしれない。ずっと前から。僕と彼女はもうとっくに繋がっていたということを。



彼女は決して「死ぬ前に」というフレーズを使わなかった。

いつだって死ぬことを口に出したりしなかった。

僕は彼女を気遣った。

でも、彼女自身も僕を気遣ってくれていたのだ——。

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